191 万千代の問題
万千代が新設された上国家の当主となったのと同時に、俺は彼の後見人となった。
万千代がメルティーニ家の末裔である可能性がある以上、たとえ誰であっても彼の上に立つことは出来ない。だが、現実問題として彼は当主として独り立ちするには数多くの問題が存在した。
それらの問題が解消できるまでの間、俺は後見人という立場で彼を支える必要があった。
そして万千代が抱えている問題とは――――
■ ■ ■ ■ ■
「万千代様、今日は『いろは歌』を使って仮名を覚えてもらいますぞ」
「……」
千徳城に戻った翌日から、万千代は城下の寺で僧侶から読み書きを習うことになった。俺も万千代の様子が気になるので、初日に限って彼の学習風景を見守ることにっした。
だが万千代は僧侶の言葉を聞いても口元一つ動かさず、無表情のまま机へと向かっていた。
「まずは“いろは”の“い”からですぞ」
そして僧侶が文字を一文字ずつ写すよう指示が出るが、万千代は筆を取ることなくただひたすらボーっと何もない空中をただ眺めるばかりであった。
「ま、万千代様? ともかく、まずは“い”の文字を……」
「……」
その後も僧侶は繰り返し万千代に指示を出すが、万千代は一向に筆を執る様子を見せなかった。。
「万千代様!」
「……」
怒るわけでもなく逃げ出すわけでもない。ただひたすら無反応の万千代に僧侶はあれこれ手を尽くすも何も返されず、とうとう僧侶自身が疲れ果ててしまった。
「不破様……拙僧は如何致せばよろしいのでしょうか……?」
早くも心が折れかけている僧侶に問いかけられるが、俺にも有効な策は見いだせなかった。
「と、とりあえず読み書きは後にして、礼儀作法の勉強に移っていこう」
「はっ」
埒が明きそうになかったので、礼儀作法の学習に移らせることにした。が、ここでも万千代は無表情、無反応を貫き、ただ空中を眺めるのみであった。その様子は、まるで目には見えない何かに心を奪われているようにさえ感じた。
「不破様……申し訳ございませぬ……。拙僧には如何ともしがたく……」
「悪い……ちょっとこっちで対応を考えてみるよ」
俺は万千代を連れ、そそくさと寺を後にした。
よくよく思い出してみると、徳山館で万千代を正式に御披露目したときも、彼は一貫して無表情、無反応のままであった。ただその場に飾られたお人形のように。
ここで俺はある仮説を思いついた。「万千代は日本語がわからないのではないか?」と。
ヴィクトリアをはじめ、同じ異世界人であるはずの「ミズガルズ」の人々が何故か日本語を理解できているので疑問にも思わなかったが、本来異世界人である万千代が日本語を理解できないのは当然の理屈。
ならば世界樹のお膝元であるアイオニオン大陸の言葉なら理解できるのではないか? そう考えた俺は、次にヴィクトリア達異世界人に万千代の教育をお願いした。
だが、結果は変わらなかった。
「万千代、この3番目の文字を書き取りなさい」
「……」
「万千代?」
「……」
「万千代、聞いていらっしゃいますの?」
「……」
千徳城の一室、西洋風に改造された万千代専用の書斎で彼への教育が行われた。
だがヴィクトリア達の懸命の指導も虚しく、万千代は用意された書物には目もくれず、うわの空のまま壁をひたすら見続けていた。
「……ふう、なかなか骨が折れますこと。万千代の教育は並の人間には務まりませんわね」
「やっぱりダメだったか……」
「大陸標準語、古代ミュルクヴィズラント語、中世ミュルクヴィズラント語、北部ユングリング語、南部ユングリング語、典礼パトロヌス教会語……大陸じゅうのありとあらゆる言語を使ってみたけど、何一つ伝わらなかったよ~……」
「そうか……」
「同じく大陸じゅうの文字も教えたッスが、何一つ理解してくれなかったッス……。そのうえ、メルティーニ家が拠点を置いたとされる異世界『アースガルズ』の古代文字が通じなかったのは意外だったッスね……」
「アースガルズ?」
「……パトロヌス教で……神々が住まう……とされる世界のことです……」
「なるほど……」
「正確には自分達が教えたのは”『アースガルズ』から伝わったとされる文字”なんッスけどね」
「それが本当なら、万千代がメルティーニ家の子孫という説も怪しくなってきますわね」
言葉も文字も通じない天使の御子、上国万千代。その後も彼の教育方針を巡って様々な案は出たが成果には結びつかず、暗中模索の日々が続いた。
■ ■ ■ ■ ■
さらにもう一つの問題。それは万千代の身体に関する報告を受ける中で発覚した。
「……万千代様の身体的特徴ですが……聖典に記されているメルティーニ家の人間の特徴と……多くが一致しました……」
「体つきはメルティーニ家のそれと一緒か。でもそうなると、『アースガルズ』の文字を理解できなかったことがますます気になるな……」
ビルギッタから寄せられる報告の数々。それらに耳を傾けていると、ビルギッタは突如体をこちらに寄せ、耳元でそっと囁いた。
「……それと武親さん……その……万千代様の体の件で……一つ申し上げにくいことが……」
「何だ?」
「……。……それは……私の口からはとても……」
ビルギッタは頬を赤らめながら顔を背け、季貞に発言を促すように視線を向けた。
「某でござるか?」
「……すみません……お願いします……」
「致し方なし。ならば某から申し上げよう」
万千代の体に何か不都合なことでもあったのだろうか? それにしても頬を赤らめる
季貞の口から耳を疑う台詞が飛び出した。
「……無かったのだ」
「はい?」
「何も無かったのだ。万千代の股ぐらには、本来子を成すうえで欠かせぬ男根も女陰も、どちらも見つからなかったのでござる」
「な……ななななななな……なんだってええええ!?」
男根と女陰。敢えて解説するまでもないだろう。生まれつきの欠損や手術による切除でもない限り、俺達の股間にもどちらか一方は必ずあるはずのアレのことである。
ところが万千代には、そのどちらも存在しないという衝撃的な事実が発見されたのであった。
当然、城内の響めきは凄まじく、いつまでも止むことはなかった。
「は、破廉恥ですわよ季貞! 公の場で、そのような発言をするなんて……どういう神経をしていらっしゃいますの?」
「だ、だだ、男根って……あ、あれッスよね? そ、その……おちんち……」
「す、季貞っちの……スケベさん」
「な……某はありのままを申し上げただけでござる! にもかかわらず、某を非難するのはお門違いではござらんか? そもそもお主らとて五郎の男根を……」
「騎士の雷撃!」
「ぶほわっ!?」
有無を言わさぬヴィクトリアの一撃で、季貞の体は高速で評定の間の外へと飛ばされた。
「び、備中守さん!」
「余計なことを仰った罰でございますわ。さ、彼のことは気にせず続きを……」
「お待ちくだされ!」
「うええっ!?」
凄まじい勢いで吹っ飛ばされたはずの季貞であったが、驚異の回復力で評定の間へと舞い戻った。
「なんという回復力……」
「そもそもビルギッタ殿のような女子が口にするには憚られる話だからこそ、某が代わりに申し上げたのだ。にもかかわらず、某を攻撃するとはあんまりではござらんか! お主もそうは思わぬか? 南条殿?」
「浴場で欲情するような好色家の備中守殿に言われても説得力がないでありますな」
「な、南条殿まで……」
宗継にも見捨てられ、完全に孤立した季貞はそのまま評定の間の隅でいじけてしまった。
「いいでござる……。某には、ただハーコン殿がいればいいでござる……」
そんな季貞はさておき、会話は次の段階へと移っていった。
「び、ビルギッタ殿。その『アースガルズ』とやらの世界では、万千代のように男でも女でもない者というのはよくあることなのでありますか?」
「……いえ……多くの神々は性別が判明しており……神像にも……その……せ、せせせ……性器……が……か、描かれて……あります……」
「左様なら、万千代はやはり特別ということでありますな」
もちろん性別の無い神様もいる。日本神話では、天地開闢の時に現れた別天津神と呼ばれる神々は多くが無性であり、キリスト教の天使にも性別が無いとされる。
万千代がそれら高位の霊的な存在だとすれば、無性でもおかしくはないと考えられるが……。
「……オホン。実際の性別はともかく、上国家の当主とした以上、万千代は表向きには”男”として扱う。後々問題は出てくるだろうが、それはその時に考えよう」
実際の性別は不明。さらに万千代自身言葉が話せないため、性自認も不明。
以上のことから、万千代の性別問題は「当面は男として扱う」という形で事実上先送りにせざるを得なかったのであった。