第7話 保健委員のクール女子は、助け方で人を見る
翌日の朝、教室の空気は見事なくらいに面倒くさかった。
いや、もっと正確に言えば、空気そのものはいつも通りだったのかもしれない。
朝のざわめき。眠そうなやつ、元気なやつ、課題を写させてくれと騒ぐやつ。教室という場所は、そこにいる人間の一人や二人が気まずかろうが、だいたい容赦なく普通に動き続ける。
問題は、その“普通”の中に俺がうまく入れないことだった。
昨日の雨。
渡り廊下。
七瀬ことりとの会話。
そして朝比奈みずきの、あの顔。
思い出したいわけじゃないのに、朝から頭のどこかに残っている。
忘れようとすると、余計に細部まで蘇るのがたちが悪い。
「……はあ」
席についてから、今日だけで何回目か分からないため息が出た。
「朝から重っ」
すぐ横から、聞き慣れた明るい声が飛んでくる。
藤宮つばさだった。
「白井くん、顔に“昨日なにかありました”って書いてあるよ」
「書いてない」
「書いてる書いてる。しかもかなり太字」
「朝から人の顔を掲示板みたいに扱うな」
つばさは笑いながら、ちらっと前のほうを見る。
つられて俺も見てしまう。
七瀬ことりは、今日もちゃんと来ていた。
来てはいる。いるけれど、明らかに俺のほうを見ない。
友達と話している。笑ってもいる。
でも、こっちの方向に視線が来そうになるたび、露骨じゃないぎりぎりのところで逸らしているのが分かる。
「うわ」
つばさが小声で言った。
「なに」
「今日の七瀬さん、昨日よりガード固い」
「おまえは何でそういうのばっかりよく見えるんだ」
「見えるものは見えるからねえ」
楽しそうに言うな。
そして後ろでは、朝比奈みずきがいつもより静かだった。
不機嫌なときは声が大きくなるタイプかと思いきや、本気で機嫌が悪いとむしろ無口になる。幼なじみとして知っているので、余計にしんどい。
つまり今の俺の周辺はこうだ。
七瀬ことり――こっちを見ない。
朝比奈みずき――たぶんまだ怒ってる。
藤宮つばさ――面白がっている。
ひどい。
我ながら、なかなかにひどい立ち位置だった。
そんな中で、一人だけいつも通りの顔をしている女子がいた。
榊レナ。
保健委員で、クラスでもわりと目立つほうの女子ではあるのに、ことりやみずきみたいな“華やかさ”とは少し違う。
黒髪のストレートを肩のあたりで揃えていて、目元がすっきりしている。美人ではある。でも、それ以上に“きちんとしている”印象のほうが強い。
無駄に騒がず、でも無愛想というわけでもない。
誰かが困っていたら普通に手を貸すけれど、自分から輪の中心に入っていく感じでもない。
たぶん、ちゃんと見ていないと印象に残りにくいタイプだ。
……と、そんなことを考えたのは、そのレナが、なぜかこちらを見ていたからだった。
目が合う。
レナは特に驚きもせず、少しだけ首をかしげた。
まるで「今日のあなた、ちょっと変ね」とでも言いたげな顔だった。
「何、あれ」
つばさがぼそっと言う。
「何って」
「榊さん、白井くん見てる」
「見てるってほどじゃ」
「いや、見てるね。しかも観察する目」
「やめろ、増やすな」
「増やすって何を」
「面倒ごとを」
つばさは吹き出した。
「被害妄想つよ」
「現実見て言ってるんだよ」
そう返したところで、チャイムが鳴った。
担任が入ってきて、朝のホームルームが始まる。
助かったような、助かっていないような。
とにかく、少しだけ呼吸はしやすくなった。
◇
二限目のあと、保健委員が配る書類があるとかで、教室の後ろが少し騒がしくなった。
「これ、列ごとに回してくれる?」
そう言ってプリントの束を持っていたのが、レナだった。
無駄のない動きで、順番に紙を配っていく。
近くで見ると、思ったより声が柔らかい。
「白井くん」
「ん?」
「この列、後ろまでお願い」
「ああ」
差し出されたプリントを受け取る。
ただそれだけのことなのに、レナは一瞬だけ俺の顔を見て、小さく言った。
「寝不足?」
「……分かる?」
「分かる」
即答だった。
「顔が少し重い」
「重いって言い方初めて聞いたな」
「じゃあ、だるそう」
「まあ、そっちのほうが一般的だな」
「そっちで」
それだけ言って、レナは次の列へ移っていった。
何だ今の。
さらっと人のコンディションを見抜かれた気がして、妙に落ち着かない。
「おー」
後ろからつばさの小声が飛んでくる。
「今度は榊さん?」
「違う」
「何も起きてないのに反応が早いのは怪しいよ」
「おまえはもう少し静かに生きろ」
「無理」
知ってる。
その一方で、前の席ではことりがプリントを受け取る手元を少しだけ止めていた。後ろではみずきが相変わらず微妙な空気だ。
俺の行動ひとつひとつに意味を見出される環境、そろそろしんどい。
◇
その日の昼休み。
俺は弁当を食い終えたあと、何となく静かな場所へ逃げたくなって、廊下の端にある自販機まで来ていた。
教室にいると、視線とか空気とか、そういう見えないものが多すぎる。
缶コーヒーを買って、壁にもたれる。
まだ春先の風は少し冷たい。
「白井くん」
また声をかけられた。
今日はよく呼ばれる日だな、と心の中でぼやきながら振り向くと、そこにいたのはレナだった。
手には小さなファイルと、保健委員用らしい腕章。
どうやら仕事の途中らしい。
「榊」
「こんなとこで一人?」
「そうだけど」
「教室、落ち着かない?」
「……そんな顔してるか」
「少し」
レナは俺の隣までは来ず、少し距離をあけた壁際に立った。
「まあ、今日は特に」
「へえ」
「何だよ、その反応」
「意外だっただけ」
「何が」
「白井くん、自分のことはあんまり表に出さないタイプかと思ってたから」
「そう見える?」
「見える」
レナは迷いなく言う。
「でも今日は、ちょっとだけ分かりやすい」
「それ、みんな言うな」
「みんなって誰」
「いや、何でもない」
危ない。
ここで“つばさとおまえ”とか言ったら、また余計な流れになる。
レナはそれ以上追及せず、少しだけ視線を遠くに流した。
「教室、空気変だったものね」
さらっと言う。
思わず、俺はレナを見る。
「気づいてたのか」
「気づくでしょ、あれは」
うわあ。
やっぱり外から見てもそうなのか。
「別に、詳しく知りたいわけじゃないけど」
レナは続けた。
「白井くんって、誰かが困ってるときだけ妙に動くから」
「……え?」
「この前もそうだったし」
「この前?」
「階段で朝比奈さんの荷物拾ってたでしょ」
ああ、あれか。
「見てたのか」
「たまたま」
「その“たまたま”、このクラス多いな」
「そう?」
レナは表情をほとんど変えないまま、小さく首をかしげる。
「別に変な意味じゃなくて。白井くんって、助けるときだけ変に迷いがないなって思っただけ」
「助けるのに迷ってたら遅いだろ」
「それはそう」
レナは少しだけ目を細めた。
笑った、というより、納得した時の顔だった。
「だからたぶん、そういうとこなんでしょうね」
「何がだよ」
「さあ」
「言っといてそれか」
「全部説明してあげる義理もないし」
クールだな。
でも嫌な感じはしない。
レナは一度、保健室のほうを振り返った。
「私、ちょっと備品持っていかないと」
「忙しいな、保健委員」
「今日は新しい救急箱の入れ替えがあるから」
「へえ」
「へえ、って言い方、興味ないでしょ」
「いや、ある」
「ない顔してる」
そんなやり取りのあと、レナは少しだけ考えるようにしてから言った。
「手、空いてる?」
「今?」
「うん」
「まあ、空いてるけど」
「じゃあ運ぶの手伝って」
頼み方があっさりしている。
いや、むしろ命令に近いかもしれない。
「俺でいいのか」
「ちょうどそこにいるし」
「選定理由が雑だな」
「でも、嫌なら断っていい」
レナはそう言った。
断っていい、と言いながら、断られるとはあまり思っていない顔だった。
「……行くよ」
「ありがとう」
その“ありがとう”も軽い。
でも変に媚びていないぶん、逆に受け取りやすかった。
◇
保健室の倉庫前には、段ボールが三つ積まれていた。
「これ全部?」
「全部ではない」
「全部ではないんだな」
「重いの二つだけ」
「充分では?」
レナは無視して、一番上の段ボールをひょいと持ち上げようとした。
その瞬間、少しだけバランスを崩す。
「おい」
俺は反射で前に出ていた。
「だから最初から持てって言えよ」
「持てると思ったから」
「思っただけだろ、それ」
「うん」
即答だった。
潔いな。
俺は一番重そうな箱を抱え上げた。
レナは少しだけ眉を動かしたあと、自分も別の箱を持つ。
「無理するなよ」
「それ、私に言ってる?」
「今ここに俺以外いないだろ」
「……そうね」
レナはほんの少しだけ口元を緩めた。
保健室までの廊下を二人で歩く。
そこまで長い距離じゃない。でも段ボールの中身は地味に重かった。
「何入ってるんだこれ」
「包帯とか、消毒液とか、冷却材とか」
「意外と本格的だな」
「保健室だから」
「それもそうか」
くだらない会話だ。
でも、こういう何でもない会話のほうが、今の俺にはありがたかった。
保健室へ着いて、段ボールを机の横に置く。
手を離した瞬間、レナが小さく息をついた。
「助かった」
「最初からそう言え」
「助けて、って?」
「そう」
「なんか負けた感じするから嫌」
「めんどくさいな」
「よく言われる」
レナはそう言いながら、備品の中身を確認し始めた。
その動きはやっぱりきちんとしていて、無駄がない。
でも、さっき箱を持ち上げ損ねたときの感じとか、負けた感じがするとか言うところは、見た目よりずっと人間っぽい。
「白井くん」
「ん?」
「さっきの、ありがと」
「何回言うんだ」
「言っておこうと思って」
「律儀だな」
「白井くんこそ」
「俺?」
「普通、そこで『大丈夫?』って聞いて終わるのに、先に箱取るでしょ」
「危なかったから」
「そういうとこ」
レナは俺を見た。
「たぶん、いろんな子が弱いと思う」
昨日つばさにも似たようなことを言われた気がする。
「やめろ、その言い方」
「なんで?」
「面倒になるからだよ」
「もうなってるんじゃない?」
ぐうの音も出ない。
レナは静かに笑った。やっぱり大きくは笑わないけれど、確かに少し楽しそうだった。
「あなた、自分が何してるか分かってないのよね」
「最近その手の指摘が多いな」
「じゃあ図星なんだ」
「認めたくはない」
「認めないほうが危ないと思うけど」
レナは救急箱のふたを閉めながら言う。
「困ってる相手に優しくするの、悪いことじゃないわ。でも、その後まで責任持てないなら、少しだけ自覚は持ったほうがいい」
やけに真っ当なことを言われてしまった。
俺は保健室の白い壁を見ながら、小さく息を吐く。
「……分かってるつもりではいる」
「つもり、ね」
「実際は追いついてないんだろうな」
「そうかも」
そこ、否定してくれないんだな。
でもレナは、責めるような顔はしていなかった。
「まあ、それでも」
「ん?」
「困ってる子を笑わないのは、いいことだと思う」
その言い方に、俺は少しだけ視線を上げた。
「……なんで知ってるみたいに言うんだよ」
「知ってるわけじゃない」
レナは淡々と答える。
「でも、そういう人じゃないと、あんなふうに動けないから」
あんなふうに。
それが何を指しているのか、あえて聞かなかった。
階段の荷物の件かもしれない。
もっと別のことかもしれない。
いずれにしても、この人は細かいところをよく見ている。
「榊って、けっこう観察するタイプなんだな」
「必要な範囲では」
「必要じゃない範囲も見えてそうだけど」
「それは否定しない」
レナはそう言って、俺に小さな湿布の箱を渡してきた。
「これ、棚の上にお願い」
「雑用まで増えた」
「手伝うって言ったから」
「言ったな」
俺は箱を受け取り、言われた場所へ置く。
そのとき、保健室の扉の向こうで、数人の女子の話し声がした。
聞き覚えのある声が混ざっている。
ことりだ。
そして、たぶんつばさもいる。
俺は一瞬だけ固まった。
やめてくれ。
今この状況を見られるのは、たぶん説明コストが高い。
だが、そんな願いはむなしく、扉が開いた。
「あ、榊さん。絆創膏って――」
先に入ってきたのは、つばさだった。
そしてその後ろに、ことり。
見事なくらいに間が悪い。
「……へえ」
つばさが言う。
やめろ、その“へえ”は絶対やばい。
ことりも入口で止まった。
俺とレナを見て、少しだけ目を見開く。
「白井くん……?」
「その反応だと、やっぱり最近いろいろ起きてるんだなあ」
つばさが心底楽しそうに言う。
レナは平然としていた。
備品の箱を閉じながら、さらっと言う。
「ただの手伝いよ」
「へえ、ただの手伝い」
「藤宮さん、その言い方は感じ悪い」
ことりがすぐに言い返す。
それが思ったより強くて、今度はつばさが少しだけ目を丸くした。
「怒られた」
「怒るよ、普通に」
「ふうん」
つばさはにやっと笑う。
「七瀬さん、最近ほんと分かりやすいね」
「っ……」
ことりが詰まる。
やめろ。
今ここでその方向へ進めるな。
「絆創膏なら棚の二段目」
レナが何でもない声で言った。
空気を戻そうとしてくれているのが分かる。
「あ、うん、ありがとう榊さん」
ことりが慌ててそちらへ向かう。
つばさもそれ以上は何も言わず、ただ俺を見て、少しだけ楽しそうに肩をすくめた。
――これはたぶん、まだまだ面倒になる。
その確信だけを新しくしながら、俺は保健室の白い天井を見上げた。
少なくとも、榊レナという新しい観察者まで加わったのは間違いなかった。
しかもこの人、つばさよりずっと静かで、たぶんずっと鋭い。
最悪かもしれない。
いや、案外、そうでもないのかもしれない。
その判断は、まだつかなかった。




