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167 浪岡北畠家との戦い

 陸奥・油川城(現・青森県青森市)。津軽攻めをまかされた広益達の勢いも凄まじかった。


 獣人部隊が多く所属する津軽方面隊は、外が浜より南部領に進攻。

 南部領上陸当日には大開城(現・青森県東津軽郡今別町)を落とし城主の平俊忠(たいら・としただ)を捕縛。さらに、勢いそのまま外ヶ浜の各城を陥落させ、上陸4日目には油川城まで進出した。

 史実では油川城主・奥瀬善九郎(おくせ・ぜんくろう)は津軽藩初代藩主・津軽為信(つがる・ためのぶ)の進軍を受け、戦わずして田名部領に逃走したが、今回の獣人と魔法使い多数を含む5000の軍勢からは逃れられなかった。


 外ヶ浜一帯を破竹の勢いで制圧した広益は有頂天に達していた。


「がーはっはっはっはっはー! 南部の弱兵ごとき、この長門広益の敵ではないわあ! がーはっはっはっはっはっ!」


 一方で、城の主郭で盛大に高揚する広益を、他の将達はやや遠くから冷ややかに見つめていた。


「緒戦を制しただけで、ああも喜べるとは幸せな男だ」


「南部の本領はこれから也。斯様な様子では、先が思いやられ候」


「それに、実際の指揮は殆ど准将が行ったはずなのだがな……」


「仕方ないよー。どうしても武ちゃんと張り合えてるって感覚を味わいたいんだからねー」


 祐致、季遠、ブレンダ、ベアーテの4人から集中砲火に、広益は大声で反論する。

 この頃には、転生者ではない蠣崎家臣も獣人やドワーフなどの異世界の亜人を恐れるものはいなくなっていた。


「き、聞こえてるぞ、そこの4人! 誰が小童なぞと張り合わねばならんのだ! 某の采配がそんなに気に食わぬかあ!」


「その采配にしても、兵の統率は我らに任せきりで、自分はただ最前列で槍を振るっていただけのこと」


「だっ、黙れ九兵衛! 敵の首を大量に引っ提げたのだから、それでよいではないか」


「大将が前に出て、万が一討ち取られては如何致し候か?」


「む、むむむ……。某の家来のくせに生意気な口を……!」


「浅慮の輩とは、まさにお前のことを言うのだな」


「ぐっ、ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……!」


 広益の配慮の少なさをひたすら批判する武将達。広益は言い返すこともできず、怒りのあまり両腕で槍を真っ二つに折ってしまう。

 だが味方である武親とヴィクトリアが、田名部領方面で『浅慮の輩』と同じ行動をとって戦功を挙げていることを、彼らは知らなかった。


「それより、浪岡城攻めの軍議を始めようよー」


 ベアーテの一言で全員が真剣な顔つきに変わる。


「ふん! 化け狸に言われなくても分かっておるわ」


「ば、化け狸……。狸人族(りじんぞく)っていうちゃんとした種族名があるのにー……」


「……心中お察しします准将」


「某の知ったことではないわ。それでは浪岡城を落とすにはどうすれば良いか、お主らの忌憚なき意見を伺いたい」


 広益も気を取り直して、大将として軍議の仕切り役をこなした。


 

 ◆◆◆◆◆



 3日間の攻防の末、浪岡城は陥落した。


「"浪岡御所"も終わりか。まさか、お館様が出仕された城を落とすことになろうとは思わんかったわ」


 浪岡を始め津軽の北半分を治めるのは、南部の庇護下にあった陸奥の名族・浪岡家。南北朝時代の鎮守府将軍・北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)の末裔であることから浪岡城は『浪岡御所』『北の御所』とも呼ばれ、津軽中の尊敬を集めていた。

 慶広はかつて愛季の命で浪岡城に奉公してことから、城の造りを把握していた連合軍は獣人部隊の機動力を生かして広大な城内を占拠。難なく『北の御所』を手に入れたのであった。


「昔、お館様のお供で浪岡を訪れたことがある。あの頃は街は活気づき、城も立派なものであったが、こうも寂れていたとはな……」


 以前は津軽中の寺社修復に財力を注ぎ、朝廷から正式に高い官位を受けるなど隆盛を誇った浪岡家。その衰退は1562年(永禄5年)の『川原御所の乱』に端を発する。

 当時の浪岡家当主・浪岡具運(なみおか・ともかず)を、叔父の川原具信(かわら・とものぶ)が殺害。この事件が内紛に発展し、最後は具運の弟・浪岡顕範(なみおか・あきのり)の手で具信が討たれたことで、乱は終結に向かった。

 その後、顕範はわずか8歳の具運の嫡男・顕村(あきむら)を当主とし、自らは後見人となった。が、当主が幼少ということと、『川原御所の乱』が起こったことで家臣が続々と浪岡家を見限り、南部や安東に仕官。浪岡一族の衰えは止まらず、史実では津軽家、そして今回は蠣崎家の攻撃で滅亡した。


「藤六殿、顕村殿を捕縛にて候」


 唯一、浪岡家にとって救いだったのは、当主の顕村が生け捕られたことであった。

 下剋上は戦国の世の習いとはいえ、慶広にとっては昔お世話になった浪岡一族の主。そこで南部領進攻前に、彼らは慶広から「顕村は討たないように」と厳命されていた。


「なぜ……なぜ慶広は私を攻撃したのだ? なぜ……」


 一方、捕縛された顕村は放心状態で同じ言葉を繰り返し口にしていた。

 進攻開始から10日足らず。まだ13歳の顕村は、怒涛の勢いで自分の所領を奪われた現実を受け止めきれずにいた。


「まさか、あの新三郎が当家に仇なすとはな……」


 顕村とは対照的に、後見人の顕範は現状を受け止め、顔を上げながら静かに歩いていた。


「……申し訳ござらん。世が世なら、恩ある浪岡を討つなど考えもしなかったが」


「これも世の習い。兄上と叔父上が争った日から覚悟は出来ておった」


「そうでござったか……」


「だが某らが降伏しても、当家の家来が全員服するとは限らん。特に飯詰城(現・青森県五所川原市)の朝日行安(あさひ・ゆきやす)は知勇に優れるが頑固者だからな」


「肝に銘じ候。それでは、本陣へ参らん」


「ああ……」


 連合軍に忠告した顕範は、顕村と共に本陣へと連れていかれた。

 朝日行安は為信の津軽略奪に10年以上抵抗した浪岡家の家臣。朝日氏も南北朝時代に浪岡家とともに津軽に入った一族で、その繋がりで浪岡家に仕えていた。

 史実では、最後に居城・飯詰城の水脈を絶たれ、一族ごと包囲殲滅された経歴を持つ。


 浪岡城陥落後、広益の裁定により浪岡家は蠣崎に逆らわないことを条件に、浪岡城城主として存続を許された。勿論、所領の外が浜・西浜(津軽半島東岸と西岸)は没収となったが、名族・浪岡家を完全に滅ぼさなかったことで、蠣崎家に対する汚名は低く抑えられることとなった。


 史実では、浪岡家を滅ぼした津軽為信は、周囲の南部・安東・浪岡残党を全て敵に回し、1579年(天正7年)の六羽川合戦(ろくわがわかっせん)で苦戦を強いられた。結果的に為信は勝ったものの、彼の旗本は殆ど戦死し、下手をすると彼も討死しかねない勢いであった。

 武親から史実を聞いた慶広は、そのことも考慮した上で「浪岡家は残す」方針を彼らに伝えていた。


「蠣崎慶広、奴も甘い男だな。後の禍根となりかねない一族を残すとは。それに従う家来も家来だが」


「でも恩人を殺しちゃうのはやっぱりしたくないよねー。世界征服を目指す以上、人手は欲しいし……」


 世界征服を達成するには、なにより精強で大規模な軍隊が必要となる。戦国武将は戦のプロであり、殺すよりは配下にした方が後々の征服事業が楽になる。浪岡家を残したのはそういう事情も絡んでいた。


 津軽の北半分を制圧した連合軍。しかしこの先、津軽制圧を阻む強敵が彼らを待ち構えていた。

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