第6話 雨の日の二人きりは、だいたい誤解を呼ぶ
空が怪しい、とは朝から思っていた。
四月の空は気まぐれだ。
登校したときはちゃんと晴れていたくせに、昼を過ぎるころには雲が厚くなり、五限目の終わりには窓の外がすっかり鈍い灰色になっていた。
その時点で、嫌な予感はしていた。
そして嫌な予感というものは、たいてい的中する。
六限目が終わった直後だった。
教室の外で、ぱたぱたと小さな音がし始める。最初は控えめだったそれが、あっという間に本格的な雨音へ変わった。廊下側の窓に細かい水滴が打ちつけられ、教室の中からも分かるくらいの勢いになる。
「うわ、降ってる」
「え、傘持ってないんだけど」
「最悪、洗濯物……」
あちこちから声が上がる。
部活組はため息をつき、帰宅組はスマホで天気予報を見始める。俺も鞄の横ポケットを探ってみたが、折りたたみ傘は入っていなかった。
「……まじか」
朝は晴れてたんだから仕方ない。
仕方ないが、今日は駅まで歩きなのだ。かなり面倒くさい。
みずきは後ろで「だから言ったのに」と誰かに言っていた。たぶん自分で折りたたみを持ってきているのだろう。そういうところ、昔から妙にしっかりしている。
一方、前のほうでは七瀬ことりが窓の外を見ていた。
雨の音に気を取られているように見えたが、ふとこちらと目が合う。すぐに逸らされる。もう最近ではそれも見慣れてきた。
――見慣れてきた、という表現がまずおかしい気もするが。
結局、その日はクラス全体がいつもよりだらだらと教室に残る流れになった。
すぐには帰れない。部活が始まるまで様子を見るやつもいれば、雨が弱くなるのを待つやつもいる。担任も「しばらく様子見ろよー」と気軽に言い残して職員室へ行ってしまった。
俺は席で頬杖をつきながら、窓の外の雨線を見ていた。
「帰れそう?」
不意に、横から声がした。
顔を上げると、ことりが立っていた。手には小さなポーチ。たぶん帰り支度はもう終えている。
「無理そう」
「だよね」
ことりは少しだけ笑って、俺の前の席を引いた。
「座っていい?」
「どうぞ」
言いながら、俺は心の中で小さく警戒した。
教室のど真ん中でことりが俺の近くにいる。この状況自体が、今の俺たちには微妙に危ない。
だが、雨のおかげか周囲はそこまでこっちを気にしていない。みんな自分の帰宅手段のほうが大事らしい。ありがたい。
「白井くん、傘ないの?」
「ない」
「私も」
「七瀬でもそういうことあるんだな」
「どういう意味?」
「何でもちゃんとしてそう」
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
「最近その言い方うつってきてない?」
ことりがくすっと笑う。
前より少し、こういう何でもない会話が続くようになってきた気がする。とはいえ、二人の間にあの日の秘密があることは変わらない。変わらないからこそ、こういう“普通”が少しだけ不思議だった。
ことりは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「……なんか、雨ってさ」
「うん」
「変に静かになるよね」
「分かる」
「教室に人いるのに、別の場所みたい」
たしかにそうだと思った。
雨の日の校舎は、音が全部少し遠くなる。誰かが笑っていても、机を引く音がしても、その向こう側でずっと雨が鳴っているせいで、世界が一枚隔てられたみたいになる。
「昨日のこと」
ことりがぽつりと言った。
俺は少しだけ姿勢を正す。
「昨日?」
「……じゃなくて、その前」
「ああ」
どっちの“前”か一瞬迷ったが、たぶん迷う必要はなかった。
「ちゃんとお礼言えてなかったなって思って」
「いや、昨日も言ってた」
「足りないの」
「足りないとかあるのか」
「あるよ」
ことりはまっすぐ前を見たまま言う。
「私、あのときほんとにどうしていいか分からなかったから」
教室のざわめきが少し遠くなる。
雨音が、逆にその言葉だけを近くした。
「泣きそうだったし、恥ずかしかったし、もう学校来たくないってちょっと思ったし」
「……うん」
「でも白井くん、笑わなかったでしょ」
「笑うわけないだろ」
「そういうふうに即答されるの、ちょっと救われる」
ことりがそう言って、少しだけ笑う。
無理に明るくしようとする笑いじゃなくて、ちゃんと本音に近いほうの笑いだった。
「私ね」
「うん」
「白井くんって、もっと鈍い人かと思ってた」
「それ前も言われたな」
「前は“普通”って言ったから」
「今回は鈍いって言うのか」
「違う。鈍いけど、大事なとこではちゃんと気づく人」
「フォローが雑なんだよ」
「ごめん」
ことりはふふっと笑った。
その横顔を見ていると、あの日の教室で泣きそうになっていたのが同じ人だということが、時々よく分からなくなる。もちろん今だって、完全に元通りではない。俺の前ではまだ少しぎこちない。でも、そのぎこちなさの奥に、少しずつこっちを信じてくれている感じがあった。
「……謝る必要はないよ」
俺は言った。
「え?」
「この前のこと。何回も言うけど」
ことりが目を丸くする。
「いや、でも」
「七瀬が悪くて起きたことじゃないだろ」
「そうだけど……」
「事故みたいなもんだし」
そこまで言ったときだった。
ことりが、ほんの少しだけ苦しそうな顔をした。
「……それ、白井くんだから言えるんだよ」
「何が」
「事故みたいなもん、って」
声は小さい。でも、はっきりしていた。
「私にとっては、たぶんそれだけじゃなかったから」
俺は一瞬、言葉を失った。
どう返せばいいのか分からなかった。
気軽に受け止めるのも違うし、重くしすぎるのも違う気がした。
ことりは自分で言ってから、少しだけ焦った顔になる。
「あっ、違うの。変な意味じゃなくて」
「最近それ多いな」
「だって、白井くんの顔が『えっ』ってなるから」
「そりゃなるだろ」
「でもほんとに、そういう意味じゃなくて」
ことりはポーチの端をぎゅっと握った。
「たぶん私にとっては、“恥ずかしかったこと”だけじゃなくて、“それを白井くんに見られたこと”のほうが大きいの」
雨音が強くなる。
その言葉は、予想していたよりずっと深いところに落ちてきた。
「……どういう意味だよ」
自分でも驚くくらい、声が小さくなっていた。
ことりは少しだけ迷って、それから観念したみたいに笑った。
「だから」
「うん」
「白井くんだったから、余計に恥ずかしかったの」
そこで、今度は完全に俺の思考が止まった。
教室のざわめきも、雨音も、一瞬だけ遠くなる。
ことりはそんな俺を見て、しまったという顔をした。
「ご、ごめん! 今の忘れて!」
「いや、忘れろって言われても無理がある」
「だよね……」
「だよ」
ことりは両手で顔を覆いたそうな勢いで俯いた。
その耳が、はっきり分かるくらい赤い。
俺だって似たような顔をしている自信があった。
「……それ、どう受け取ればいいんだ」
やっとそれだけ言うと、ことりは少しだけ顔を上げた。
「どう受け取るも何も」
「いや、あるだろ」
「あるけど」
「あるのか」
「あるけど、今はそこまで言わない」
ことりはそう言って、困ったように笑う。
「白井くん、たぶん今の時点で十分いっぱいいっぱいでしょ」
「まあ、それは」
「でしょ」
そう言われると否定できない。
俺が黙っていると、ことりは少しだけ声をやわらげた。
「でも、あの日のこと、私はちゃんと感謝してる」
「うん」
「ただの失敗じゃなくて、ちゃんと受け止めてくれたから」
その言い方は、何だかずるかった。
俺は何か返さなければと思った。
でも、気の利いた台詞は相変わらずひとつも思いつかない。
「……七瀬」
「なに」
「ほんとに、もう謝るなよ」
それだけ言うのが精一杯だった。
ことりは一瞬きょとんとして、それから少しだけ目を細めた。
「うん」
「何回も言わせるな」
「それは白井くんが、そのたびちゃんと聞いてくれるから」
「そういうのやめろ」
「どれ?」
「その、普通に言うと強いこと」
ことりは口元に手を当てて笑った。
「白井くんって、ほんとに自分が何言ってるか分かってないんだね」
「分かってたらもっと上手くやってる」
「それもそうかも」
その会話だけ見れば、たぶん普通だった。
少しだけ距離の近いクラスメイトの、放課後の会話。
でも中身は全然普通じゃない。
そして、その“普通じゃなさ”は、たぶん外から見るともっと別のものに見える。
――その最悪のタイミングで。
「真央?」
聞き慣れた声が、背後から飛んできた。
俺とことりが同時に振り向く。
渡り廊下の入口に、朝比奈みずきが立っていた。
しかも傘を片手に、少し濡れた前髪を指で払っている。たぶん部室棟のほうへ行く途中か、もしくは誰かを探していたのだろう。
だが、問題はそこではない。
俺たちの今の距離だ。
窓際のベンチ。
二人きり。
雨の日。
しかも会話の最後に俺がことりの名前を呼び、ことりが静かに頷いていたところである。
言い訳が難しすぎる。
「……あ」
ことりが小さく声を漏らす。
みずきの視線が、俺とことりの間を一往復した。
その表情は一見無表情だった。だからこそ怖い。
「何してんの」
声は低くなかった。
でも、妙に平たい。怒っているときのみずきは、時々こういう声になる。
「いや、その」
俺が言いかける。
ことりが先に口を開いた。
「朝比奈さん、違うの」
「違うって何が?」
「え」
「私、まだ何も言ってないけど」
ことりが固まる。
完全に分が悪い。というか、最初の一言で自分から“誤解される何か”だと認めたようなものだ。
「真央」
「はい」
「なんで敬語なの」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで敬語になるくらいには後ろめたいの?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあどういうわけ」
鋭い。
やっぱり鋭い。
俺は頭をかいた。
言えない。ここで事情を言うわけにはいかない。だが黙っていても、もっと怪しくなる。
「雨、降ってたから」
苦し紛れにそう言う。
「見れば分かる」
「待ってただけ」
「二人で?」
「たまたま一緒になった」
完全な嘘ではない。
でも説得力は薄い。
みずきはふうん、と小さく言って、少しだけことりのほうを見た。
「七瀬さん」
「は、はい」
「さっき“違う”って言ったよね」
「……うん」
「何が違うの?」
逃げ場のない問いだった。
ことりは言葉に詰まり、それから俺をちらっと見る。
その一瞬で、みずきの眉がぴくっと動いた。
「……そういうの、ずるい」
「え?」
「今の。真央を見るの」
ことりの目が揺れる。
俺も一瞬だけ息を止めた。
みずきは自分で言ってから、少しだけ唇をかんだ。
たぶん、本当はもっと別の言い方をするつもりだったのだろう。でも感情が先に出てしまった。
「朝比奈さん、私は」
ことりが何か言おうとする。
「別に責めてるわけじゃない」
みずきが先に言った。
「ただ、最近ずっとそうだから」
「……最近?」
「真央の前でだけ、明らかに違うじゃん」
ことりが黙る。
否定できないのだろう。実際、できないと思う。
「それで、二人で、内緒っぽい顔して、放課後に雨宿りしてたら」
みずきの声が少しだけ震えた。
「何も思うなってほうが無理なんだけど」
その言葉で、ようやく分かった。
みずきは怒っているだけじゃない。
ちゃんと傷ついている。
俺はそこで、初めて少しだけ本気で焦った。
「みずき」
「何」
「そういうんじゃない」
「だから、その“そういうんじゃない”が一番信用できないって言ってるでしょ」
「いや、でも本当に」
「本当に何?」
問われて、言葉が止まる。
ここで“本当に何もない”とは言えない。俺とことりの間には、明確に秘密がある。しかもそれは、みずきに言えない種類のものだ。
黙ったことが、さらに悪かった。
みずきは小さく笑った。
でもそれは、笑ったというより、自分を無理やり納得させる時の顔だった。
「……そっか」
「みずき」
「分かった。邪魔したね」
「邪魔とかじゃなくて」
「じゃあ何なの」
雨の音がうるさいくらいに響く。
誰も来ない渡り廊下の空気が、急に息苦しくなった。
ことりが意を決したように言った。
「朝比奈さん、白井くんは悪くないの」
「へえ」
みずきの目が細くなる。
「じゃあ、七瀬さんが悪いの?」
「そういうことじゃなくて!」
「じゃあどういうこと?」
「それは……言えない」
「また言えないんだ」
みずきは肩をすくめた。
「いいよ、もう。そうやって二人だけで分かってる感じ出されるの、一番嫌だし」
その一言が、ことりをはっきり傷つけたのが分かった。
でも、みずきだって傷ついている。だから余計に厄介だった。
「みずき、待て」
「待たない」
みずきはきっぱり言って、踵を返した。
その瞬間、渡り廊下の床に、ぱた、と水滴が落ちる。
外から吹き込んだ雨か、みずきの髪から落ちた雫かは分からなかった。
「……最悪」
小さく、それだけ言い残して、みずきは行ってしまった。
ことりが立ち上がりかける。
「追いかけたほうが」
「いや」
俺は反射でそう言った。
「今行っても、たぶん余計こじれる」
「でも……」
「ことりが行っても同じだと思う」
ことりは唇を結んだ。
たぶん、それが正しいと分かっているのだろう。だから余計につらそうだった。
しばらく、二人とも黙った。
さっきまであれだけ守ってくれていた雨音が、今はただうるさいだけだった。
「……ごめん」
ことりが言う。
俺はすぐに首を振った。
「違う」
「でも、私が」
「違うって」
少しだけ強く言ってしまう。
ことりは驚いた顔で俺を見る。
「誰が悪いとかじゃない」
「でも」
「たぶん、みずきも悪くない」
ことりは黙った。
「嫌なんだと思う。分からないことがあるの」
「……うん」
「でも、それを今言えないのも本当だし」
「うん」
「だから、どうしようもない」
言葉にすると、余計に苦かった。
ことりは少しだけうつむいて、それから静かに言った。
「白井くんって、やっぱり優しいね」
「今その話する?」
「こういうときでも、誰かだけ悪くしないから」
「……そうしないと、たぶん自分が嫌になる」
ことりは少しだけ目を見開いた。
それから、小さく笑った。今の状況にはまるで似合わない、でもどこか救われるような笑いだった。
「そういうとこ、ほんとずるい」
「だからその言い方やめろって」
「やめない」
そう言って、ことりは立ち上がった。
「今日は帰る」
「うん」
「白井くんも、ちゃんと帰って」
「分かってる」
「あと」
「何」
「さっきの、忘れないで」
「どれだよ」
「……恥ずかしかったの、白井くんだったからってやつ」
「それは忘れろって言ってただろ」
「でも、ちょっとは覚えてて」
どっちだよ、と言いかけて、やめた。
ことりはもう赤くなっていた。
それ以上追い込むと、また余計に面倒になる。
「……分かった」
「うん」
それだけ言って、ことりは小走りで渡り廊下を出ていった。
残された俺は、しばらくその場で立ち尽くした。
雨はまだ強い。
けれど、さっきまでとは別の意味で、今日はもう帰れそうになかった。
俺は頭を抱えたくなるのをこらえながら、小さく息を吐く。
「なんなんだよ、ほんと……」
好きな子の秘密を知ってしまっただけだったはずなのに。
笑わずに助けただけだったはずなのに。
それなのに、どうしてこうも全部がややこしくなるんだろう。
雨の日の放課後は、やっぱり危険だ。
少なくとも、俺の青春にとっては。




