命名と遭遇
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転入一日目の朝を迎えました。
早速ですが、直面している今この時。
まず、目の前にあるのは究極の寝癖。
いっそ芸術性を感じる代物です。
「う~ん、話で聞いてた通りだ。見事な半透明だね。よし、じゃあ君は今日から心太だ」
……ところてん。
これ以上は望めないような軽めのノリで、命名されたのが一拍前である。
今日から、心太になりました。
……なりました?
言うまでもないと思う。
まず、登校して足を運んだ先は職員室だ。
そこで理事長から紹介されたのが、上の発言兼命名を行ったクラス担任である。
挨拶をして早々にこの流れ。
流石の自分も耳を疑った。
流石の、のくだりはつまり家にいる父親の存在を加味したものです。
空気を読めない人に対応するときは基本は三点を念頭に置くと良。
一つ。スルーする。
二つ。取り敢えず頷いておき、本題を再提示。
三つ。端から認識しない。事後承諾。
ああ、脱線しました。本題に戻らないと。
耳を疑ったというのは、実は命名そのものではなく。実際のところ、挨拶も本名は名乗りません。
この学園の規律であり、オカルト界における最低限が詰まるところ『名を名乗らないこと』であるので。
何故?
そうだね。現世ではあり得ない話でした。
礼儀云々ではないのです。
基本認識を要約するとこうなります。
『名を知られる』こと即ち、生殺与奪ご自由にどうぞ。
大袈裟な?
いいえ。これは両親にも、理事長にも再三に渡って言い含められていること。
つまりオカルト界における常識だ。
常識こわい。オカルトこわい。
具体的には、名を知られれば正体が知れる。
正体が知れた怪異は、呪いを受けることがある。
呪いを受けた怪異は、消滅することがある。
つまり、向こう側で言うなれば『殺る』手段として名が使われるのだ。
効率的なのだ。
だから、簡単に名を名乗るなどあり得ない。
身内、一族内であっても名を知らないのが寧ろ当然な世界である。
そこで、問題。
ではどのように呼び合うのか?
まず一番簡単なのは、その怪異を示す名で呼べば良い。個人名ではない、 役柄の名。固有名詞だね。
けれども、大抵それでは解決しない。
それは、唯一無二でないならば当然出てくる問題だ。
複数存在する怪異。元からある名称が曖昧もしくは地域差があって統一されていない怪異。それに加え名称自体が確立していない異種混じりの怪異。
無論、自分は一番最後に当てはまる。
さて、どうするのかな。
呑気に構えていたのがいけなかったのだろう。
自業自得と断じられればそれまでだ。
学園から、名を贈られることは予め知っていた。
それでも、まさかのノリだった。
これは完全に虚を付かれた。
雲外鏡の眷族にあたるというクラス担任。
雲外鏡とは、九十九神の一種で鏡の妖怪だ。
魔性を暴く性質を持つ。
しかし、今はそれは横に置きたい。
名を贈られるのは、寧ろありがたい話だ。今後の学園生活を送る上での第一歩と言えよう。大切だ。
けれども、言いたい。そして聞きたい。
……他にも、半透明なものはあると思う。
なぜ、一択。それも心太。
最近食べたのか?
寧ろ好物とか?
隠しきれなかった。
まだまだ未熟だということかな。
大半は飲み込んだ。しかし残る僅かでも、確実に感情は伝わっていたことだろう。
何処から取り出してきたものか。
理事長が構えた鉄扇で、クラス担任はその場に崩れ落ちた。それは見事な軌跡を描いて後頭部を直撃していた。
勿論、加減されていることだろう。
それにしても、母と被った。やはり、行動が似るのは姉妹だからなのか。 もしくは…
いや、今は深く考えたくないな。止めよう。
「翔摩……。日頃から名付けの才に乏しいとは思っていたが、まさかこれ程とはな」
思いの丈を代弁してくれた叔母へ感謝しつつ、憔悴した面もちの彼女と、未だに頭を抱えたまま蹲るクラス担任の間に立った。
暫くは逃避に走った感情も、間を空ければ落ち着いてくる。ここで足踏みしていても、何も始まらない。
だからこそ、自分は選択する。
「…心太で構いません。自分が半透明であるところは正確に表せていると思います」
「日和の……本当に君という子は」
何故か物凄く涙ぐまれている。
止めてください。複雑だ。
実際のところ、それほど悲惨な呼び名でもないと自己暗示を繰り返している自分が惨めになるだろう。
……空気を読んでください。
「そうだよね…! いやぁ、分かってくれて嬉しいなぁ」
うん。思ったよりかは早々に回復されましたよ。
呆れを通り越して、寧ろ感心を覚えます。
瓢箪君といい、めげない心根は見習いたい。
因みに今朝も挨拶をしてきました。
何故かな。とても疲れた顔をしてましたね。
この間、周囲からは氷点下を思わせる冷たい視線がクラス担任へと集中していましたが。
肝心の当人がまるで気付く素振りもないことで相殺されました。
「さて、じゃあ早速教室へ行こうか。まぁ、気楽に構えてればいいよ」
寝癖をがしがしと櫛梳りながら、気儘に歩き出したクラス担任の背について職員室を出た。
未だに涙目の理事長へ一礼し、早足で去った少女の背を見送った教師陣。
彼らの背が見えなくなった途端、口々に理事長へ詰め寄っていく。
「理事長……あの名前はあまりにも」
「今からでも遅くありませんわ。理事長自ら改名なさっては……」
「健気だなぁ……今時の怪異とは思えない」
一様に同情票を集めた命名であったが、このあとに巻き起こる騒動に比べればまだ平和なものであった。
後々、この場に居合わせた教師陣は揃って語ることになる。
職員室をあとにした少女はと言えば。
まさかにそんな同情票を集めているとは知る由もない。
担任の背を追って廊下を幾度か曲がり、丁度裏庭に近接する渡り廊下に差し掛かっていた。
裏庭に青柳が植えられているあたりは、やはりあえて狙ったものかと思いを馳せ、通りすがった彼女の耳が微かな違和感をとらえる。
担任の鼻唄の合間に辛うじて聞き取れた数人の声。
囁き合うようなそれでも、少女が足を止めたのはその声に独特の雰囲気を嗅ぎ取ったからだ。
一方の担任はと言えば。
少女が足を止めたことにも気付く様子はなく、そのまま鼻唄に興じながら歩いていたため、少女が耳を澄ませている間にその背は渡り廊下の向こうへと消えていった。
良いのかそれで。
しかし、少女は置いていかれたことに気付いていたが今はそれどころではない。
寧ろ些事だ。
一呼吸置いて、慎重に踏み出した先はやはり想像を裏切らない光景。
意識して透明度を高めていく少女に、『彼女たち』はまだ気付いていない。
裏庭の柳の下で、周囲からは見えにくい死角を利用して囲まれているのは臼緑の怪異だ。
構図はこうなる。
一人対三人。一人を囲む彼女らも、囲まれているのも皆さん女性の怪異だ。
遠目なので断言は出来ないが、囲まれているのは河童少女と見える。
そして、囲んでいる側の三人は一見しただけでは目立った特徴がないので、何の怪異かはよく分からない。
しかし、全体に濡れている。
大まかに水辺の怪異かな、と宛をつける。
因みに彼女たちの会話は途中経過で、こんな感じでした。
「身の程を知りなさい、河童風情が」
「そうそう。立場を弁えれば、あんな恥知らずな真似はできないわよね」
「今からでも遅くないですよー。ほらー、額を地面に擦り付けて謝りなさいなー」
真ん中、左側、右側の順に上の発言でした。
因みに自分から見てなので、囲まれている当人からは左側右側が逆になりますね。
いや、今はどうでもいいかな。
起因になった事情までは察せない会話ではあるが、大体でつまり因縁をつけられているという解釈で良いのだろう。
そう。言い掛かりだよ、多分ね。
さて。これを止めさせるにはどう足掛かりをつかんだら良いかな…。
柳の影に潜んで動向を見守っていた。
言い合いだけなら、わざわざ仲裁に出ていく必要も無いだろうという判断に傾きかけていた。
しかし、事態は悪化する。
どうやら、河童少女は見た目の可憐さからは予期できない芯の強い子だった。
踏みにじられるような発言の数々にも、毅然として彼女らを見据えていたくらいだ。
一向に意思を折らない彼女の様子に、どうやら囲んでいる三人の方が先にキレてしまった。
「…っ、生意気な目だこと。もういいわ。葵、碧。体を押さえてしまいなさい」
中心の一人が発した声に、素早く動いた左右が抵抗して身を捩る河童少女を湿った地面に押さえつける。
それを満足げに見下ろしながら、命令を下した彼女が河童少女の頭部へゆっくり手を伸ばした。
ここで、魂胆が知れた。
あまりにも過ぎた行為とその卑劣さ。
彼等は、河童の命とも呼べる皿に手を出すつもりだ。
もはや看過する必要はない。割り切れば、あとは動くだけだ。
「後悔するのね。これも元はと言えば貴女自身が招いた結果なのですもの」
ふふふ、と醜悪な笑みを浮かべて皿を掴み上げようと伸ばされる手。
それから逃れられず、悔しさに目を滲ませながら見据えていた河童少女。
しかし、次の瞬間には目を見張る。
皿に手を伸ばしている側には見えないその異様な光景。彼女たちが気付く前に事は始まっていた。
もう、あと僅かな距離。
指先が触れたか触れないかの刹那。
まるで計ったように、土塊が無数に降り注いできた。
なかには、ミミズやら百足やら無数に蠢く塊もある。
視線の先には、何もない。
何もない筈の空間から抉り取られた土塊が、止めどなく此方へと向かってくる異様。
彼女たちも紛れもない怪異には違いなく。
しかし、それは咄嗟に把握するにはあまりに突発的に過ぎた。
何しろ、対象が目に見えないのだ。
「…だ、誰なの?! 姿を見せなさ、…うぐっ、」
中心にいた彼女が、見事に口許に土塊の直撃を受けて声を途切れさせる。
そして、直後に凄まじい悲鳴をあげた理由はつまりあれだ。
蠢くモノたちの活躍だろう。
言うまでもないね。
その悲鳴を聞いて残る二人が動揺しないわけもない。
河童少女の視界に広がるのは。
訳の分からない光景。
止む気配のない追撃。
虚を付かれた三人は銘々に訳の分からないことを叫びながら散っていった。
そしてその背に尚続く土塊攻撃。
彼女たちの悲鳴が遠くなったのを確認したように、ようやくここで追撃が静まった。
茫然と膝を付いたままの河童少女である。
静寂を取り戻した裏庭一帯を見渡し、土塊が生み出されていた辺りに目を凝らしたが、やはり姿は見えない。
抉られた地面は確かにあるのに、肝心の存在が認知出来ないせいでまるで白昼夢を見たようだ。
河童少女は気付いていた。
無数に降り注いできた土塊ではあったが、それらは狙ったように三人へ向けられており。
一つとして、彼女自身には当たっていない。
あれは、明確に三人だけを追尾していたのだ。
彼女を助ける為に行動してくれたであろう、誰か。
けれども、静寂を取り戻した裏庭に姿を見せない。
「……ねぇ、いるんでしょう? 姿を見せて。あなたは誰?」
あてもなく放った問い掛けに、僅かに視線の先の空気が揺れた気がした。
視線をその辺りに定めて、もう一度口を開こうとした。
けれど、思いがけないことが降ってきた。
文字どおり、降って湧いたそれは。