第4話 返したいのは借りたものだけじゃない
放課後という時間は、どうしてこうも人を油断させるんだろう。
授業が終わって、チャイムが鳴って、先生が出ていって、クラスの空気が一気にゆるむ。
その瞬間だけ、みんな少し本音に近づく気がする。
だからこそ、放課後は危険だ。
少なくとも、今の俺――白井真央にとっては。
四限目のあとからずっと、俺は微妙に落ち着かなかった。
理由は分かっている。昨日、七瀬ことりが言っていた“上着を返す”話だ。
あのブレザーは、まだ返ってきていない。
ということは、今日、どこかでその話になる可能性が高い。
別に返してもらうだけなら何の問題もない。ないはずなのに、問題がない気がしないのが問題だった。
鞄に教科書をしまいながら、俺は何となく前の席を見る。
七瀬ことりは友達と話していた。笑っている。けれど、ほんの少しだけ落ち着きがない。今日一日そうだったように、こっちの様子を気にしているのが分かる。
そしてその数列後ろでは、朝比奈みずきが妙に無言だ。
怖い。
なぜか何も言われないほうが怖い。
「真央」
低い声が飛んできた。
「はい」
「はい、じゃない」
振り返ると、みずきが腕を組んで立っていた。今日何度目か分からない“問い詰める前の顔”をしている。
「今日、帰り一緒?」
「急に普通の質問だな」
「普通じゃ困る?」
「いや、助かるけど」
「じゃあ助かりなさいよ」
言い方が雑だ。だが、今はその雑さが逆にありがたい。
少なくとも教室の真ん中で“昨日のこと”を蒸し返されるよりはましだ。
「別にいいけど」
「ふうん」
「何だよ、その反応」
「べつに。断られるかと思っただけ」
「断る理由ないだろ」
「……そう」
みずきは少しだけ目をそらした。ほんの一瞬だけだが、その顔はいつもの強気なやつじゃなくて、少しだけ拍子抜けしたみたいだった。
そこへ、柔らかい声が割って入る。
「白井くん」
来た。
背筋が勝手に伸びる。
振り向くと、七瀬ことりが教室の入り口側で立っていた。手には、きれいにたたまれた紺色のブレザー。俺のだ。
「あ……」
間抜けな声が出たのは仕方ないと思う。
ことりは少しだけ緊張した顔をしていたが、それでもきちんと笑おうとしているのが分かった。
「これ、その……借りてたやつ。洗ってきたから」
「あ、ありがとう」
教室の空気が、うっすらこちらへ寄ってくるのを感じる。
別に誰も露骨に見ているわけじゃない。けれど、“目立つ女子が目立たない男子にブレザーを返している”という絵面は、それだけで十分に人の関心を引く。
みずきの視線も痛い。ものすごく痛い。
「……ちゃんと、洗ってあるから」
「いや、別にそこは疑ってない」
「そ、そうだよね」
ことりが少し困ったように笑う。
俺は受け取ったブレザーの重みを感じながら、何となく次の言葉を待った。
するとことりは、少しだけ息を吸ってから言った。
「それで、その……もし時間あったら、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「話したいことがあって」
教室の空気が、今度こそはっきり揺れた。
俺はみずきのほうを見てしまった。
見なければよかった。完全に“は?”って顔をしている。
「今?」
とりあえず聞き返す。
「うん。少しだけ」
ことりは小さくうなずいた。
その表情は真剣で、冗談とか軽いノリではないのが分かる。
俺は一瞬だけ迷った。
正確には、迷ったふりをした。実際には断れないと最初から分かっていた。昨日の件の延長線上にある話なら、聞かないわけにはいかない。
「……分かった」
「ありがと」
ことりの顔が少しだけやわらかくなる。
その瞬間、背後からみずきの声が飛んだ。
「へえ」
今日何度目か分からない“へえ”だったが、過去一で温度が低かった。
「真央、さっき一緒に帰るって言ったのに」
「いや、まだ帰るとは言ってない」
「言ったようなもんでしょ」
「日本語の解釈が強いな」
「何その返し」
みずきが睨んでくる。
ことりは一歩だけ引いた。気まずそうに視線を伏せる。
「あ、朝比奈さん、ごめんね。そんなに長くじゃないから」
「別に謝らなくていいよ」
みずきは笑った。
笑ったが、目は全然笑っていなかった。
「七瀬さんが悪いわけじゃないし」
「いや、その言い方もそれはそれで怖いぞ」
「真央は黙ってて」
「はい」
俺は素直に黙った。
この場で下手に動くと被害が拡大する。
幸い、教室の外から部活の勧誘の声が聞こえて、周囲の興味が少し散った。その隙に、俺はことりへ視線を向ける。
「どこ行く」
「購買の前……は人多いかな」
「多いな」
「じゃあ、中庭のベンチとか」
「分かった」
ことりがこくりとうなずく。
その横で、みずきがものすごく言いたそうな顔をしていた。
でも教室の中でそれを言わないあたり、ちゃんと抑えているのだろう。抑え方が雑なだけで。
「……あとで」
小さく、それだけ言われた。
「何が」
「いろいろ」
「怖いなあ」
「怖がるようなことしてるからでしょ」
反論できなかった。
◇
中庭のベンチは、思ったより空いていた。
春の夕方で、空はまだ明るい。桜は少し散り始めていて、風が吹くたびに花びらがぱらぱらと舞う。こういう景色だけ見ると、やたら青春っぽい。俺の状況は全然そんなきれいなものじゃないけど。
ベンチに座る前に、ことりが少しだけ躊躇した。
「ここでよかった?」
「別にどこでも」
「……どこでも、ってちょっと冷たくない?」
「そういう意味じゃない」
「分かってるけど」
ことりはくすっと笑ってから、ベンチの端に腰を下ろした。俺も少し距離をあけて座る。
沈黙が落ちる。
たぶんこれ、俺から何か言ったほうがいいやつだ。
でも下手なことを言って余計に変な空気にしたくない。
「それで」
先に口を開いたのは、ことりのほうだった。
「ブレザー、ちゃんと大丈夫だった?」
「大丈夫って?」
「クリーニングとか出したほうがよかったかなって」
「いや、そこまでしなくていいだろ」
「でも気になるし」
「気にしすぎだ」
「白井くんが気にしなさすぎなの」
少しだけ拗ねたみたいな声だった。
「普通、もっと嫌がってもよくない?」
「何を?」
「……何を、って言わせる?」
「いや、そこは言わなくていい」
俺が慌てて止めると、ことりは笑いをこらえるみたいに唇を押さえた。
「ふふ」
「笑うな」
「だって、そこだけ急に慌てるんだもん」
「慌てるだろ、そりゃ」
「へえ、慌てるんだ」
「人を何だと思ってるんだよ」
「もっと何も感じないタイプかと」
「それはもはや人としてどうなんだ」
ことりは肩を揺らして笑った。
教室で見る“誰にでも見せる笑顔”より、少しだけくだけた感じがした。
「昨日から思ってたけど」
笑いの余韻の中で、ことりが言う。
「白井くんって、思ってたより普通だね」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいいけど」
「うん。思ってたより、ずっと話しやすい」
その言葉に、少しだけ胸のあたりがざわつく。
俺は何となく空を見上げた。
春の空は明るいくせに、夕方になると妙に落ち着かない色をしている。
「……昨日、家帰ってから、ちょっと考えたんだ」
ことりが静かな声で言った。
「たぶん私、あのときすごくみっともなかったでしょ」
「そんなことない」
「いや、あったよ。すごかったと思う。頭の中真っ白で、どうしたらいいか全然分からなくて、泣きそうで」
ことりは膝の上で指先を組んだ。
「ほんとなら、ああいうのって見られた時点で終わりじゃん」
「終わりって」
「だって、もう恥ずかしすぎて普通にできないもん」
「……まあ、気持ちは分かる」
「でも白井くん、終わらせなかった」
その言葉に、俺はことりを見る。
彼女はまっすぐ前を向いていた。
風が吹いて、肩にかかった髪が揺れる。
「ちゃんと助けてくれて、ちゃんと何でもないみたいにしてくれて」
「何でもなくは、なかったけど」
「私にとっては何でもない顔してくれたのが助かったの」
ことりは少しだけ笑った。
「今日も、ほんとはすごく気まずかったんだよ」
「それは……見てて分かった」
「見てたんだ」
「そりゃ見えるだろ」
「恥ずかしい」
「だから笑ってない」
「そういうとこだよ」
ことりがそう言って、小さく息を吐いた。
「私、今日、学校休みたかったもん」
「そこまでか」
「そこまでです」
きっぱり言われると、軽く流せなくなる。
「でも、来れた」
ことりは続けた。
「白井くんが普通にしてくれるって分かってたから」
その一言が、やけに重かった。
俺は自分の膝の上で手を組み直す。
変な責任感とかじゃない。ただ、その言葉を軽く受け取るのは違う気がした。
「……なら、よかった」
「うん」
「でも、無理はするなよ」
「え?」
「今日、朝からかなり無理してただろ」
ことりは目を丸くした。
「分かってた?」
「分からないほうが難しい」
「うわ……やだ……」
「なんでだよ」
「そんなにバレてたんだ……」
「ちょっとだけな」
「絶対ちょっとじゃないでしょ」
ことりが顔を覆う。
その仕草がいちいち大げさで、少しだけ可笑しい。
でも、可笑しいと思えたこと自体、昨日よりは確実に前進している気がした。
「じゃあ、その……これからは、もう少し普通にする」
「そうしてくれると助かる」
「でも、白井くんも」
「俺?」
「もう少しだけ、冷たくしてくれてもいいのに」
「なんでそうなる」
「だって、そのほうが楽じゃない?」
「誰が」
「私が」
ことりはそこで、少しだけ困ったように笑った。
「優しくされると、余計に意識しちゃうから」
俺は完全に黙った。
風の音がした。
遠くで野球部のかけ声が聞こえる。春の夕方の中庭は、妙に何でもない顔をしているのに、こっちだけが落ち着かない。
「……あ、いや、変な意味じゃなくて!」
ことりが慌てて言い直す。
「変な意味っていうか、変だけど、そうじゃなくて、ほら、昨日のことあるし!」
「いや、分かったから落ち着け」
「分かってない顔してる」
「分かってないのは事実だな」
「もう……」
ことりが頬を押さえる。
赤い。かなり赤い。
俺は缶のジュースでも持っていればまだ間が持ったのに、と思った。今日は何も持っていない。手持ち無沙汰すぎる。
「じゃあ」
少しでも空気を変えようとして、俺は言った。
「何か買って帰るか」
「え?」
「購買。昨日は自販機だけだったし」
「……それ、お礼の続き?」
「別に。なんとなく」
ことりは一瞬驚いたあと、ふわっと笑った。
「行く」
「即答だな」
「だって、今ちょっとだけ普通っぽい」
「今まで普通じゃなかったみたいに言うな」
「普通じゃなかったよ、かなり」
「否定できないのが嫌だな」
ベンチから立ち上がる。
ことりも立ち上がって、スカートの裾を軽く整えた。
購買までは、校舎の脇を回って少しだけ歩く。
並んで歩く距離としては短い。けれど、今の俺たちには妙に長く感じた。
「白井くんって、いつも放課後なにしてるの?」
「帰る」
「端的すぎない?」
「事実だからな」
「寄り道とかしないの?」
「たまに本屋」
「なんか想像通り」
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分かよ」
「じゃあ、七瀬さんは」
言いかけて、俺は止まった。
「……七瀬、は」
「お」
「何だよ、その反応」
「いや、今“さん”取れたなって」
「そこ気にするのか」
「少しだけ」
ことりは楽しそうに笑う。
「私は、友達と寄り道したり、駅前の店見たり。あとはカフェとか」
「青春してるな」
「それ何」
「偏見込みの感想」
「白井くんもすればいいのに」
「向いてない」
「向いてるかどうかじゃなくて、するかどうかじゃない?」
そう言われると、少し困る。
俺は“向いてない”を便利に使いすぎてるのかもしれない。
購買に着くと、思ったより人が残っていた。
部活前の生徒や帰りがけの連中で、パンや飲み物の棚の前がそこそこ混んでいる。
「お、けっこうある」
ことりが目を輝かせる。
なんで購買でそんなに楽しそうなんだ。
「何にする?」
「んー……迷う」
「優柔不断か」
「こういうのは迷うのも楽しいの」
「女子っぽいこと言うな」
「女子だからね?」
「たしかに」
俺は適当に焼きそばパンを手に取った。
するとことりが、呆れたような顔をする。
「即決すぎない?」
「パンに人生かけてないからな」
「その言い方だと私がかけてるみたいじゃん」
「少なくとも今のテンションはそう見える」
「ひどい」
でも、ことりは楽しそうだった。
たぶん俺も、さっきよりは楽だった。
結局、ことりはクリームパンと小さな紙パックのミルクティーを選んだ。
レジを済ませ、購買前の壁際で立ったまま食べる。
「なんか、こうしてると普通だね」
ことりが言う。
「普通って便利な言葉だな」
「だって嬉しいんだもん」
「普通が?」
「普通に話せるのが」
ことりはクリームパンを両手で持ちながら、少しだけ目を細めた。
「昨日のあと、もう無理かもって思ったから」
「……無理じゃなかっただろ」
「うん。白井くんのおかげで」
「またそれ言う」
「だって本当だし」
真正面から言われると、どう反応していいか分からない。
俺が黙っていると、ことりはふっと笑った。
「でもね、白井くん」
「何」
「やっぱりちょっと変」
「どっちだよ」
「いい意味で」
「その付け足し、信用していいのか微妙だな」
「していいよ」
ことりはそう言って、ミルクティーを一口飲んだ。
その横顔は、教室にいるときよりずっと自然に見えた。
俺だけがそう思ってるのか、それとも本当にそうなのかは分からない。でも、少なくとも今の空気は嫌じゃなかった。
――そして、その帰り道。
校舎の昇降口を出たところで、俺たちは見られていた。
朝比奈みずきが、腕を組んだまま立っていたのだ。
「うわ」
口から出た。
「“うわ”って何よ」
みずきの声は静かだった。静かすぎて逆に怖い。
「いや、まだいたのかと」
「いたけど?」
「なんで」
「待ってたからに決まってるでしょ」
「何を」
「それ聞く?」
聞かないほうがよかったかもしれない。
ことりが一歩前に出る。
「朝比奈さん、ごめんね。長くなるつもりじゃなかったんだけど」
「ううん、別に。気にしないで」
みずきはまた笑った。
だからその笑顔が怖いんだって。
「七瀬さんが謝ることじゃないし」
「でも――」
「ほんとに平気」
ことりは少しだけ言葉に詰まり、俺を見た。助けを求めるみたいな視線だったが、俺にはこの空気をさばく能力がない。
そのとき、さらに後ろから別の声がした。
「やっぱり匂うなあ」
振り向くと、藤宮つばさがいた。
いつからいたんだ。怖いなこの人。
「藤宮さん……」
ことりが小さくうめく。
「いやあ、ごめんごめん。たまたま帰り道が同じで」
「絶対うそだろ」
俺が言うと、つばさはにこっと笑った。
「半分くらいは本当だよ」
「半分しか本当じゃないのか」
「でもさあ」
つばさは面白そうに俺たち三人を見比べる。
「七瀬さんと白井くん、最近ちょっと距離近くない?」
ど真ん中を撃ち抜いてくるな、この人。
ことりが明らかに固まり、みずきの眉がぴくっと動く。
俺はもう帰りたかった。
「気のせいだろ」
とりあえず言ってみる。
「えー、そうかなあ」
「そうだよ」
「でも朝も放課後も、なんか空気違ったし」
「藤宮さん」
ことりが少しだけ強い声を出す。
「そういう言い方、やめて」
つばさは一瞬だけ目を丸くした。
たぶん、ことりがはっきり反応したのが意外だったんだろう。
「……おっと。ごめん」
意外にも、すぐに引いた。
「別に悪意で言ってるわけじゃないよ。ただ、ちょっと面白いなって思っただけ」
「面白がるな」
「だって面白いじゃん」
「俺は面白くない」
「当事者はそうかもね」
つばさは肩をすくめて、それでもまだ楽しそうに笑っている。
みずきがぼそっと言った。
「最悪……」
「朝比奈さんは何でそんなに不機嫌なの?」
つばさが悪びれずに聞く。
「不機嫌じゃないけど」
「それ不機嫌な人が一番言うやつ」
「藤宮さん、今日ちょっと黙れない?」
「わ、刺さるなあ」
ことりが困り、みずきが苛立ち、つばさが楽しんでいる。
地獄みたいな取り合わせだった。
「じゃあ俺、帰るから」
逃げるに限る。
そう判断して鞄を持ち直したとき、ことりが小さく言った。
「また、話してもいい?」
空気が止まった。
みずきが俺を見る。
つばさの目がきらっとする。
俺は内心で頭を抱えた。
「それは……」
「いや、別に毎日とかじゃなくて!」
ことりが慌てて言い足す。
「普通に、その、たまに」
「たまに、ねえ」
つばさが完全に面白がっている。
頼むから黙ってくれ。
俺はことりを見た。
その顔は、冗談じゃなく本気だった。きっと“昨日のことの延長”だけじゃない。今日みたいに、少しずつ普通に戻していきたいんだろう。
「……まあ、別に」
そう答えると、ことりは少しだけ安心したように笑った。
「そっか。よかった」
みずきが何か言いそうな顔をする。
でもその前に、つばさがくすっと笑って言った。
「これはほんとに匂うなあ」
「だからその言い方やめろって」
「ごめんごめん」
全然反省していない顔だった。
結局、その場はそれ以上大きく荒れずに解散した。
でも俺には分かっていた。
今日のこの一件で、たぶんもう引き返せないところまで来ている。
七瀬ことりは、俺にだけ少しずつ素の顔を見せ始めている。
朝比奈みずきは、それを明確に気にし始めている。
藤宮つばさは、その空気を面白がりながらも見逃していない。
たった一つの秘密から始まったことなのに、どうしてこんなに面倒になるんだろう。
春の夕暮れの校門を出ながら、俺は本気でそう思った。
でも、その面倒くささの中に、少しだけ悪くないものが混じり始めていることにも、薄々気づきかけていた。




