妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです
「お姉様の代わりは、わたくしが務めます」
妹のリネットがそう言った瞬間、私は手元のティーカップを置いた。
向かいには、私の婚約者カイル様が座っている。
その隣で、妹は勝ち誇ったように微笑んでいた。
「姉上は少々出しゃばりすぎるのだ」
カイル様が穏やかな声で言う。
「婚約者は、もっと愛らしく寄り添ってくれる女性のほうがいい。
リネットなら、その役目に向いているだろう」
役目。
その一言で、私はようやく理解した。
この人たちは、婚約者の座と同じように、私が担ってきた仕事まで簡単に譲れるものだと思っているのだ。
夜会の席順。
招待客の選定。
寄付金の配分。
夫人方の派閥調整。
王家へ出す季節の贈答。
東方大使夫人が乳製品に触れられないことまで覚えて、献立を差し替えるような細かな仕事。
それら全部を、私は「未来の公爵夫人として当然」と思って引き受けてきた。
カイル様が次期公爵として王都で評価を上げるたび、周囲は彼の手腕を称えたけれど、その半分以上は私が裏で整えた段取りだった。
「……承知いたしました」
私がそう答えると、リネットの笑みがいっそう深くなった。
「では、婚約も役目も、今この場でお譲りいたします」
カイル様がわずかに眉をひそめる。
たぶん泣き縋られるか、妹へ嫉妬をぶつけられるか、そのどちらかを期待していたのだろう。
でも、そんなことをしても疲れるだけだ。
「ずいぶん聞き分けがいいな」
「代わりが務まるのでしたら、私が居座る理由もありません」
私は静かに微笑んだ。
「ただし、引き継ぎは必要です」
「引き継ぎ?」と、リネットが首を傾げる。
「はい。
来週の春季慈善園遊会の席次。
寄付先三十六件の最終確認。
北方伯爵夫人と西部侯爵夫人の席を離すこと。
王妃殿下のご希望で、楽団は第二幕から弦楽を厚くすること。
東方大使夫人には胡桃を避けること」
「……は?」
私は立ち上がり、いつも持ち歩いている革表紙の帳面を机へ置いた。
紺色の紐でまとめた札も、その隣へ置く。
客名簿。
贈答控え。
季節の花の指定。
厨房への注意書き。
全部、私が整えてきたものだ。
「お姉様、そんなものは使用人がやればよろしいでしょう?」
「使用人が動くための指示を出すのが私の役目でした」
「大げさですわ」
「そう思われるなら、それで結構です」
私は帳面を妹の前へ押しやった。
「明日からはどうぞご自由に」
そこで初めて、カイル様が少しだけ不機嫌そうに言った。
「エルシェナ。
子どものような嫌がらせはよせ」
「嫌がらせではありません」
私は目を伏せる。
「お二人のお望みどおり、私は引きます。
今後、王都での社交と公爵家関係の調整は、新しい婚約者であるリネットが担うべきでしょう」
それは正論のはずなのに、なぜか部屋の空気が少しだけ悪くなった。
父も母も黙っている。
たぶん、どちらにつくべきか測っているのだろう。
私はそこにも、もう期待していなかった。
「では失礼いたします」
私は一礼する。
「春季慈善園遊会の件もございますし、皆様どうぞお忙しく」
翌朝から、私は本当に何もしなかった。
使用人たちにもはっきり告げた。
今後、社交関係の指示はすべてリネットを通すこと。
私の名で出していた返書や贈答は止めること。
相談されても、婚約が解消された以上、口を挟まないこと。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
侍女のミナが不安そうに訊いた。
「園遊会は三日後です」
「ええ」
「このままでは……」
「私の代わりを務められるそうだから、大丈夫なのでしょう」
私がそう言うと、ミナは何とも言えない顔で黙り込んだ。
賢い侍女だ。
何が起こるか、もう半分くらい察しているのかもしれない。
私は自室で本を読み、刺繍をし、久しぶりに自分の時間を過ごした。
不思議なくらい静かだった。
そして、思ったより心が軽い。
ああ、私はずっと疲れていたのだと、そのとき初めて分かった。
園遊会当日の朝。
最初に飛び込んできたのは、厨房長だった。
「お嬢様!」
彼は半ば青ざめていた。
「本当にご指示をいただかなくてよろしいのですか!?
北方伯爵夫人用の献立に乳製品が入っております!」
「それは困りますね」
「困りますではなく!」
「新しい婚約者様へご確認ください」
厨房長は絶望したような顔で去っていった。
その十分後には庭師頭が来た。
さらにそのあと、執事、会計係、楽団の手配役まで来た。
王妃殿下の席が、雨除けのない一番端へ置かれていること。
東方大使夫人が胡桃を避けているのに、菓子卓の中央へ胡桃菓子が積まれていること。
しかも、北方伯爵夫人と西部侯爵夫人が隣席になっていること。
この二人は昨年、舞踏会で扇を投げ合った仲だ。
「全部、新しい婚約者様へ」
私は微笑んで答え続けた。
「私はもう関わる立場ではありませんので」
昼を過ぎるころには、屋敷中が妙な静けさに包まれていた。
大きな事故の直前には、なぜかこういう静けさがある。
そして夕方、園遊会は見事に崩れた。
雨が降ったのだ。
天気予報役の魔術師から、午前のうちに「夕刻から一時的な通り雨あり」と報せが来ていた。
例年の私なら、即座に庭園の東棟側へ席を寄せ、布天幕を増やし、動線を変えていた。
でも今年は違う。
私は何も言っていない。
結果、王妃殿下の席は濡れた。
東方大使夫人の菓子卓には胡桃菓子が並び、北方伯爵夫人と西部侯爵夫人は十分と経たずに言い争いを始めた。
寄付箱は種類別に分けられておらず、どこへ何を入れるのか分からない。
楽団は第二幕の切り替えを知らず、王妃殿下の入場に合わせる曲も外したらしい。
これだけでも十分なのに、最後に決定打が来た。
西方商会の未亡人会頭が、雨除けもない席に通されたうえ、名札の綴りまで間違えられていたのだ。
彼女は王都最大の寄付者の一人で、綴りを間違えられるのを何より嫌う。
私は知っていた。
だって三年前、同じ失敗をした役人を彼女が公開で泣かせた場にいたから。
園遊会が散々なまま終わった夜、私の部屋へカイル様が押しかけてきた。
「エルシェナ!」
声を荒らげながら入ってきた彼の後ろには、泣き腫らしたリネットまでいる。
「何なのです、あれは!」
妹が叫ぶ。
「王妃殿下はお怒りですし、伯爵夫人方は帰ってしまわれるし、会頭夫人は寄付を取りやめると!」
「大変でしたね」
私は本を閉じた。
「でも、新しい婚約者のお役目でしょう?」
カイル様が歯を食いしばる。
「お前、最初から分かっていて何もしなかったな」
「ええ。
何もしておりません」
私は答える。
「婚約が解消された以上、差し出口を挟む立場ではありませんので」
「少し手を貸すくらいできただろう!」
「代わりが務まるとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
ぴたりと、二人の言葉が止まった。
私は机の上の帳面を指でなぞる。
「私は婚約者という立場で、これまで王都の社交と寄付と人間関係を整えてきました。
けれど、お二人はそれを《《誰にでもできる飾りの仕事》》だとお考えだった」
リネットの唇が震える。
「だ、だって……ただ席を決めて、お茶会を開いていただけでは」
「そうですね。
ただ席を決めて、ただ手紙を書いて、ただ人の顔と機嫌と過去の揉め事を覚えて、ただ王妃殿下の好みと各家の事情を頭へ入れ、ただ寄付と派閥の釣り合いを取り続けていただけです」
妹は顔を真っ赤にした。
でも私は、もう引かなかった。
「婚約者の座が欲しかったのでしょう?
でしたら、その座に付随する役目も引き受けるべきでした」
「そんな……!」
「私は最初に帳面も札もお渡ししました」
「お姉様は、もっと説明してくだされば!」
「どこまで?」
私は首を傾げる。
「北方伯爵夫人が乳製品でお腹を壊すことですか。
それとも、西部侯爵夫人と同席すると北方伯爵夫人が扇を投げることですか。
あるいは、西方商会の会頭夫人が綴りを間違えられるのを何より嫌うことですか」
リネットが息を呑む。
カイル様も同じだった。
たぶん、この二人は今まで本当に、その全部を私が《《自然に》》やっていたのだと思っていたのだ。
「エルシェナ」
カイル様の声が、一段低くなった。
「……悪かった」
私は瞬きをする。
この人がこんなに早く謝るとは思っていなかった。
「お前がそこまで支えていたとは、考えていなかった」
「ええ。
そうでしょうね」
あまりに当然のように言えたので、逆に自分でも驚いた。
でも、本当にそうだった。
「ですから、もう終わりにしましょう」
私は静かに告げる。
「婚約も。
代役も」
リネットが弾かれたように顔を上げる。
「待ってください、お姉様!
婚約は、わたくし……」
言いかけて、止まる。
たぶん彼女はようやく分かったのだ。
欲しかったのは《《選ばれる女》》という立場だけで、その座に乗っている見えない仕事までは考えていなかったことに。
「私は、カイル様そのものを欲しかったわけではありません」
私は言った。
「公爵家の未来に必要な婚約だと思っていただけです」
だから、奪われて悔しいという気持ちは、意外なくらい薄かった。
疲れた、というほうが近い。
「お前は……私を好きではなかったのか」
カイル様の問いに、少しだけ考える。
好きになろうとしたことはある。
でも、尊重されない相手を好きになるのは難しい。
「信頼はしておりました」
私は正直に答えた。
「けれど、それを返していただいた覚えはありません」
そのときだった。
部屋の扉が叩かれる。
「失礼する」
入ってきたのは、王弟レオンハルト殿下だった。
灰色の外套をまとい、雨上がりの冷気を少しだけ連れている。
私は思わず立ち上がった。
園遊会の席次でもっとも気を遣う相手の一人であり、同時に、私が帳面に余白のないほど細かく注記を入れていた人でもある。
理由は単純で、彼は何でもよく見ているからだ。
「話の途中なら、後でもよかったが」
レオンハルト殿下は視線だけで部屋の状況を把握したらしい。
「いや、むしろ今がいいな」
カイル様が慌てて一礼する。
「殿下、これは……」
「園遊会の件だろう」
王弟殿下は淡々と言った。
「王妃陛下は大変お怒りだ。
東方大使夫人にはすでに詫びを入れた。
西方商会の会頭夫人は今年の寄付を半分に減らすそうだ」
「……申し訳ございません」
カイル様の声が沈む。
リネットは青ざめたままだ。
「だが私は別件で来た」
その灰色の目が、まっすぐ私を見る。
いつも思うけれど、この人の視線には妙な嘲りがない。
だから気が抜けない。
「エルシェナ嬢」
「はい」
「妹君が《《代わりを務める》》という話は本当か」
どうやら、そこから聞かれていたらしい。
私は少しだけ息を吐いた。
「はい。
婚約も役目も、お譲りしたつもりです」
「そうか」
王弟殿下は短く頷いた。
それから、カイル様へ顔を向ける。
「では、来月の東方使節歓迎晩餐会の席次も、新しい婚約者が担当するのだな」
部屋が静まり返った。
カイル様の顔色が変わる。
リネットは、今にも倒れそうな顔をした。
東方使節歓迎晩餐会。
園遊会よりはるかに重い。
王妃陛下も、外務卿も、各派閥の貴婦人たちも、全員が気を張る場だ。
「そ、それは……」
カイル様が初めて言葉に詰まった。
「代わりが務まるのだろう?」
王弟殿下は静かに問う。
「園遊会程度であれだけ崩れたのに?」
痛烈だった。
でも、事実しか言っていない。
「殿下」
私は口を開く。
「その件に私はもう――」
「だから、別件だと言った」
王弟殿下が私を遮る。
「カイルの婚約事情には興味がない。
だが、王都の儀礼と外交が無能の見栄で壊されるのは困る」
その言い方はだいぶ辛辣だった。
カイル様もリネットも完全に黙り込む。
「エルシェナ嬢」
再び、灰色の目がこちらへ向く。
「私のもとで働く気はないか」
「……はい?」
間の抜けた声が出た。
今の会話の流れで、そこへ着地するとは思わなかったからだ。
「王家儀礼局で人員を探している。
正確には、今の体制では足りないと前から思っていた」
王弟殿下は淡々と続ける。
「君が整理していた園遊会の席次表も、寄付先の覚え書きも、過去三年分見ている。
引き継ぎ用の帳面も先ほどざっと見たが、非常によくできていた」
私はしばらく黙ってしまった。
誰にも気づかれていないと思っていたからだ。
少なくとも、評価はされていないと思っていた。
「私の帳面を……」
「見なければ困る。
王都の社交は、なぜかいつも君を前提に回っていたからな」
不思議な言い方だった。
でもその一言で、胸の奥の何かが少しだけほどける。
「正式な役職と俸給を用意する。
誰かの婚約者としてではなく、君自身の名で」
王弟殿下は言う。
「どうだ」
私は答えようとして、ふとカイル様を見る。
彼は青ざめたまま、苦いものを飲み込んだ顔をしていた。
ようやく理解したのだろう。
私が《《便利な婚約者》》だったのではなく、《《いなくなったら困る人材》》だったことに。
「エルシェナ」
彼が声を絞り出す。
「待ってくれ。
婚約の件は考え直そう。
リネットのことも、全部なかったことにする」
私は首を横に振った。
「それではまた、私は代役に戻るだけです」
「違う!」
「何が違うのですか」
思ったより静かな声が出た。
怒りではなかった。
たぶん、もう期待していないからだ。
「あなたが惜しいと思っているのは、私ではなく、私がやっていたことです」
カイル様の顔が強ばる。
図星なのだろう。
好きとか嫌いとか以前に、その認識がある時点でもう無理だった。
「殿下のお誘いを、お受けします」
私は王弟殿下へ向き直る。
「ただし、条件がございます」
「聞こう」
「今後、私の作成した帳面を勝手に改変しないこと。
現場の使用人へ、私を飛び越えて直接無茶な指示を出さないこと。
そして」
一呼吸置く。
「私を《《誰かの代わり》》として扱わないこと」
王弟殿下は、そこで初めてはっきりと笑った。
声には出さない。
でも、たしかに笑ったと分かった。
「それは簡単だ」
「本当ですか」
「ああ。
最初から君が欲しいのであって、代わりでは困る」
今度は、私が言葉に詰まる番だった。
部屋の空気が妙に静かになる。
カイル様が息を呑み、リネットは何か言いたげに唇を震わせた。
でも、王弟殿下は気にした様子もない。
「働きぶりを見てから、もう少し別の立場も考えたいとは思っている」
淡々と続くその言葉が、いっそう困る。
仕事の話と、それ以外の話をこうも自然に混ぜないでほしい。
「……殿下は少し狡いです」
「よく言われる」
言われるのか、とどうでもいいことを思った。
けれど、少しだけ笑ってしまう。
今日の私、思っていたよりよく笑うらしい。
「では、まずは仕事から」
私は一礼した。
「その先のことは、私の働きが気に入ってからお考えください」
「そのつもりだ」
王弟殿下は頷く。
「ただし、気に入るのは早いかもしれない」
また困ることを言う。
でも嫌ではなかった。
その日のうちに、私は王弟殿下の馬車で王城へ戻った。
婚約者としてではなく、王家儀礼局補佐官として。
部屋も、机も、俸給も、ちゃんと私個人の名で与えられた。
引き継ぎの書類に署名したとき、自分でも驚くくらい心が軽かった。
数日後、春季園遊会の再開催は無事に終わった。
寄付も戻った。
東方大使夫人は機嫌よく帰り、西方商会の会頭夫人は「綴りを正した礼はするわ」と言って例年通りの額を置いていった。
すべてが以前より少しだけ静かで、少しだけやりやすい。
「エルシェナ嬢」
夜、最後の帳面を閉じた私へ、王弟殿下が声をかけた。
「君が来てから、儀礼局の空気がだいぶましになった」
「それは光栄です」
「褒美をやろう」
差し出されたのは、小さな鉢だった。
白い花が一輪だけ咲いている。
「冬白鈴蘭……」
思わず目を見開く。
それは、私が昔一度だけ「好きだ」と漏らした花だった。
どうして知っているのだろうと思って、すぐに気づく。
この人はきっと、そういう小さなことまでちゃんと見ている。
「代わりではない君への贈り物だ」
王弟殿下は言う。
「嫌でなければ受け取ってほしい」
嫌なはずがなかった。
「ありがとうございます」
鉢を抱えたまま顔を上げると、灰色の目が静かに細められる。
また、あの笑い方だ。
「その顔なら、先の話も期待してよさそうだな」
「まだ仕事ぶりを見てからでは?」
「もう十分見た」
返事が早すぎる。
でも、心のどこかでは少しだけ嬉しいと思ってしまった。
妹が欲しがったのは、婚約者の座だけだった。
カイル様が失って困ったのは、私が担っていた役目だった。
けれど、この人が見ているのは、どうやら私そのものらしい。
それなら悪くない。
代役ではなく、最初から私として必要とされるのなら。
そんな未来なら、少しは期待してもいいと思えた。
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