第5話 情報通の女子は、恋の匂いより先に異変を見抜く
藤宮つばさという女子を一言で説明しろと言われたら、たぶん俺はこう答える。
“人の空気を読むのがうますぎるくせに、それを面白がることに一切の遠慮がないやつ”。
しかも厄介なことに、本人に悪気がない。
悪意で人を引っかき回すタイプじゃないのだ。ただ純粋に、面白い流れを見つけると首を突っ込みたくなるだけで。
その“だけ”が非常に困る。
翌朝、俺が教室に入った時点で、もう嫌な予感はしていた。
つばさがいた。
いや、別にそれ自体は毎日のことだ。
同じクラスなのだから当たり前である。
問題は、俺が入ってきた瞬間に、つばさがにやっとしたことだった。
「おはよ、白井くん」
「……おはよう」
「なにその警戒した声」
「してない」
「してるしてる。めっちゃしてる」
朝っぱらから鋭い。やめてくれ。まだ心の準備ができていない。
つばさは自分の席に座ったまま、頬杖をついてこちらを見る。
「昨日さ」
「朝からその話題やめろ」
「まだ何も言ってないけど?」
「言うつもりだっただろ」
「正解」
こいつ、隠す気がないな。
俺が自分の席に鞄を置くと、つばさはちらりと前方を見た。
つられて俺もそっちを見る。
七瀬ことりが、友達と話していた。
そして、ちょうどそのタイミングでこちらに気づいたらしく、目が合う。
「――っ」
固まった。
しかも一瞬だけ口元まできゅっとなる。そのあと慌てて視線をそらす。
うん、分かりやすい。
分かりやすすぎる。
「ね?」
つばさが楽しそうに言った。
「何が」
「いやあ、やっぱりそうなんだなーって」
「主語がない会話やめろ」
「だって主語つけたら面白くないじゃん」
「面白さ優先で話すな」
つばさはくすくす笑った。
「でもさ、白井くんって、意外とそういうタイプなんだね」
「どういうタイプだよ」
「表では静かなのに、裏でこっそりフラグ立てるタイプ」
「言い方!」
「違うの?」
「違う」
違う。
違うのだが、何が違うのかを説明できないのが苦しい。
つばさは俺の返事を聞いても、まるで信じていない顔だった。
「ふうん。でも七瀬さん、完全に白井くんの前だけ挙動おかしいよ?」
「人をおかしい扱いするな」
「いや、あれはちょっとおかしいでしょ。かわいいけど」
かわいいとか言うな。余計に意識する。
俺が何も返さずにいると、つばさはふいに声のトーンを少し落とした。
「安心して。別に言いふらしたりはしないよ」
「……そうか」
「そこはもっと感謝してもよくない?」
「いや、おまえの場合、口に出さなくても顔に全部出るじゃん」
「それはまあ、否定できない」
してくれ。
そうこうしているうちに、みずきが教室に入ってきた。
俺を見て、つばさを見て、嫌そうに眉をひそめる。
「朝から何しゃべってんの」
「恋バナ」
つばさが即答した。
「してない」
俺も即答した。
「どっち」
「俺」
「つまんないなあ」
「つばさが面白がりすぎなんだよ」
みずきは呆れたようにため息をつきながら、自分の席に鞄を置いた。
でも、そのあとでさりげなく俺に近づいて小声で言う。
「……藤宮さん、何か知ってるの?」
「何も知らない」
「“何も知らないのに面白がってる”感じ?」
「それ」
「最悪」
みずきが心底嫌そうに顔をしかめた。
でもそれはたぶん、つばさだけに向けた感想じゃない。俺とことりの間に何かあると気づいているのに、そこへさらに観客みたいなやつが現れたことも気に食わないのだろう。
俺は心の中で小さくうめいた。
昨日までで十分面倒だったのに、今日からは“事情を知らないくせに勘だけ鋭い第三者”まで加わった。
地味に一番厄介じゃないか、これ。
◇
一限目のあと。
教室の空気が少し緩んだ休み時間に、その厄介さはさっそく発揮された。
「七瀬さん」
つばさが、さらっとことりに声をかけたのだ。
俺は席で教科書を閉じながら、そのやり取りを聞くともなく聞いていた。
いや、正確には全力で聞いていた。こういうときに限って耳だけやたら良くなるの、なんなんだろう。
「ん? なに、藤宮さん」
ことりはいつものやわらかい笑顔を向ける。
けれど、つばさの次の言葉で、その笑顔がほんの少しだけぎこちなくなった。
「最近、白井くんと仲いいよね」
直球すぎるだろ。
「えっ」
ことりの声がわずかに裏返る。
「べ、別に、普通だよ?」
「普通にしては、白井くんを見るたび反応が大きい気がするけど」
「そ、そんなことないと思うな」
「あると思うなあ」
つばさは笑っている。
でもその目は、相手の反応をひとつも見逃していない目だった。
ことりは一瞬だけ黙って、それから小さく首を振った。
「……たぶん、気のせいじゃないかな」
「気のせい、ねえ」
「うん」
「じゃあさ」
つばさが頬杖をついたまま言う。
「放課後、二人で中庭歩いてたのも気のせい?」
ことりの動きが止まった。
終わった。
俺は机に突っ伏したくなった。
「……見てたの?」
ことりが小さな声で言う。
「偶然ね」
「その“偶然”はたぶん信用しちゃだめなやつだよね」
「まあ半分くらいは」
「半分しか偶然じゃない!」
ことりが思わず少し大きな声を出す。
そのやり取り自体は軽い。けれど、ことりが明らかに動揺しているのは、聞いているこっちにも分かった。
つばさは少しだけ笑ってから、ふっと表情をやわらげた。
「別に責めてるわけじゃないよ」
「……」
「たださ、珍しいなって思って」
「珍しい?」
「七瀬さんって、男子と距離近いタイプじゃないじゃん」
それはたしかにそうだった。
ことりは誰にでも感じがいい。
でも、誰にでも同じように優しいだけで、特定の男子とあからさまに親しげにしている印象はなかった。クラスの人気者ではあるけれど、“男女混ざって騒ぐ中心”というより、女子側の輪の中で自然に人が集まるタイプだ。
そんなことりが、俺みたいな地味な男と、最近やたら目が合うし、反応も不自然。
観察眼の鋭い人間から見れば、そりゃ気になるだろう。
「……白井くんは」
ことりが言った。
「ちょっと、助けてもらったことがあって」
俺はぴくっとした。
つばさも、目を細める。
「へえ。何を?」
「それは、言えない」
「言えないんだ」
「言えない」
ことりの声は静かだったが、はっきりしていた。
それでいて、どこか少しだけ恥ずかしそうでもある。
「そっか」
つばさはそこで追及をやめた。
それが意外だったのか、ことりも少し驚いた顔をする。
「聞かないの?」
「聞きたいけど、そこまで困らせる趣味はないよ」
その言い方は軽いのに、妙に本音っぽかった。
「ただ」
「……ただ?」
「白井くんって、助け方が自然すぎて、たぶん勘違いされやすいから気をつけたほうがいいよ」
その一言に、今度は俺のほうが固まった。
何だその的確な評価は。
ことりも一瞬、言葉を失ったらしい。
それから、小さく笑った。
「それは……ちょっと分かるかも」
「分かるんだ」
「うん。なんか、そういうとこある」
「ちょっと待て」
俺はとうとう割って入った。
「本人のいないところで勝手に分析するな」
「いるじゃん」
つばさが即座に返す。
「いや、そういう問題じゃなくて」
「白井くん、自分で気づいてないんだ」
「何を」
「優しくするときだけ、妙に距離感が自然なんだよ」
ぐうの音も出ない。
出ないが、認めたくもない。
「それ、いいことじゃない?」
ことりが少しだけかばうように言う。
「いいことだけど、危ないことでもあるよ」
つばさはさらっと言った。
「相手が弱ってるときにそれやると、わりと効くから」
やめろ。
それ以上はやめてくれ。
俺の知らない俺の話を、そんなに分かりやすく言語化しないでほしい。
ことりは完全に赤くなっていた。
俺もたぶん、それなりに変な顔をしていたと思う。
つばさはそんな俺たちを見て、ふっと笑う。
「ほら、やっぱり面白い」
「面白がるなって言ってるだろ」
「いやでも、これは観察しがいあるもん」
「観察対象にするな」
「もうしてる」
堂々と言うな。
◇
昼休み。
俺は購買で買ったパンを持って、自分の席に戻った。
みずきは隣の席の女子と話しているふりをしながら、たぶんこっちを見ている。ことりは窓側で弁当箱を開いている。つばさはそんな全体を眺めながら、にやにやしている。
最悪の教室だな、と本気で思った。
「白井くん」
つばさが、俺の机を軽く指で叩いた。
「何」
「今日のお昼、一人?」
「だいたいいつも一人だよ」
「寂しくないの?」
「おまえは俺を何だと思ってるんだ」
「そこそこ一人が似合う男子」
「絶妙に否定しづらい評価やめろ」
つばさは笑ったあと、ふいに声を落とした。
「ねえ、本当に何があったの?」
その問い方は、朝までの面白がる感じとは少し違った。
「……何も」
「その言い方、ぜんぜん何もじゃないよね」
「だから言えないんだって」
「七瀬さんが絡んでるから?」
「……」
「黙ると答え合わせになるよ」
「それ分かってて聞いてるだろ」
「うん」
この人、やっぱり性格が悪いのでは。
いや、悪いというより、遠慮がないのか。
つばさは少し考えるように首をかしげた。
「まあ、無理に聞くつもりはないよ」
「珍しいな」
「なにその言い方」
「いつもなら聞くとこまで聞くだろ」
「それは“聞いてもいい空気のとき”だけ」
「今は違うと」
「うん。これは“聞いたらだめなやつ”っぽい」
俺は少しだけ目を見張った。
そういう線引きができる人間だとは、正直思っていなかった。
「意外な顔してる」
「してたか」
「してた。失礼だなあ」
「悪い」
「でもね」
つばさはパンの袋を指先でくるくる回しながら言った。
「何があったかは知らないけど、七瀬さん、白井くんの前でだけ明らかに無防備になるから」
「……」
「たぶん、ちゃんと大事にしてあげたほうがいいよ」
今度の言葉には、からかいがなかった。
だからこそ、少しだけ重かった。
「大事に、って」
「別に恋愛しろとかそういう話じゃなくて」
つばさは肩をすくめる。
「秘密を共有した相手って、思ってるより特別になるから」
その言葉に、俺は返事ができなかった。
つばさは俺の沈黙を見て、また少しだけ笑った。
「ま、そういう真面目なこと言うとびっくりされるんだけど」
「ちょっとだけな」
「ちょっとなんだ」
「かなりだな」
「ひどい」
けれど、つばさは怒らなかった。
むしろ楽しそうですらあった。
「でも、言いふらしたりしないから安心して」
「……助かる」
「お、やっと感謝した」
「おまえが珍しくまともなこと言うからだ」
「まともなことも言うよ。たまには」
「たまになのは自覚あるんだな」
そのやり取りの途中で、みずきがこちらを見ているのに気づいた。
そして、ことりも。
しまった、と思った時には遅かった。
ことりが、弁当箱を持ったまま立ち上がる。
「藤宮さん」
「ん?」
「白井くん、あんまり困らせないで」
教室の空気が、一瞬だけ静かになった気がした。
つばさがきょとんとする。
みずきがぴくりと眉を動かす。
俺は本気で机の下に潜りたくなった。
「……へえ」
今度はつばさの“へえ”だった。
「そういうこと言うんだ、七瀬さん」
「え、あ……」
ことりは言ってから気づいたらしい。
自分が何を言ったのかを。
「ち、違くて。そういう意味じゃなくて」
「そういう意味ってどういう意味?」
「藤宮さん!」
ことりが顔を真っ赤にする。
つばさは完全に面白がっているが、どこか嬉しそうでもあった。たぶん、“観察していたものがついに表に出た”感じなのだろう。
みずきが立ち上がった。
「ちょっと」
「え?」
「白井、飲み物買いに行く」
「今?」
「今」
有無を言わせない声だった。
俺は拒否権がないと判断し、立ち上がる。
「じゃ、そういうことで」
「何が“そういうことで”なの」
つばさが笑う。
ことりは顔を伏せたまま動かない。
俺はその様子が少し気になったが、ここで何か言うのは違う気がした。
◇
自販機の前まで来ると、みずきは財布を取り出しながら、無言で炭酸飲料のボタンを押した。
ごとん、と缶が落ちる音がする。
「ほら」
「俺の分は」
「自分で買って」
「付き合わされたのに?」
「付き合わせたの」
ひどい。
俺も適当にコーヒーを買って、プルタブを開ける。
春の風はまだ少し冷たい。
「で?」
みずきが炭酸を一口飲んでから言った。
「藤宮さんと何話してたの」
「何って、普通に」
「普通じゃないでしょ。あの人が白井に普通の話だけすると思う?」
「信頼がないな」
「あるわけないじゃん」
即答だった。
俺は缶を持ったまま、少しだけ視線をそらす。
「……ことりのこと、聞かれた」
名前を口にした瞬間、みずきの目がわずかに細くなる。
「何て?」
「最近仲いいよねって」
「で?」
「何も言ってない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
みずきは少し黙った。
「七瀬さん、あんたのことかばってた」
「……まあ」
「“困らせないで”って」
「言ってたな」
「言ってたな、じゃなくて」
みずきは缶を持つ手に少し力を入れた。
「そういうの、やめてほしいんだけど」
「何が」
「なんかさ」
みずきは言葉を探すみたいに眉を寄せる。
「そうやって、私の知らないところで、あんたの中で何かが積み上がっていく感じ」
昨日も似たようなことを言っていた。
でも今日は、それがもっとはっきりしている。
「別に、おまえを外したいわけじゃない」
「分かってる」
「でも言えないことはある」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「分かってても、嫌なものは嫌なの」
みずきはそう言って、炭酸を一気に飲んだ。
強気な言い方なのに、その横顔は少しだけ寂しそうだった。
俺はしばらく何も言えなかった。
みずきがこんなふうに感情を言葉にするのは、珍しい。怒るとか拗ねるとかじゃなくて、“嫌だ”とだけ言うのは、たぶんかなり本音だ。
「……悪い」
「だから、謝らなくていいって」
「でも」
「私が勝手に嫌がってるだけだし」
「そういう言い方すんな」
俺が思わず言うと、みずきが少しだけ目を見開いた。
「勝手とかじゃないだろ」
「え」
「嫌なら嫌でいいじゃん。別に」
自分でもうまく整理できていないまま口にした言葉だった。
でも、それは本音でもあった。
みずきはしばらく黙ってから、小さく笑った。
「……そういうとこなんだよね」
「何が」
「無自覚で優しいの」
「優しくないだろ、今のは」
「いや、優しい」
「そうか?」
「うん。たぶん、そういうのにやられる子、多いと思う」
俺は嫌な予感がして顔をしかめた。
「その言い方やめろ」
「事実じゃん」
「認めたくない」
「本人だけが一番認めてないの、ちょっと面白い」
「藤宮化するな」
「しないし」
でも、みずきはさっきより少しだけ機嫌が戻っていた。
それが分かっただけでも、ここに連れてこられた意味はあったのかもしれない。
◇
その日の帰り際。
教室に戻ると、つばさが鞄を肩にかけながら俺に向かってひらひら手を振った。
「じゃ、おつかれー」
「おう」
「白井くん」
「何だよ」
「ちゃんと守ってあげなよ、いろいろ」
またそんなことを言う。
「守るって何を」
「そういう鈍い顔してるから面白いんだよなあ」
「説明しろ」
「しなーい」
つばさは笑いながら教室を出ていった。
その背中を見送ってから、俺は何となく窓際へ目をやった。
ことりが、帰り支度をしながらこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの少しだけ、ことりが困ったように笑う。
朝みたいに逃げるような感じじゃない。
まだぎこちないけれど、昨日より、今日の昼より、ほんの少しだけ自然だった。
俺も小さくうなずく。
それだけで、ことりの表情がやわらいだ。
その様子を、斜め後ろからみずきが見ていたことに、俺はまた少し遅れて気づく。
「……はあ」
「何だよ、そのため息」
「なんでもない」
「絶対なんかあるだろ」
「あるけど、今は言わない」
「怖いな」
「白井が悪い」
「理不尽だ」
「そう思うならちょっとは反省しなさいよ」
「何を」
「全部を」
「範囲広すぎるだろ」
みずきは呆れたように肩をすくめ、それでも完全には怒っていない顔で鞄を持ち上げた。
七瀬ことり。
朝比奈みずき。
藤宮つばさ。
たった数日で、俺の放課後はずいぶん騒がしくなった。
しかもまだ、何も解決していない。
どころか、たぶんこれからもっとややこしくなる。
それが分かっているのに、完全に嫌だと思いきれないのがいちばん困る。
春の夕方の教室で、俺はそんなことを考えていた。




