森の変化
最初にイバラと出会った花畑にて右腕を回収した後、イバラは上半身だけの姿になり、モナエはまた腕を縫い合わせる。
初めて此処でイバラと出会った時より、随分と血の臭いは消えていた。
相変わらず、血の赤は鮮烈にその存在を主張しているが、時間が流れればいずれ消えるだろう。
右腕を縫い合わせた後、姿を変え先ほどより少し成長した姿を現すイバラ。
「んー! やっぱり体があるといいものだね、ありがとう」
子供の無邪気な笑顔に、心地よい声でお礼をされれば誰でも嬉しいだろう。
「あの、ずっと気になっていたのですが…その姿は何故変えれるのですか?」
魔物ハンターに出会った場所で起こった普通ではあり得ない光景を、今も見せられたのだ。気にしない方が難しいだろう。
太陽がイバラの草木のような緑の髪を、鮮やかに映しだし、モナエの目に刻み込む。
姿は子供であるはずなのに、何故か大人びたようにも見える彼の独特の雰囲気は、引き込まれる魅力があるのだと、モナエは薄々感じ始めていた。
「ああ、これね。僕の肉体の形を変えてるだけさ。ほら、粘土でこねる感じだよ」
粘土でこねるような動きをして優しげに言うイバラ。
「まぁ、元の身体の量が少ないとこうして子供の姿になってしまうんだけどね」
子供の姿も不便だけど、頭だけよりマシかな。なんて少し困ったように笑うイバラは、先ほどの無邪気な笑顔とは違う、大人びた表情になるのだ。
「その姿も可愛らしいですよ」
思わず、笑みを零してからかってみれば、顔を顰めて不機嫌そうにする。その姿は拗ねた子供のようだ。
「かわいいだなんて言われても嬉しくないよ。それに、かわいいって言うのはモナエさんみたいな人のことを言うんだよ?」
首を傾げてさも当然であるかの様に言うイバラの言葉に、モナエは受け止めきれずに考えがまとまらない。
「ええっ!? そんな私は、こっ……こんな雀斑だらけで、眉毛も太いですし……」
「そんなこと関係ないよ。僕がかわいいって思ったんだから」
かわいいだなんて言われたことがないモナエにとって、予想外の言葉にただネガティブな言葉しか呟けない。顔は恥ずかしさで熱をもち、耳まで赤くなっている。
「からかわないでください! ううっ……」
「からかってる訳じゃないのになぁ」
ふてくされたように頬を膨らませて眉を吊り上げるイバラに、余計に顔は赤くなっていくばかりだ。
「もう! 行きますよ!」
「え、あっ、ちょっと待ってよ! モナエさんー!」
恥ずかしさのあまり、その場を足早に去ってしまうモナエの後を、イバラも急いで追いかける。
目を閉じて、先ほどの言葉を心の中で反芻していけば、余計に顔が熱を持つのは分かっている。それでも、あの言葉は暖かくて嬉しいことには変わりはない。
鼓動がいつにも増して早くなる。ああ、もうどうしてこんな風になってしまうのだろう。
ふと瞳を開ければ、地面には鮮烈な赤が広がっていた。
普通であったはずの森が、赤黒く、染まっている。
空も、木も、地面も花も、全てが赤黒く。
「え? これは、一体……?」
風も一切吹かず、後ろから来ていたはずのイバラの姿も見当たらない。
「あの、イバラさん?」
何も聞こえない。不気味なほどの静寂。
静寂に体が蝕まれ、生まれるのは不安の蟲。不安の蟲は蠢き、心を少しずつ壊していくのだ。
ぞわりと、本能で此処は危険だと体は訴える。
早く、早く戻らなければ。イバラの居る場所に。
戻ろうと来た道へ足を向けた途端、ぐしゃりと生生しい音が背後から響く。
ぐちょぐちょと、肉を掻き回す音。不愉快で、不安を掻き立てる。
見てはいけない、振り向いてはいけないと本能が警告を鳴らす。
それでも、見なくてはならないような。目を背けてはいけないような思いが芽生えるのは何故なのだろうか。
逃げ出してしまいたいはずなのに、それなのに、体は後ろを振り向こうと首を動かすのだ。
すぐに見なければ良かったと後悔するだろう。
眼下には先ほどまで命があったであろう肉の塊。
鮮やかに地面を染め、白かったであろう体毛は無残にも抜け落ちている。
まだ、動いている。こんな肉の塊になってまで。
よく見ればウサギなのであろうか。耳は切り裂かれ形を失っていた。
赤い瞳が、モナエを真っ直ぐに見つめているのだ。
瞳には、憎悪、恐怖、絶望、全ての負の感情がその小さなものには押し込まれている。
重い、痛い辛い、抗えない恐怖、何も出来ない絶望。
いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌。
「……モナエさん! モナエさん!」
イバラの声で目が覚めると、先ほどあの状況を見ていたはずの自分は空を見上げていた。
心配そうにこちらを見つめるイバラを目の前にし、自分がようやく地面に寝ていることを確認する。
「はぁ……びっくりしたよ……急に倒れちゃうんだもん」
イバラは安心したようで、息を吐いて木の根元に座り込む。
周りを見渡せばいつもの森。赤黒い世界などどこにも存在していなかった。
「倒れた……?」
自分は倒れていたのか。だとしたらあの禍々しい恐怖は、夢だったのだろうか。
目の奥でちらつく肉の塊と鮮烈な赤が、モナエの身体を蝕む。
震え、汗は未だ続いており、頭は混乱のあまり悲鳴をあげ、抱えきれないほどの不安がモナエを襲う。
「目の前で倒れたから、ボクどうしていいかわからなくて、不安だったんだよ」
目を潤ませて、唇を噛み締めて涙を堪えるイバラに、未だ恐怖の最中にいるモナエにはその涙は一筋の光のようにも思えた。
「モナエさん死んじゃったらどうしようって……怖くて」
肩を震わせるイバラを、モナエは無意識に抱きしめていた。
恐怖は氷のように解け、それは涙へ変わりモナエの瞳から零れていく。
抱きしめたイバラは、小さくて、そしてとても暖かい。不安にさせてしまった罪悪感と同時に、自分の為に泣いてくれる彼に感謝していた。
「ごめんなさい、イバラさん。その、不安にさせてしまって」
恐怖で止められていた言葉も、ようやく吐き出せた。
森の風が心地よく体に吹きつける。ああ、ここはいつもの森だ。匂いも、風も光も。
何も恐れなどしなくていい。私の知る世界。
「ううん、謝らないで。こうしてモナエさんが生きてるならそれでいいんだ」
涙を拭いて嬉しそうに笑うイバラの顔は、太陽のように眩い。
こんなに、誰かに心配をされたのも久しぶりかもしれない。
今まで、殆ど人と関わることなどなかったのだから。
「もう、今日は戻りましょう。家に帰ってご飯を食べて早めに寝ましょう。そしたら、きっと大丈夫ですから」
イバラの頭をそっと優しく撫でれば、くすぐったそうにそれでも何処か嬉しそうに頬を染めて笑う彼。
「ふふっ、そうだね。モナエさんの手料理、食べてみたいなぁ」
ボク、人の手料理食べるの初めてなんだ。と今夜のご飯が楽しみなのか、モナエに抱きついて無邪気な笑顔で見つめてくるイバラ。
早く帰って、今日はいつもより張り切ってご飯を作らないと、嬉しい悩みで埋め尽くされる心に、先ほどの恐怖など隠された。
「さぁ、帰りましょうか。今日はオムライスにしましょう」
「おむらいす? よく分からないけど楽しみだなぁ!」
イバラの手を握って、闇に染まりつつある森をゆっくり歩いて行く。
握り返してくれる、小さな手はとても暖かくて、心地いい。
こんな風に並んで歩くのはいつ振りだろう。遠く昔の記憶だ。
曖昧で、暖かな懐かしい思い出。
森の中を進んで行くモナエの嬉しそうな笑顔を横目に見て、安心したように後ろを振り返るイバラ。
そして消え入りそうな小さな声で呟く。
「ああ、危なかった。もうすぐでばれてしまう所だったよ」
悪戯っ子のように笑って前を向き直れば、モナエが不思議そうにイバラを見つめる。
何でもないと首を横に振れば、モナエはまた嬉しそうに微笑みを零す。
二人が歩き去った場所には、虫の羽音が響き出す。
赤黒い物体に、虫が集っているのだ。生臭い腐臭が鼻につく。
もう生き物でなくなったその瞳は、感情などなく、ただ空を見つめていた。
鮮烈な赤は、日と共に暗がりに隠される。
虫の羽音だけが、規則的になるばかり。それは命を運びし死神だろうか。
もしくは、嘲り笑う悪魔なのか。知るものなど、誰一人いないのだ。