第28話 前夜祭前の教室で、気持ちはもう隠しきれない
文化祭前日というのは、学校全体が少しだけ浮き足立つ。
廊下には段ボールが並び、体育館からはリハーサルの音が漏れ、教室の窓にはいつもより派手な飾りが増える。
授業はあってないようなもの。
先生までどこか落ち着かない。
そして、日が傾き始めた校舎は、昼間とは少し違う顔をする。
夕方に近い時間まで残って作業をしていると、なんでもない会話まで妙に特別に感じるのだ。
たぶん、前夜祭前の空気というやつだろう。
二年A組の教室も例外ではなかった。
「このテーブル、あと二つ寄せれば終わり?」
真央が机を持ちながら言う。
「うん、たぶん」
ことりが配置図を見ながら答える。
教室の中には、まだ数人残っている。
つばさは黒板側でメニュー札を並べ直している。
みずきは衣装関係の最終確認で、カーテンの陰に吊ったハンガーを見ている。
レナは救護セットを机の隅にまとめていた。
それぞれ仕事をしている。
なのに、どこか昼間より静かだった。
「……なんか、いよいよって感じするね」
ことりが言う。
「文化祭?」
「うん」
「そうだな」
真央は机を置いて、軽く息を吐いた。
文化祭準備の後半に入ってから、ことりと真央の会話はずいぶん自然になっていた。
自然になった、というより、以前より“気持ちを隠しきる必要がなくなった”のかもしれない。
ことりは自分が好きだと自覚している。
真央も、それを聞いた上で完全には距離を引いていない。
その状態で毎日顔を合わせて準備をしていれば、そりゃ空気も変わる。
「明日、ちゃんと回るかな」
ことりがぽつりと言う。
「模擬喫茶?」
「うん。接客も、会計も、全部」
「たぶん何とかなるだろ」
「その“たぶん”ちょっと不安なんだけど」
ことりが笑う。
「でも、白井くんがそう言うと、ちょっとだけ安心する」
「雑だな」
「白井くんの安心感って、だいたい雑だよね」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
またその言い方だ。
でももう、こういう軽口は前よりずっと心地いい。
教室の外はもう少しずつ薄暗くなっていた。
窓ガラスに映る室内の灯りが、昼間より近く感じる。
「文化祭終わったあとも」
ことりが不意に言った。
「今みたいに話せるかな」
真央は一瞬だけ言葉を失った。
「今みたいに?」
「うん」
ことりは配置図を持つ手を少しだけ握り直す。
「今って、毎日こんなふうに準備して、終わったあとも一緒に残って、自然に話してるじゃん」
「……まあ」
「文化祭終わったら、その理由がなくなるでしょ」
その言葉は、小さかった。
でも、妙に胸に残る。
真央は少し考えた。
文化祭が終われば、たしかに準備という共通の理由はなくなる。放課後に一緒にいる口実も減るだろう。
でも、それで“終わり”になる気は、なぜかしなかった。
「終わっても、終わりじゃないだろ」
自然に、そう口にしていた。
ことりがゆっくり顔を上げる。
「……ほんと?」
「文化祭が終わるだけで、クラス替えするわけじゃないし」
「そういう意味じゃなくて」
ことりは少しだけ笑った。
「でも、うれしい」
その顔があまりに素直で、真央は少しだけ視線を逸らした。
言い方を間違えたかと思った。
けれど、ことりが嬉しそうなら、それでよかったのかもしれない。
「白井くん」
「ん?」
「明日、がんばろうね」
「おう」
それだけの会話なのに、前夜祭前の教室では妙に特別に聞こえる。
その一部始終を、少し離れた場所からみずきが見ていた。
◇
みずきは、カーテンの陰で衣装のハンガーを整えるふりをしながら、二人の声を断片的に聞いていた。
全部が聞こえたわけじゃない。
でも、大事なところは聞こえてしまった。
文化祭終わったあとも、今みたいに話せるかな。
終わっても、終わりじゃないだろ。
そのやり取りに、胸の奥がじわりとざわつく。
「……はあ」
小さく息が漏れた。
分かっている。
ことりが真央にそういうことを聞きたくなる気持ちも。
真央があんなふうに返すことも。
でも、分かるのと平気なのは別だ。
「朝比奈さん」
背後から、つばさの声。
「なに」
「いま完全に“聞いちゃった人”の顔してる」
「聞こえたんだから仕方ないでしょ」
「まあ、それはそう」
つばさは隣に来て、同じ方向を見た。
「ことりちゃん、今かなり前に出てるね」
「……うん」
「白井くんも、前よりちゃんと受け止めてる」
「……うん」
認めたくないのに、認めるしかない。
それがいちばん悔しい。
「でも」
つばさが小さく言う。
「朝比奈さんも、この前のコンビニで一歩進んだでしょ」
「それとこれとは別」
「まあね。でも、何もしてない人の顔じゃないよ」
みずきは少しだけ目を細めた。
そうだ。
自分だって、ただ立ち尽くしているだけではない。少なくとも、幼なじみの場所に甘えて黙っているだけでは終わらないと決めた。
それでも、こうやって目の前で誰かが進んでいるのを見ると、胸がざわつく。
「……ほんと、やだ」
「なにが」
「好きな子が、他の子に優しくしてるの見るの」
みずきはそう言ってから、自分で少しだけ驚いた。
前なら、もっと遠回しに言っていたと思う。
でも今は、もうそこまで隠せない。
「はい、本音出た」
つばさが言う。
「うるさい」
「でも大事」
つばさは笑わなかった。
「それ、ちゃんと分かってるなら、次も動けるでしょ」
「……そうかもね」
みずきは窓の外を見た。
空は少しずつ濃い青に変わっている。文化祭前日の校舎は、どこか落ち着かなくて、でも妙に綺麗だった。
◇
作業がほとんど終わったころ、つばさが黒板の前でぱん、と手を叩いた。
「よし、今日はここまで!」
「やっと終わった……」
真央が椅子に腰を下ろす。
「おつかれ」
ことりが言う。
レナは救護セットの最終確認を終え、鞄を持ち上げた。
「明日はたぶん今日より疲れるわよ」
「怖いこと言うな」
真央が返すと、レナは少しだけ口元を緩めた。
「事実よ」
みずきも近づいてくる。
ことりと真央の間に入るわけではない。でも、完全に離れた場所にも立たない。その微妙な距離感が今のみずきらしかった。
「明日さ」
みずきが言う。
「もし変な客来たらどうする?」
「白井くんが対処する」
つばさが即答した。
「なんで俺」
「一番店員っぽくないのに、一番押しが弱そうだから」
「褒めてないだろ」
「褒めてないね」
ことりが笑う。
みずきも少しだけ笑った。
その笑いが同じ空気の中にあるのを見て、真央は少しだけ不思議な気持ちになる。
昨日までなら、こういう空気はもっと不安定だったはずだ。
でも今は、ややこしいまま少しだけ落ち着いている。
誰も諦めていない。
それでも、一緒に文化祭を作っている。
その感じが、妙に青春っぽかった。
「じゃ、帰るか」
真央が立ち上がる。
ことりが「うん」と頷き、みずきも小さく「そうだね」と言う。
つばさは最後に教室を見回して、満足そうに息を吐いた。
「いやあ、明日絶対何か起きるね」
「起きなくていい」
真央が即答する。
「でも起きるんだよなあ、こういうのって」
「だから物語みたいに言うなって」
「でもほんとでしょ」
否定しきれない。
文化祭前夜の教室は、もうそれだけで十分特別だった。
だからこそ、明日が何もないまま終わる気がしない。
前夜祭前の空気は、人の気持ちを少しだけ素直にする。
そのせいで、隠していたものがまた少しだけ見えてしまう。
明日、文化祭が始まる。
そしてたぶん、俺たちの関係も、また少しだけ動く。




