第8話 まだ噂は小さいのに、感情だけが先に大きくなる
人の噂というのは、火のないところにも煙を立てる。
しかも厄介なことに、その煙は最初のうちはただのもやみたいなものだ。
誰かがはっきりと「あいつとあいつがどうこう」と言うわけじゃない。廊下ですれ違うときの視線とか、何でもない話題の端に混ざる軽い一言とか、そういう“言葉未満のもの”がじわじわ広がっていく。
たぶん今の俺の周辺が、ちょうどそうだった。
朝、教室に入った時点で、何となく分かった。
空気が変だとか、みんなが俺を見ているとか、そこまで露骨ではない。けれど、時々こっちを見た誰かが、すぐ隣のやつに何か言う。昼の予定でも話しているみたいな顔をしているのに、こっちの耳には届かないギリギリの声量で。
そういうのは、分かる。
分かってしまうと、余計に気になる。
「……気のせい、だよな」
席に鞄を置きながら小さく呟くと、すぐ横から声が飛んできた。
「その“気のせい”って言葉、今週だけで二十回くらい聞いてる気がする」
藤宮つばさだった。
「数えてんのかよ」
「いや、雰囲気で」
「その雰囲気精度が高いのが怖いんだよ」
つばさはにこにこと笑いながら、自分の机に肘をついた。
「だって最近の白井くん、明らかに挙動が“火種を抱えてる男子”なんだもん」
「嫌なラベル貼るな」
「でも否定しきれないでしょ?」
「……否定したい気持ちはある」
「それ、否定できてない人の言い方」
やめてほしい。ほんとに。
俺がそうやってつばさに軽くあしらわれている間にも、教室の前方では七瀬ことりが友達と話していた。笑っている。少なくとも表面上はいつも通りだ。
でも、俺が視界に入った瞬間だけ、ほんの少しだけ動きが硬くなる。
完全に平常運転には戻れていない。
一方で後ろを振り向けば、朝比奈みずきが椅子に座ったまま頬杖をついて、どう見ても機嫌が良くない顔をしている。昨日よりはましだ。でも、ましなだけだ。
そして、窓際の少し離れた席では榊レナが静かに本を読んでいる。
こちらを見ているわけではない。見ているわけではないが、時々ページをめくる手が止まるたびに、“教室全体の空気は把握してます”という顔をしている気がする。
つらい。
女子三人三様にしんどい。
「で?」
つばさが言う。
「今日は誰からいくの?」
「何の話だよ」
「白井くんの周りのヒロインレース」
「始まってないし開催する気もない」
「でも周囲はちょっとざわついてるよ」
「え」
思わず本気で聞き返してしまった。
つばさは面白そうに目を細める。
「ほら、そういう顔する。やっぱり自覚ないんだ」
「いや、待て。ざわついてるって何が」
「“最近、白井って女子と話すこと増えてない?”くらいのやつ」
「その程度か」
「その程度、っていうけど」
つばさは頬杖をついたまま言う。
「今まで目立たなかった男子が、急にことりちゃんと話してて、朝比奈さんとも空気が変で、ついでに榊さんまで保健室で一緒だったら、そりゃ少しは話題になるよ」
最後まで言い切るのが嫌すぎる。
「保健室の件まで認知されてるのかよ」
「私はしてる」
「おまえの観測範囲が広すぎるんだよ」
「だって見えたし」
それを見逃してくれと言っている。
つばさは少しだけ笑ってから、ふっと声を落とした。
「まあ、まだ全然小さいよ」
「……小さい?」
「うん。『なんか最近そうじゃない?』くらい」
それなら、まだましなのかもしれない。
でも、それは“これから大きくなる余地がある”という意味でもある。
俺が微妙な顔をしていると、つばさが楽しそうに言った。
「白井くん、ほんと顔に出るようになったね」
「出したくて出してるわけじゃない」
「いい傾向じゃん」
「どこがだよ」
「人間っぽくて」
「前まで人間じゃなかったみたいな言い方やめろ」
そのやり取りの途中で、ことりがこちらを見た。
正確には、つばさと俺が話しているのが気になったらしい。目が合うと、ことりはほんの少しだけ迷って、それから小さく会釈した。
俺も反射でうなずく。
それだけのことなのに、つばさが「ほらね」とでも言いたげに笑うのが腹立たしい。
◇
一限目と二限目のあいだの休み時間。
俺は黒板脇の掲示物を見に行って、その帰りにふと足を止めた。
窓際で、ことりとみずきが話していたのだ。
いや、話していたというより――ことりが話しかけて、みずきが返している。
ただ、その空気はあまり柔らかくなかった。
近づくのも変だと思い、俺は少し離れた場所で足を止めた。聞くつもりはなかった。なかったが、みずきの声が少しだけ強かったので、断片的には聞こえてしまった。
「……別に、気にしてないって言ってるじゃん」
みずきの声。
「でも、この前は……」
ことりの声は控えめだ。
「この前はこの前。もういい」
「よくないよ」
「七瀬さんが決めることじゃないでしょ」
そこで、ことりが黙る。
俺は思わず頭を抱えたくなった。
何でそうなる。いや、そうなるのも分かる。分かるけど、当事者たちが直接ぶつかり始めると、急に現実味が増してしんどい。
次の瞬間、みずきが俺に気づいた。
ぴたり、と目が合う。
「……なに」
「いや、通り道なんだけど」
「ふうん」
みずきはそう言ったあと、ことりから少しだけ距離を取った。
「私、移動するから」
「朝比奈さん」
「別に怒ってないし」
その台詞、怒ってるやつの定番すぎるだろ。
みずきは俺の横を通り過ぎざま、小さく言った。
「真央、あとで」
「またその言い方かよ」
「大事な話あるから」
「今じゃだめなのか」
「今じゃだめ」
きっぱり言い切って、行ってしまう。
残されたのは、俺とことりだ。
気まずいにもほどがある。
「……悪い」
思わず言うと、ことりが首を横に振った。
「白井くんが謝ることじゃないよ」
「いや、でも」
「私が勝手に気にして、勝手に話しかけただけだから」
そういう言い方をされると、余計に困る。
ことりは少しだけ笑ったが、その笑みはどこか力がなかった。
「朝比奈さん、やっぱり優しいね」
「え?」
「怒ってるのに、ちゃんと抑えてるから」
それは、たしかにそうだった。
昔のみずきなら、もう少し分かりやすく噛みついていたかもしれない。
でも今は、ちゃんと飲み込もうとしている。そのぶん苦しくなっているのかもしれないが。
「……ことりも、無理するなよ」
俺が言うと、ことりは少し驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「最近、そればっかり」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「じゃあ、たぶんそういう時期なんだろ」
「なにその適当なまとめ方」
「便利なんだよ、そういうの」
ことりは肩を揺らして笑った。
その笑い方が少しだけ戻ってきていて、俺は内心でほっとする。
でも、ほっとした次の瞬間には気づく。
こうやって、ことりの表情ひとつで気分が上下している時点で、もうだいぶややこしい。
◇
三限目は体育だった。
校庭で軽く体を動かすだけの授業だったが、こういうとき、クラスの人間関係は妙に見えやすくなる。誰が誰と組むか、誰が誰の近くにいるか、そういうことが普段よりはっきり浮かび上がるからだ。
俺は男子のグループで適当に準備運動をしていた。
だが、ふと女子側の列を見たとき、ことり、みずき、レナ、つばさがそれぞれ微妙に別方向を向いているのが目に入った。
つばさは明らかに面白がっている。
レナは少しだけ引いた位置から全体を見ている。
みずきは平静を装っている。
ことりは装えていない。
なんだこれ。
俺の知らないところで、もう何かの配置図ができあがっていないか?
「おい白井、ボール」
「あ、悪い」
クラスメイトに言われて慌てて取りに行く。
今は自意識過剰になっている場合じゃない。授業に集中しろ、俺。
――と、思っていたのだが。
体育のあと、保健委員としてマットの片付けをしていたレナが、少し離れたところで一人だけ大きな備品を持っているのが見えた。
他の連中はもう先に戻りかけている。先生も気づいていない。
「榊」
声をかけながら近づく。
レナは少しだけ目を上げた。
「なに」
「重いだろ、それ」
「重い」
「言い切るなよ」
「でも持てる」
「持ててないだろ、顔が」
レナは一瞬だけ黙って、それから小さくため息をついた。
「じゃあ、そっち持って」
「最初からそう言え」
「前にも同じこと言われた気がする」
「デジャヴだな」
俺が反対側を持つと、レナは少しだけ持ち方を変えた。
二人で運び始める。マットの端は地味に持ちづらい。
「白井くん」
「ん?」
「最近、ずっとこうなの?」
「どういう意味だよ」
「目立ってるって意味」
またそれか。
「目立ちたくて目立ってるわけじゃない」
「でしょうね」
レナは淡々と言った。
「でも、見える人には見えるわよ」
「そう言う人多すぎるんだよ、最近」
「多いなら本当なんじゃない?」
正論だった。
正論すぎて腹が立つ。
マットを倉庫へしまい終えると、レナは額の汗をハンカチで押さえた。
「ありがと」
「どういたしまして」
「白井くんって、ほんとに見返り求めないわね」
「何だその評価」
「別に悪い意味じゃない」
「最近、悪い意味じゃないって前置き多いな」
「必要だからでしょ」
レナはそう言って、ふっと視線を俺の後ろへ向けた。
つられて振り向くと、少し離れた廊下の角につばさがいた。
しかも、その向こう側にはことりもいる。
「……うわ」
口から漏れた。
「今日それよく言うわね」
「だって本音だし」
「気持ちは分かる」
レナが珍しく少しだけ笑う。
つばさはひらひら手を振っている。ことりは気まずそうにしている。
最悪である。
ただ、そこで不思議だったのは、ことりがすぐにこちらへ来なかったことだ。
俺とレナが一緒にいたのを見て、何か言いに来るでもなく、ただ一瞬だけ見て、それから視線を落としたのだ。
その反応のほうが、少しだけ引っかかった。
◇
放課後。
みずきに「あとで」と言われていたので、俺は逃げずに教室に残った。
残ったのだが、みずきはなかなか来ない。
代わりに、つばさがやって来た。
「やっほー」
「なんだよ」
「待ちぼうけ男子」
「おまえ、人をいちいち変な呼び方するな」
「でも待ってるんでしょ?」
「……まあ」
「朝比奈さん?」
「知ってるなら聞くな」
つばさは笑いながら、俺の前の席に座った。
「今日の全体図、だいぶ面白いね」
「全体図って何だ」
「ことりちゃんは明らかに白井くんを気にしてて、朝比奈さんはそれが気になってて、榊さんはそれを横から観察しつつ、私はだいたい全部知ってる」
「最後の一文が一番嫌だな」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「そっか」
つばさは悪びれもせず笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ」
「何」
「ことりちゃん、ちょっとしんどそうだったよ」
その一言で、俺は反射的にことりのほうを見た。
教室の前方。
ことりは友達と一緒に帰り支度をしている。見た目だけなら普段通りだ。けれど、つばさがそう言うなら、たぶんそうなのだろう。
「朝比奈さんのことも気にしてるし、白井くんが榊さんと一緒にいるのも気にしてるし」
「……」
「本人、たぶんまだ自覚しきってないけど、もうけっこう重いよ」
「言い方」
「でも事実」
つばさはそこで肩をすくめた。
「まあ、白井くんも大変だろうけど」
「おまえはほんと他人事だな」
「他人事だもん」
そこは否定しないのか。
「でも、ちょっとだけ忠告」
「……何だよ」
「優しさって、便利だけど雑に使うと刺さるからね」
それは、この前も似たようなことを言われた。
「みんなに同じように優しくしてるつもりでも、受け取る側は同じじゃない」
つばさは笑っていなかった。
「特に、今の白井くんの周りは」
そこで、ことりが鞄を持って立ち上がった。
そして何を思ったのか、こちらへ向かって歩いてくる。
つばさが口元を押さえた。
「ほら来た」
「実況するな」
ことりは俺たちの前で止まると、少しだけ言いにくそうにしたあと、つばさのほうを見た。
「藤宮さん」
「ん?」
「今日、これから暇?」
「え、なに急に」
「……ちょっと付き合ってほしくて」
俺は少し驚いた。
ことりがつばさを誘うのは分かる。だが、その言い方は明らかに“俺と二人になりたくないからワンクッション置く”やつだった。
つばさはそれに気づいたらしく、少しだけ目を細める。
「いいよ」
「ありがと」
ことりはほっとしたように笑ったあと、ちらっとだけ俺を見た。
「白井くん」
「ん?」
「……また明日」
それだけだった。
でも、その一言の中に、いろいろなものが混ざっているのが分かった。
今日は話しかけない。距離を取る。けれど、避けたいわけじゃない。そういう、中途半端で、でも切実なもの。
「おう」
俺がうなずくと、ことりは小さく笑ってから、つばさと一緒に教室を出ていった。
その直後だった。
「真央」
後ろから、みずきの声。
振り向くと、鞄を肩にかけたみずきが立っていた。
今日は朝からずっと抑えていたぶん、表情は不思議なくらい落ち着いていた。
「待たせた」
「いや、別に」
「帰る」
「お、おう」
言い方が命令っぽいのに、今日はそれが妙にありがたかった。
みずきと一緒に教室を出る。
廊下に出てからしばらく、どちらも何も言わなかった。
階段を下りる手前で、ようやくみずきが口を開く。
「今日さ」
「うん」
「私、ちょっと考えた」
「何を」
「自分が何にイラついてるのか」
その言葉に、俺は少しだけ足を緩めた。
みずきは前を見たまま続ける。
「七瀬さんがどうとか、榊さんがどうとか、そういうのもあるけど」
「あるんだな」
「あるわよ」
即答だった。
「でも一番は」
みずきは一度だけ息を吐く。
「真央が、私の知らない顔してることだった」
胸のあたりが少し詰まった。
「知らない顔?」
「優しいとか、困ってる人放っとけないとか、そういうのは昔から知ってる。でも」
「でも?」
「今の真央、なんか、私が知ってるより少し先に行ってる感じがする」
それは責める言い方じゃなかった。
どちらかというと、置いていかれた子どもみたいな、そんな響きがあった。
俺はどう返せばいいのか分からなくなった。
「……ごめん」
「だから、謝らなくていいって」
「でも」
「私もたぶん、勝手に焦ってるだけだし」
みずきはそこで少しだけ笑った。
「ほんと、やだよね。自分でも分かるくらい分かりやすいの」
「分かりやすいのは昔からだろ」
「今そういうこと言う?」
「少し空気を軽くしたかった」
「軽くなってない」
「失敗か」
「失敗」
でも、みずきはさっきより少しだけ自然に笑っていた。
校舎を出ると、夕方の空はよく晴れていた。
昨日の雨が嘘みたいに青い。
小さな噂は、たぶんまだ小さいままだ。
でも、その中にいる俺たちの感情だけは、噂より先に大きくなっている。
まだ何も始まっていないはずなのに、もういくつものものが動き始めている。
そんな気配だけが、春の夕方の風の中にあった。
そしてその夜。
俺の机の中に入っていた一枚のメモが、その予感をはっきりと形にすることになる。
『相談があります。放課後、旧校舎裏に来てください』
差出人の名前は、書かれていなかった。




