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第3話 幼なじみは、何かを隠している空気に異常に強い

朝比奈みずきが不機嫌なときは、だいたい歩く速度で分かる。


 朝のホームルーム前。

 教室に入ってきたみずきは、いつもより足音が少しだけ大きかった。どすどす、というほどではない。でも、付き合いの長い俺には十分だった。


 ああ、これ、昨日の続きだな。

 俺は自分の席に座ったまま、心の中だけでため息をついた。


 理由は分かっている。

 放課後、七瀬ことりに呼び止められたこと。

 そのあと一緒に自販機まで行ったこと。

 そしてたぶん、その一部始終をみずきに見られていたこと。


 あの場で何かを説明できるわけもなく、結果として“何かあったっぽいけど説明されない幼なじみ”が完成してしまった。みずきの性格上、それで機嫌がよくなるはずがない。


「おはよ」


 とりあえず、先に挨拶してみる。


 みずきは俺の前を通り過ぎかけて、ぴたりと足を止めた。


「……おはよ」


 返事は返ってきた。

 でも、温度は低い。冷房の設定温度みたいに低い。


「朝から顔怖いぞ」


「誰のせいだと思ってんの」


「俺確定なの?」


「むしろ他に誰がいるの」


 即答だった。

 これは完全に俺のせいらしい。


 みずきは鞄を自分の席に置いたあと、くるりと向きを変えて俺の机の横までやってきた。そして椅子の背に片手を置くと、少しだけ身を乗り出す。


「で?」


「何が」


「昨日の放課後、七瀬さんと何してたの」


「その聞き方だとすごい誤解を招くな」


「誤解されるようなことしてたの?」


「してない」


「じゃあ何してたの?」


「……ジュース飲んでた」


「二人で?」


「そうだけど」


「へえ」


 へえ、が重い。

 ひどく重い。


「奢ってもらっただけだよ」


「なんで?」


「お礼」


「何のお礼」


「それは……」


 詰まる。

 詰まった時点で、みずきの目つきがさらに鋭くなった。


「やっぱり何かあるんじゃん」


「あるにはあるけど」


「あるんだ」


「いや、そういう言い方すると違う」


「違わないでしょ、今のは」


 みずきは腰に手を当てて、完全に問い詰めモードに入った。


 こういうときの朝比奈みずきは強い。

 討論番組に出たら司会者を黙らせるタイプだと思う。しかも本人はその自覚がない。


「真央、あんた昔から嘘つくの下手なんだから、変に隠そうとしないで」


「隠してるっていうか、言えないだけ」


「なんで言えないの」


「言えない理由があるから」


「それを聞いてんの」


「そこを言えたら最初から苦労してない」


 俺がそう返すと、みずきはむっとした顔で口を閉じた。

 怒るかと思ったが、すぐには怒鳴らない。昔より少しだけ、大人になったのかもしれない。いや、気のせいかもしれない。


「……七瀬さん、困ってるの?」


 不意に、みずきが少しだけ声を落として言った。


 俺は瞬きをした。


「え?」


「だから。あんたがそんな顔してるってことは、自分のために隠してるんじゃないでしょ」


「……」


「昔からそうじゃん。自分が怒られるとか損するとかは割とどうでもよくて、誰かのこと庇ってるときだけ変に無口になる」


 図星だった。


 幼なじみって怖い。

 十年以上の付き合いがあると、本人より本人の癖を分かっていることがある。


「まあ……困ってた、のはそう」


「今も?」


「そこまでは分からない」


「ふうん」


 みずきは少しだけ表情を緩めた。

 でも、完全には納得していない。


「で? それで放課後お礼されるくらい、何したの」


「それが言えないんだって」


「そこだけ頑なすぎるでしょ」


「頑なにもなる」


「へえ」


 またへえだ。

 今日だけで何回目だ。


 みずきは一度、教室の前方に視線を投げた。つられて俺もそちらを見る。

 七瀬ことりが、友達に囲まれて笑っていた。


 けれど、みずきが見ているのに気づいたのか、七瀬の笑顔がほんの一瞬だけぎこちなくなった。


 それを見て、みずきが目を細める。


「……あっちも分かりやすい」


「やめろ、見るな」


「見えるんだから仕方ないでしょ」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあどんな意味よ」


「今はそっとしといてくれって意味」


 言ってから、自分でも少し驚いた。

 今のはかなり本音だった。


 みずきは俺の顔をじっと見たあと、ふっと息を吐いた。


「……分かった」


「ほんとに?」


「ほんとに。今はね」


「“今は”が付くの怖いな」


「あとでちゃんと聞くから」


「聞くの確定なんだ」


「当たり前でしょ。幼なじみなめないで」


「その台詞、時々ものすごく圧があるんだよ」


「知らない」


 ぷい、と顔を背ける。

 怒っているようにも見えるし、少しだけ安心したようにも見えた。


 ちょうどチャイムが鳴り、みずきは自分の席へ戻っていった。俺はそれを見送りながら、机に肘をつきそうになるのをこらえた。


 いまのところ、なんとか持ちこたえている。

 でも、いつまで持つかは分からない。


     ◇


 二限目と三限目のあいだの休み時間。

 俺は提出用のプリントを持って、教卓のほうへ向かっていた。担任が「今日まで」と言っていたやつだ。


 教卓の前は小さく渋滞していて、何人かの生徒が順番待ちをしている。俺もその列の最後尾に立った。


 すると、すぐ後ろから声がした。


「あ、白井くん」


 反射で背筋が伸びる。


 振り向くと、七瀬ことりがプリントを片手に立っていた。

 相変わらず整った顔をしているのに、目が合った瞬間だけ少しだけ困ったみたいな表情になる。その変化が分かるようになってしまった自分が、いちばん面倒だった。


「お、おう」


「これ提出するの、こっちで合ってたよね?」


「たぶん」


「たぶんって」


「俺も今来たとこだし」


「そっか」


 ほんの二言三言なのに、妙にぎこちない。

 後ろの奴らに変に思われない程度には普通の会話をしているつもりなのに、自分でも“普通を演じてる感”がひどい。


 列が少しずつ進む。

 俺と七瀬の距離も、嫌でも近いままだ。


「……あの」


 七瀬が小さな声で言った。


「昨日は、その……」


「七瀬さん、プリント忘れたの?」


 横から別の女子が割り込んできて、七瀬がびくっとする。


「えっ、あ、ううん、大丈夫」


「顔赤くない?」


「そう? 暑いだけ!」


 全然暑くない。

 春の教室はまだ涼しい。


 俺は何も言わず、ただ前を見た。七瀬もたぶん、俺がそうした意味は分かったんだと思う。結局、その場ではそれ以上話さなかった。


 ただ、教卓にプリントを置いて席へ戻る途中。

 すれ違いざまに、ほんの一瞬だけ小さな声が聞こえた。


「……ごめんね」


 俺は足を止めなかった。


 止めなかったけれど、返事くらいはできたかもしれない。

 でも、そこで振り向くのは違う気がした。


 代わりに自分の席に座ってから、前を向いたまま、小さく息を吐く。


 ほんとに、こういうのが一番困る。

 謝られる筋合いじゃないのに、向こうが気にしているのが分かると、余計にどうしていいか分からなくなる。


     ◇


 四限目の終わり、体育館へ移動する時間になった。


 次の授業は合同のレクリエーション的なやつで、クラスごとに並んで体育館へ向かう。こういう集団移動はだいたい騒がしい。今日も例にもれず、前では男子がくだらない話をしていて、後ろでは女子が笑っている。


 俺は列の中ほどを歩いていた。

 その少し前に七瀬、斜め後ろにみずきがいる。最悪の配置だった。


「ねえ、白井くん」


 前を向いたまま、七瀬が小さく声をかけてきた。


「何」


「その、今日……」


「おい、前見ろ」


 とっさに言った。


 体育館へ続く渡り廊下の手前、ちょうど段差があったのだ。七瀬ははっとして足元を見た。もし今のまま歩いていたら、たぶん軽くつまずいていたと思う。


「あ……」


「危ないぞ」


「……うん」


 七瀬は素直に頷く。

 そのやり取りの一部始終を、みずきが後ろから見ていた。


「へえ」


 まただ。

 今日のみずきも、へえの使い方がよくない。


 体育館に着いたあと、準備運動をしている間も、みずきの視線は微妙に痛かった。


 結局その授業中、目立った事件は起きなかった。起きなかったのだが、何もない時間が続くほど逆に空気が濃くなることってある。俺にとっての今がそれだった。


 七瀬は俺の近くに来ると妙に静かになり、みずきはそのたびに眉をひそめる。

 周りの連中はそこまで気にしていないかもしれない。けれど、当事者には十分すぎるくらい息苦しかった。


     ◇


 五限目が終わった放課後。

 ようやく一日が終わる――そう思ったところで、事件は起きた。


 みずきが、階段の踊り場で教材を盛大にぶちまけたのだ。


「うわっ!」


 乾いた音がして、クリアファイルとノートとルーズリーフが段差の上に散らばる。近くを歩いていた何人かがびっくりして足を止めた。


「っ、ちょっと、最悪!」


 みずきがしゃがみ込む。

 たぶん、腕に抱えすぎていた。もともと荷物の持ち方が雑なところがある。


 俺は反射で駆け寄っていた。


「貸せ」


「え、いい!」


「いいから押さえとけ」


 落ちていきそうなプリントの端を足で止めつつ、手近なノートから拾っていく。みずきも慌ててしゃがみ込み、二人で散らばった紙を回収した。


 後ろから来た女子が「大丈夫?」と声をかけたが、みずきは「大丈夫!」と少し強めに返してしまう。ああいうところが、こいつは昔から不器用だ。


「ほら」


 最後の一枚を渡すと、みずきはそれを受け取りながら、むっとした顔をした。


「……ありがと」


「どういたしまして」


「言っとくけど、別に助けなくても自分で拾えたし」


「そうだな」


「え、そこは一応『無理だったろ』とか言わない?」


「いや、今それ言うと怒るだろ」


「怒るけど」


「じゃあ言わなくて正解じゃん」


 みずきは口をへの字に曲げた。

 けれど、その顔が少しだけおかしくて、俺は笑いそうになるのをこらえた。


「なにその顔」


「いや、別に」


「今笑いかけた」


「気のせい」


「さっきから気のせいで済ませすぎじゃない?」


「便利なんだよ、その言葉」


「最低」


 そう言いながらも、みずきの声は少しだけ柔らかくなっていた。


 立ち上がった拍子に、彼女のファイルから一枚のプリントがひらりと落ちる。俺はそれを拾い上げて渡した。


「ほら、これも」


「……あ」


「何だ、その反応」


「いや、ちょっと」


 みずきが珍しく歯切れ悪く言う。

 そのプリントは進路調査の下書き用紙だった。まだ白紙に近いのに、端にだけ小さく字が書いてある。


 ――第一志望、地元。


 そこまで読んでしまって、俺は目をそらした。


「悪い。見てない」


「いや、見えてるじゃん」


「見えても見てないことにする技術があるんだよ」


「なにその技術」


「今考えた」


 みずきは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと吹き出した。


「……ほんと、変なとこだけ器用」


「褒めてる?」


「微妙」


 階段の窓から、春の光が差し込んでいた。

 放課後特有の、少しだけ気の抜けた空気。教室のざわめきが遠くなって、廊下には人の流れだけがある。


 その中で、みずきが不意に言った。


「ねえ、真央」


「ん?」


「七瀬さんのこと」


 またその話か、と思いかけたが、みずきの声はさっきまでとは少し違っていた。


「……本当に、変なことじゃないの?」


「変なことではない」


「でも、隠してる」


「隠してるっていうか、言えない」


「同じでしょ、それ」


 たしかに同じかもしれない。


 みずきは持ち直したファイルを胸の前に抱え、少しだけ視線を落とした。


「私、別に、あんたが誰と話そうが自由だと思ってるし」


「おう」


「七瀬さんがどうとか、そういうのにいちいち口出す権利があるとも思ってない」


「お、おう」


「でも」


 みずきはそこで顔を上げた。


「なんか嫌なのよ」


 唐突だった。


「嫌?」


「……何かを私だけ知らない感じ」


 その言い方に、俺はちょっとだけ言葉を失った。


 嫉妬、とは少し違う。

 でも、ただの好奇心でもない。


 昔からずっと隣にいた相手が、自分の知らない場所で、自分の知らない顔をしている。たぶん、それが嫌なのだ。


 俺は頭をかいた。


「悪い」


「謝ってほしいわけじゃないし」


「うん」


「でも、なんていうか……」


 みずきは少し迷って、それからいつもの調子を無理やり作るみたいに肩をすくめた。


「変な女に騙されてたら腹立つなって」


「七瀬を変な女扱いするな」


「ほら、そういうとこ」


「何が」


「かばうじゃん」


「いや、実際変じゃないだろ」


「そういう話してんじゃないの!」


 少し大きくなった声に、通りかかった男子がちらりとこっちを見た。みずきはすぐに咳払いして、わざとらしく目をそらす。


 そして、小さく言った。


「……まあ、いいけど」


「よくない顔してるぞ」


「いいの」


「どっちだよ」


「うるさい」


 でも、その“うるさい”には朝みたいな刺がなかった。


 そこで、階段の下から控えめな声が聞こえた。


「あの……」


 二人そろってそちらを見る。


 七瀬ことりがいた。


 最悪だった。


 なんでいるんだ。いつからいた。どこまで聞かれた。

 俺の脳内で非常ベルが鳴る。


 七瀬は手にノートを持ったまま、少しだけ気まずそうに立ち止まっていた。たぶん教室へ戻る途中か何かだろう。でも、間が悪すぎる。


「七瀬さん」


 みずきの声が一段低くなる。


「あ、えっと……ごめん、通りたかっただけで」


「そうなんだ」


「う、うん」


 今の会話を聞いていたかどうか、分からない。分からないけれど、空気は完全に分かっている人間のものだった。


 七瀬が一歩だけ階段を上がってくる。

 そのタイミングで、彼女の持っていたノートが少しずれて落ちそうになる。


 また反射で、俺の手が出た。


「危ない」


「あっ」


 ノートを受け止めて、手渡す。

 ほんの一瞬、指先が触れた。


「……ありがとう」


 七瀬が小さく言う。


「別に」


 できるだけ何でもない顔で返したつもりだったが、たぶん無理だったと思う。


 みずきはそれを横で見ていた。

 何も言わない。言わないから余計に怖い。


「じゃ、じゃあ私、行くね」


 七瀬はそう言って、そそくさと階段を上がっていった。去り際、ちらっとだけ俺たちを振り返る。その視線の意味を考えたくなかった。


 沈黙が落ちる。


 階段の窓から入る風が、紙の端をかすかに揺らした。


「……ねえ」


 みずきが言った。


「今の、わざとじゃないのよね?」


「わざとなわけあるか」


「だよね。あんた、そういう器用さはないもんね」


「褒められてる気がしない」


「褒めてないし」


 みずきはふいっと顔を背ける。

 でも耳が少し赤いのは、たぶん怒っているからだけじゃない。


「私、先帰る」


「え、ちょっと」


「心配しなくても怒ってない」


「今の流れでそれ言われても信じにくい」


「半分くらいは怒ってるけど」


「あるじゃねえか」


「でも、さっきのはちゃんと助かったから」


 みずきはそう言って、抱えた教材を少し持ち直した。


「……ありがと」


 今度の“ありがとう”は、さっきよりずっと小さかった。

 だけど、そのぶん本音だった。


 俺が何か返す前に、みずきは階段を下りていってしまう。

 残された俺は、ひとりで頭を抱えたくなった。


「なんなんだよ、ほんと……」


 七瀬ことりは明らかに俺を意識していて、朝比奈みずきは明らかに俺と七瀬の間にある“何か”を気にしている。しかも、どっちもそれをうまく隠せていない。


 俺だけが事情を知っていて、俺だけが説明できない。


 それ、かなりしんどくないか。


 窓の外では、グラウンドから運動部の声が響いていた。春の夕方は明るいくせに、気持ちだけはやけに疲れる。


 俺はゆっくり息を吐いて、階段を上がった。


 たぶんまだ、何も始まっていない。

 なのに、もう十分面倒くさい。


 その予感だけは、嫌になるほど当たっていた。

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