Ⅰ
俺は母親のことをあまり覚えていない。
いつも、ベッドの上に横たわり、窓の外を見つめていた。その横顔はとても切なくて、寂しそうだった。
俺は父親のことをよく知らない。
父親はたまに、館に姿を現すが、一時間もしないうちに帰っていった。それがいつものことなので、寂しいとは思わなかった。
だけど、俺には兄がいた。
双子で、俺そっくりな彼だったが、俺とは違い、勉強も、運動もできた。同じ双子なのに、どうして彼はそんなにもできるのだろうと思った。でも、俺は彼に嫉妬はしなかった。彼は俺のことを好きだと言ってくれたし、俺は彼のことを好きだった。だから、父親や母親と接することがなくても、我慢できた。
そんなある日、俺はおかしな恰好をした少年を拾った。ここでは見たことのない恰好だった。
俺は母親や父親からの愛情を知らなかったが、俺を愛してくれる人に出会えた。
俺には彼とその少年さえいてくれるだけでよかった。それ以外の幸せを望まなかった。
だけど、その幸せはある日を境に、脆くも崩れ去った。
その日は俺達から少年が奪われた日であり、俺が壊れた日だった。
だから………、
『よく参ったな』
目の前の男は言う。その男とは実に十年ぶりである。
この男を見るたびに、殺意が芽生えてくる。
この男が何だろうと関係ない。いつか………、いつか………、
私が味わった屈辱を何倍返しにもして、返してやろう。そう心に誓う。
***
あの後、俺は急いで、とある部屋へ行くと、
「遅かったな」
赤犬さんより鮮やかな赤髪をした青年が本を机の上に置く。
彼は紅蓮さん。俺より5、6歳年上の先輩で、宮廷働きが今年で6年目にはいるそうである。下級貴族出らしいが、ちゃんと実力で入ってきた黒龍さん曰く、城内でも数少ない実力派魔法使いであるそうだ。
宮廷魔法使いの中では唯一友好的関係を築くことが出来た人物で、城の中の礼儀やマナーなどを教えてくれる世話役をしてくれる。
ぶっちゃけた話、彼は俺の監視役であるのは確かだ。俺が下手な行動に出た場合、俺を押さえつけることのできるように、黒龍さんが配置したと思われる。
黒龍さんに信頼されているのだから、腕の立つ魔法使いであることは間違いない。
「黒龍さんに痛めつけられた怪我を治していたら、時間がかかってしまったんです」
その所為で、ご飯が食べられませんでした、と、俺がそう言うと、お腹もそれに同意するかのように鳴り出す。
あの黒龍さんに口止めされたので、もし他の人に言って、それが彼の耳に入りでもしたら、殺されはしないものの、お仕置きを受けることだろう。とは言え、彼の所為でご飯が食べられなかったのは半分本当なので、それくらいの嘘は許して貰えるだろう。
「本当に、あの人は容赦ないな。弁当持っているみたいだから、ここで食べてもいいぞ」
彼はそんなことを言ってくれる。
「本当ですか?」
その申し出は正直嬉しい。この空腹の中で勉強しろ、と言うのなら、それは拷問としか言えない。
「ただし、その分、時間延長するけどな」
弁当分を時間短縮させたら、俺が殺される、と彼は言ってくる。確かに、これくらい融通をきかせてもらったのだから、時間延長は仕方ないかもしれない。
「あの人、早く終わらせろって五月蝿いんだよ。もともとはもう終わってもおかしくはないんだけど、お前が貧血で倒れたり、武道大会があったりしたから、進度があまり芳しくないだろ?これは勿論俺の所為でも、お前の所為でもないのに、どんな手を使っても、この際、目を瞑るだそうだ。一応、こちとら、スピードを上げてやっているつもりなのに、そんなことを言われるなんて心外だ」
お前、あの人に愛されすぎだろ、と、冗談にしては笑えないことを彼は言ってくる。
武道大会はとにかく、貧血でぶっ倒れた件はどう考えても、俺が悪い。
「俺が愛されているか、どうかは置いといて、多分、計画通りにならなかったのが不味かったんじゃないですか?」
俺はそう言って、弁当の中の卵焼きを摘まんで頬張る。しかも、それが過失ではなく、他意があるものなら余計に。
「それにしたって、あの人の行動は異常過ぎだ。王の推薦を受けるお前の異質さは勿論、あの人が直々訓練を施すことなんて滅多にないぞ?確か、あの人が訓練を施したのは蒼狐とか言う魔法使いしか見たことがないと先輩が言っていたような気がするな」
俺は彼の言葉にドキリとした。
“蒼狐”と呼ばれた魔法使いはこの世にはいない存在とされているが、実は名前を変えて、生きていたりする。
それが鏡の中の支配者であり、黒龍さんのお気に入りと言われても、おかしくない才能と実力を備えている。その彼と俺が同列に並べるのは彼には失礼ではないかと思う。
確かに、俺は彼と闘い、勝利を収めた。だが、それは青い鳥の作戦勝ちであり、俺と鏡の中の支配者の実力の溝はどうにもならない。
俺は鏡の中の支配者と違って、才能と言える代物を持ちえていないし、実力だって、まだ足元も及ばない。
だから、どうして、王が俺なんかに推薦をくれたのか、疑問で仕方がない。
「まあ、とにかく、俺はあの人に殺されない程度に早く、この城のルールを叩きこまなくてはいけない、と。何で、俺がそんなことしなくてはいけないのか、疑問で仕方がない。俺みたいな奴よりも、こう言ったものを教えるにはぴったりな人達が吐き捨てるほどいるだろうにな」
彼は恨めしそうに言ってくる。宮廷魔法使いには二つに分けることができ、実力派とボンボン派が存在するらしい。
実力派はいわゆる黒龍さんが認めた人達を指し、かなりの少数派である。勿論、紅蓮さんはその一人で、俺がそこに入るのかは分からない。一方、ボンボン派は貴族のお坊ちゃん、お譲ちゃん達のことで、魔法が少々使え、親の権力で捩じり込められたそうである。黒龍さん曰く、実力は皆無だそうだ。
礼儀やマナーとかは紅蓮さんよりも、彼らの方が適任だと思うが、王の推薦を貰ってしまった俺のような餓鬼を、彼らが快く引き受けてくれることはないだろう。
はっきり言って、彼らにとって、俺は単なる邪魔者でしかないと思う。
初日、俺が貴族出と思われる宮廷魔法使いの少年に飲み物を掛けられた時は青い鳥が思わぬ反撃をしてくれたが、それから、陰湿ないじめはなくなったかと言えば、そうでもならず。彼らの陰湿で、幼稚ないじめは日常茶飯事である。
それは試験を受けずに、王の推薦を貰ったからなのか、はたまた、黒龍さんの傍にいるからなのか、それは分からない。
そして、極めつけは武道大会の件である。閉会式の舞台を飾ることは宮廷魔法使いの憧れの的らしい。それを、宮廷魔法使いになって、数週間しか経たない俺がやることになっては、彼らが怒らないわけがない。
それが決まってからと言うと、彼らのいじめはエスカレートし、青い鳥や翡翠の騎士たちが白熱の戦いを繰り広げている中ですら、彼らの妨害はあった。そんなことで、辞退したら、黒龍さんに殺されているのは目に見えていないので、どうにか我慢するしかなかった。
そして、俺は閉会式まで耐え抜き、主役不在といった類稀なる事態になったものの、俺の役目はきちんと果たした。
赤犬さんから、ケロベロス達は出すな、と厳命されていたので、青い鳥と翡翠の騎士が勝ったと言うこともあり、多数の青い鳥と翡翠の鳥を飛ばした。
あまりそこまで過激な魔法ではなかったものの、観客からは好評だったらしい。それを聞いた青い鳥は「私も見たかったです」、と悲しそうに言っていたのは言うまでもない。
ボンボンがほとんどを占めるのは宮廷魔法使いだけではなく、宮廷騎士もそうらしく、俺と同じく、正規の宮廷騎士試験を受けなかった青い鳥もいじめに遭っていたようだが、武道大会の後にはパタリと無くなったそうだ。大会中、青い鳥を妨害していた宮廷騎士の一人が黒龍さんに制裁を食らったことと、青い鳥が翡翠の騎士と渡り合っていたことが主な要因だろう。
俺のいじめの方も、少なくはなったものの、無くなってはいない。彼らはそれしか能がない連中だと諦めるしかなさそうだ。
近々、宮廷騎士や宮廷魔法使い、軍の兵士を対象に、入れ替え戦を行うと言う話も出てきている。もしかしたら、彼らはその為に必死こいて特訓をしているから、いじめが少なくなったのかもしれない。
「………そう言えば、紅蓮さん。深淵の姫に会ったことがありますか?」
先ほど、会った姫のことを思い出し、そう尋ねると、
「………イヴ姫のことか?残念ながら、俺は会ったことないな。話によると、病弱なお方らしいから、滅多に人前には出ないらしいからな。と言うか、何でそんなことを聞くんだ?実は彼女と話してて、遅くなったんじゃないだろうな?」
彼は疑わしそうな視線を送る。それにはギクッと心臓が高鳴る。実はそうなのだが、これを馬鹿正直に話したら、黒龍さんに昇天させられる。
「そ、そんなわけないじゃないですか。絶世の美女と噂されているのだから、一度は会ってみたいと思うのが男心と言うものではありませんか?」
「確かにそうだな。姫が城に上がってきた頃はイヴ姫にお会いできるのではないか、と期待したものだからな」
彼はしみじみにそんなことを言ってくる。どうにか、疑いの目を逸らすことは出来たようだ。だが、どうにも引っ掛かることがある。
「姫って、もともと城におられたわけではないのですか?」
俺はてっきり、姫は城から一歩も出たことがない箱入り娘かと思っていたが………。
「ああ、イヴ姫がここにやってきたのはちょうど五年前らしい。兄であるエイル三世陛下の時はド派手のセレモニーが行われたが、イヴ姫は身体の調子が悪かったようで、出られなかったようだぞ」
その所為で、俺は一度もイヴ姫の顔を拝見できていないんだ、と、彼は少し残念そうな表情を浮かべる。
「まあ、イヴ姫に会うことが出来るのは数人の侍女達と黒龍さんくらいじゃないか?何たって、彼はイヴ姫の家庭教師らしいからな」
彼に頼めば、会わせてくれるかもしれないぞ、と彼は言ってくる。
確かに、あの光景を見ると、彼が姫の家庭教師役を担っていることも頷ける。彼女に会いたいとしても、彼に頼んだ瞬間、俺は天に召されてしまうことだろう。
「俺は貴重な休憩時間を削られたくないから、箸を止めるな。早く食べろ」
彼はそう言ってくるので、俺は食べる作業に集中する。
その後、目一杯、俺は彼のスパルタ講義を受けることになったのは言うまでもない。
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次回投稿予定は12月15日となります。