清志:第二の分岐点
中学の学生服を纏う若かりし頃――とは言っても四年前の自分を見て抱いたのは「真面目な少年だな」という他人事のような感想だった。
あの頃はまだ夢があったようななかったような、当時の様子を見ても思い出せない程執着がない。
ただ「真面目だ」と思うだけあって、素行は至って普通だった覚えはある。何もしないだけで「真面目」と言われるのだから、周りはよほどやんちゃな子供だったのだろう。
目の前には担任だった先生がいる。
――職員室か。
懐かしい顔ぶれがあちこちに見え、感慨深くなる。
「向こうから俺たちって見えないのか?」
「そうみたい。これは実際あったことの映像だから」
試しに教師の眼前で手を振るが反応はない。
「子供みたいなことしないでよ」
「確かめただけだろ」
呆れ顔の薫に、恥ずかしさを隠してむすっと返す。
――この後はそうか、こんなこともあったな。
『佐藤お前、生徒会の選挙に出ないか』
担任から呼び出されたかと思えば突然そんな話をされて、面食らったものだ。徐々に思い出す記憶に、清志はようやく「ああ」と納得がいった。
生徒会なんて面倒だが、やっても構わないと珍しく前向きになったのだ。
だが自発的に生徒会になりたい者がいた。
『俺にやらせてほしい』
名前は忘れたが、職員室から戻る最中クラスメイトの一人にそう言われ、やる気になった清志も初めは渋っていた。だが級友が『生徒会に、仲良くなりたい子がいる』と訴えるから、気持ちが急激に冷めて辞退した。
立候補した生徒がやんちゃな少年の筆頭だったため教師はすぐに頷かなかったが、清志の後押しもあって級友は無事生徒会役員になれたのだった。
一連の光景を二人で眺め、清志はふと疑問に思ったことを聞いた。
「ここで俺が辞退しなかったらどうなっていたんだ?」
「先生や他の生徒にも認められて、ちょっとだけ人徳が上がるんじゃない? この生徒には恨まれてたかもしれないけど」
「適当だな」
「どうなるかなんて、選んでみなきゃわからないもん」
「まあいいけど。やらなくて良かったよ」
後から知ったが、生徒会は清志が想像していた以上に大変だったらしい。彼が意中の生徒と親しくなれたかも定かではない。
「そうね。パ……あなたが人気者とか考えられない」
「うるせえよ」
視界がぼやけ、二人の前にあった光景が薄れていく。
不思議なものを見せられて、もう信じないわけにはいかなくなってしまった。
「本物だったんだな、それ」
それなのに不満そうな顔をする薫に苛立ちを覚えた。
――やっと信じてやったのに、なんだってんだよ。
薄れていく景色の中で少女が割込み、帰宅途中の清志を呼び止めた。
『清志君、生徒会やらないの?』
『やらない』
『そう。残念だな』
――ああ、あんな会話もしたっけ。
少女の顔を見る前に映像は途切れ、元いた部屋に戻ってきた。足元から這い上がる冷たさに震え、窓の外を見ればすっかり日は暮れていた。
「今日はもう暗いから帰れ」
「え? 泊まっていいでしょ」
仕切りなおそうと前向きになったはずの気持ちが一気にしぼんでいく。
「いいわけないだろ」
得体の知れない少女を部屋に入れただけでもありえないというのに、泊らせるなどもってのほかだ。道徳的にもよろしくない。
「でも、ターニングカタログを使うまで帰れない」
「じゃあさっきのでいい。受験のインフルエンザだっけ。一週間早めてくれ」
「駄目!」
「なんでだよ」
決めたというのに否定され、清志の機嫌は降下する一方だった。
たとえ可愛い少女といえどそっちの趣味がない清志に身勝手なわがままは通用しない。
――多少は、だが。
「だって、今と変わらないじゃない」
「変わるかもだし変わらないかもだろ」
「とにかく駄目なの!」
頑として譲らない薫に清志は大きな溜息を吐き、戸棚の封筒からお札を一枚出すと財布にねじ込んだ。
「漫喫行くから、勝手に寝ろ」
痛い出費だが致し方あるまい。いざという時に取っておいたものだから、今まさに使うべきだろう。
部屋を出ると玄関が開く音がして、靴を履きかけた薫が着いて来る。
無視をして足を進めると、ご丁寧に鍵をかけて駆け足で追ってきた。
清志は振り返らず進める足を速める。冷たい空気が鼻の粘膜を突き刺し、乱暴に鼻の頭を拭った。
「待ってよ!」
心細そうな声に後ろ髪を引かれるがここで振り向いたら薫の思うつぼだ。平和な日常に突然乱入してきた薫にかける情けはない。
「待って、よ」
――ああ! もう!
嗚咽の混じる声にさすがの清志も足を止める。
「なんで着いてくるんだよ」
「だって、一人じゃ嫌だもん」
「お前……」
清志の怒りが頂点に達する前に、二人に近づく影に気が付いた。
「君、ちょっといいかな」
人生で関わりたくないランキングがあればナンバーワンになるであろう、警察官が「怪しい」という目付きで清志を見ていた。
気軽に声を掛けてくるが清志が何かをしたと決めつけた目だ。
「お兄ちゃん何か悪いことしたの?」
「おまっ」
身代わりの早い薫に驚愕を示しつつ、下手なことを言って無実の罪で連れていかれるわけにはいかないと清志は口を噤んだ。薫に任せるのはいささか不安があるが、薫が原因でもあるのだ。
「君は、妹?」
「そうです。親は違うから苗字も違うけど、小河原薫って言います。元は佐藤薫です。お兄ちゃんに会いに来ちゃいました」
「念のため身分証をいいか」
「はい」
薫は淀みなくポケットから学生証を取り出して警察官に見せた。念の為――信じてはいない――清志にも提示を求める。
――つうか、小河原ってこいつの苗字なのか?
清志の中である疑問が浮かび、薫への不信感は募るばかりだった。
「妹さんは大事にしなさい」
薫の証言に嘘偽りがないと判断したのか、警察官は渋々といった様子で去って行った。
姿が見えなくなると心臓が一気に鼓動を速め、背中から嫌な汗が伝い落ちる。悪いことをしていないのに、嫌な体験をしてしまった。
「あーびっくりした!」
「お前のせいだろ」
「大事に至らなかったからいいじゃない」
そういう問題ではない。
先ほどまでの殊勝な態度から一転、けろりとした様子で言う薫が憎らしい。可愛さ余って憎さ百倍である。
「なんでこうなるかなあ」
「お兄ちゃん帰ろう」
わざとらしく言い、腕まで組んでくる薫を清志は振り払うことができなかった。
――くそっ。
心の中で吐いた悪態は行き場もなく再び清志の中に溶けていく。
来た道を戻り、清志はタオルをジャージを渡すと布団を畳に敷き箪笥の奥から寝袋を引っ張り出した。何かあった時のための用意が今日だけで二度も役に立ってしまう――一度は不発だが――ことに釈然としない思いを抱く。
薫が風呂に入っている間に清志はお札を封筒に戻し、数回分の溜息を一度に吐き出した。
肺の中の空気がすべて抜けると、大きく息を吸って再び吐き出す。
少しだけ気持ちが落ち着き、携帯電話で時間を確認すれば十時を過ぎていた。自分にはまだ早い時間だが、薫はもう寝る頃合いだろう。
「あー、さっぱりした」
タオルを肩から下げた少女の頬は赤く色づき、毛先からしたった雫が張りのある肌を伝い落ちる。
「お前! 頭ちゃんと拭けよ!」
「この部屋ってドライヤーないの?」
「ない!」
「うっそ、信じらんない」
ぶつぶつと言いながら薫はタオルを広げて毛先を挟んだ。ふわりと香るシャンプーの匂いは自分が使う物と同じはずなのに、彼女から漂うといい匂いだと感じてしまった。
――いや、俺はロリコンじゃない。
十五歳の少女に欲情する趣味はない。それなのに、守ってやらなければと思う自分もいて、二つの感情に振り回される状況に嫌気が差す。
「まだ湿っぽいけど、いいか」
「いいならいい。布団はそこ。客用じゃないけど我慢しろ」
「別に平気だよ。清志は、もしかして寝袋?」
「そうだよ。寝るぞ」
「お風呂は?」
「明日。どうせ寝ぐせが付くから」
「そう」
薫が布団に入るのを確認すると、清志は電気を消して自分も寝袋に収まった。少し寒いが仕方ない。
「あのね」
目を閉じてすぐに声がして、清志は寝たふりをしようとしたが素っ気なく返事をしていた。
「今日私の誕生日だったんだ」
「ケーキなんてない」
突然の告白に訝しむ。今頃そんなことを言われても清志にはどうしようもないし、する気もない。
「いらない。でも、おめでとうって言ってほしい」
「……おめでとう。寝るぞ」
「ありがとう! おやすみなさい」
たった一言『おめでとう』と言っただけでこの喜びようだ。薫という少女の生い立ちを疑いたくもなる。
誰が見ても可愛いと答え、奇抜な服さえ着こなし、最低限の常識――清志に対する態度以外――を持ち合わせている薫は、家族に愛されて育ったイメージがある。
それなのに、時折見せる寂寥感漂う顔が頭から離れない。
――まったく、なんだってんだ。
まだまだ宵の口だが瞼を閉じれば緩やかに睡魔が訪れ清志は眠りに就いた。