第27話 ひよりの無邪気さは、ときどき本命より強い
小日向ひよりは、自分がわりと空気を壊しがちな人間だということに、ようやく気づき始めていた。
遅い。
本人もそれは分かっている。
でも、分かったからといって急に器用になれるわけではない。
むしろ、自分が“変なタイミングで変なことを言う”と自覚したせいで、余計に緊張するようになってしまった。
「……よし」
昼休み、一年の教室の後ろでひよりは小さく気合いを入れた。
今日は二年A組に行かない。
行ったとしても、長居しない。
先輩たちの文化祭準備の邪魔にならないようにする。
そう決めたのだ。
決めたはずなのに。
「先輩、これ落としてましたよ」
五分後、ひよりは二年の廊下で白井真央にハンカチを差し出していた。
「……ひより」
「はい!」
「なんでいる」
「落とし物届けに来ました!」
満点の笑顔だった。
その笑顔のせいで、真央は頭を抱えたくなる。
しかも今は、ちょうどことりとみずきも近くにいた。
文化祭準備で使う小物の確認をしていて、二人ともその場にいたのだ。
「また来たんだ」
みずきが言う。
「“また”って言わないでください」
ひよりが少しだけ頬を膨らませる。
「ちゃんと理由ありますし」
「理由はあるんだろうけど」
ことりがやわらかく言う。
「タイミングは選んだほうがいいかも」
「……やっぱりそうですよね」
ひよりがしゅんとする。
そのしゅんとした顔が本気なので、逆に強い。
無邪気さで突っ込んできて、反省もちゃんとする。こういうタイプは責めづらいのだ。
「いや、責めてるわけじゃない」
真央が言うと、ひよりはすぐに顔を上げた。
「先輩、優しいですね!」
「そういうとこだぞ」
みずきとことりの声が綺麗に揃った。
ひよりがきょとんとする。
真央は額に手を当てた。
「……もうだめだろ、この流れ」
つばさがちょうど通りかかって、その様子を見て吹き出した。
「ひよりちゃん、今日も才能あるね」
「才能?」
「うん。空気を一発でラブコメに変える才能」
「嬉しくないです!」
ひよりが真顔で言い返す。
その全力さがまた可笑しくて、つばさはさらに笑った。
ことりはそんなやり取りを見ながら、小さく息を吐く。
以前ならもっと素直に落ち込んでいたかもしれない。だが今は、ひよりの危うさも分かるし、自分だけが特別に振り回されているわけではないと知っている。
「ひよりちゃん」
ことりが声をかける。
「はい?」
「先に言っておくけど」
「はい」
「白井くんって、たぶんすごく優しいけど、思ってるより鈍いから」
「え?」
ひよりが目を丸くする。
「だから、真正面から言わないとたぶん伝わらないこと多いよ」
その言葉に、みずきが少しだけ横目でことりを見る。
つばさは“おお”という顔をする。
真央は「なんの話だ」と言いたげだったが、半分くらい分かっている顔でもあった。
「……七瀬先輩、それ」
ひよりが少しだけ考え込む。
「経験談ですか?」
ことりが固まる。
「おまえ、今そこ行くのか」
真央が思わず言う。
「だって、そういう言い方だったので」
「まあ、そうだけど」
つばさが面白そうに頷く。
ことりは頬を赤くして視線を逸らした。
「……否定はしない」
「うわあ」
ひよりが素直に感嘆の声を漏らす。
「え、じゃあ、やっぱりみなさん本気なんですか?」
その問いは、教室前の廊下には少し大きすぎた。
ことりも、みずきも、真央も、一瞬だけ言葉を失う。
「本気、って」
みずきが言う。
「なんていうか」
ひよりは少しだけ迷いながら続けた。
「最初は、私だけが“先輩すごい!”ってなってるのかと思ってたんですけど」
「……」
「でも、見てるとそうじゃないじゃないですか」
ひよりはことりを見て、みずきを見て、それから真央を見る。
「先輩の近くって、みんなちょっと本気っぽい」
その表現は雑だ。
でも、雑なぶん核心に触れている。
みずきは深く息を吐いた。
「……ひよりちゃん」
「はい」
「そういうの、今はあんまり言語化しないほうがいい」
「なんでですか?」
「みんな心臓に悪いから」
その返しに、つばさが吹き出した。
「朝比奈さん、今日ちょっと素直じゃん」
「うるさい」
だが、その空気は以前よりも少しだけやわらかい。
ことりも、みずきも、ひよりに対してただ苛立っているわけではない。
ひよりはようやく、真央の近くにはもう“ただの憧れ”では立てない場所があるのだと理解し始めていた。
その理解は、少し遅いけれど、軽くはない。
「……でも」
ひよりが小さく言う。
「それでも、やっぱり好きかもしれないです」
今度の声は前より静かだった。
勢いではなく、ちゃんと自分の中に落としたあとで言っている声だった。
ことりは唇を結ぶ。
みずきは少しだけ眉を寄せる。
真央は何かを言おうとして、結局言えない。
つばさが小さく呟いた。
「はい、後輩ちゃんも本格参戦、と」
「藤宮さん」
「はい」
「そういう実況やめて」
「今日はちょっとやめとく」
つばさは珍しく素直に引いた。
ひよりは最後にぺこりと頭を下げる。
「とりあえず、今日はもう戻ります」
「それがいい」
レナが通りすがりに言った。
ひよりは真面目に頷き、それから真央を見た。
「先輩」
「ん?」
「また来るかもしれないですけど、今度はもう少し空気読みます」
「そこは“来ない”じゃないんだな」
「努力目標です!」
そう言って、ひよりはぱたぱたと廊下を戻っていった。
残された四人の間に、少しだけ疲れた沈黙が落ちる。
「……ほんと、すごいなあ」
真央が言う。
「何が」
ことりが聞く。
「ひより」
「それは、まあ」
みずきも認めざるをえない顔だった。
ことりは少しだけ困ったように笑う。
「でも、あの子なりにちゃんと考え始めてるんだと思う」
「うん」
みずきが頷く。
「最初のころより、言葉選んでる感じはあるし」
「選んだ結果があれなんだよな」
真央のその一言に、ことりもみずきも少しだけ笑った。
無邪気さは、ときどき本命より強い。
でも、その無邪気さにも、だんだん本気が混ざり始めている。
文化祭準備は、そういう曖昧な感情にも、次々と名前を与えていくのだった。




