第26話 みずき、ついに“幼なじみ以外”の武器を探し始める
朝比奈みずきは、ここ数日でようやく理解したことがある。
幼なじみという立場は、強い。
でも、強いだけでは足りない。
小さい頃から一緒にいた。
家の場所も知っている。
どうでもいい癖も、機嫌が悪いときの顔も、言い返す前に一拍置くときは図星なことも、だいたい知っている。
そういう“積み重ね”はたしかに武器だ。
でも、それは同時に甘えにもなる。
だって、近くにいるのが当たり前だから。
今さらわざわざ距離を詰めなくても、隣にいる理由はいくらでもあったから。
けれど今は違う。
七瀬ことりは、“今近づいている強さ”を持っている。
小日向ひよりは、“考える前に飛び込める無邪気さ”を持っている。
そして白井真央は、そういうものに対して鈍いくせに、ちゃんと影響は受けている。
つまり、幼なじみのまま座っているだけでは足りないのだ。
「……はあ」
昼休みの教室で、みずきは机に頬杖をついた。
目の前では文化祭準備のメモが広がっている。
衣装案、装飾用リボンの色分け、当日のシフト表。
やることは多い。なのに、頭の半分以上は別のことで埋まっていた。
昨日のことり。
ポスター作りのときの距離。
白井が、ことりに対してごく自然に褒め言葉を口にしていたこと。
そして、自分もその一言にちゃんと揺れたこと。
「朝比奈さん」
つばさがひょいと机の横に現れた。
「なに」
「今日もすごい顔してる」
「便利だね、その“すごい顔”って言葉」
「便利だよ。だいたい合ってるし」
つばさは勝手に前の席を引いて座った。
「で?」
「で、って何」
「考えてるんでしょ。そろそろ“幼なじみ以外”の動き方」
ど真ん中だった。
みずきは反射で視線を逸らす。
その反応だけで、つばさの口元がにやっとする。
「図星」
「……うるさい」
「でも、考えたほうがいいよ」
「分かってる」
「お、今回は否定しない」
「否定しきれないだけ」
つばさは頬杖をついて、面白そうというより少しだけ本気の顔をした。
「ことりちゃんは今、“ちゃんと特別になりたい”で動いてる」
「うん」
「ひよりちゃんは“好きかも”をまだ勢いで押してる」
「うん」
「で、朝比奈さんは?」
みずきは少しだけ黙った。
それが、いちばん分からないところだった。
好きだ。
もう、それは認めるしかないところまで来ている。
でも、だから何をするのか。
そこがまだ曖昧だ。
「……私は」
みずきは机の端を指でなぞった。
「真央といるの、昔から普通だったから」
「うん」
「逆に、今さら何をすれば“普通じゃない”になるのか分かんないの」
つばさは少しだけ目を細めた。
「それ、けっこう本質だね」
「軽く言うな」
「軽く言ってないよ」
つばさは続けた。
「でもさ、それなら一回、“幼なじみだから成立してたこと”を、あえて“ひとりの女子としてやる”しかないんじゃない?」
「……何それ」
「たとえば」
つばさは指を一本立てた。
「文化祭関係なく、放課後に二人で寄り道するとか」
その一言で、みずきの心臓が妙に大きく跳ねた。
「む、無理」
「なんで」
「なんでって……」
無理に決まっている。
今までだって、一緒に帰ったことくらいはある。コンビニへ寄ったこともある。
でもそれは全部、“幼なじみだから”で済んでいた。
今それを改めてやるということは、意味が変わる。
真央にだって、その違いは伝わる。
伝わらなかったら、それはそれで腹が立つが。
「無理じゃないと思うけどなあ」
つばさはさらっと言う。
「むしろ朝比奈さんが一番やりやすいでしょ」
「やりやすくないから困ってるんだけど」
「いや、“不自然じゃない理由”があるじゃん。幼なじみなんだし」
その言葉に、みずきははっとした。
たしかにそうだ。
“いきなり誘う”のではなく、“今までだってできたことを、ちゃんと自分の意思で選ぶ”だけなら、まだ不自然ではない。
「……それ、ずるくない?」
「恋愛ってだいたいずるいよ」
つばさがあっさり言う。
「ことりちゃんだって、最初の秘密を持ってるのずるいし。ひよりちゃんの無自覚さもずるいし」
「……」
「だったら朝比奈さんは、“昔からの近さ”をちゃんと使えばいいの」
みずきは少しだけ息を止めた。
昔からの近さ。
それは、自分の持っているものだ。
でも、今まではそれを“当然あるもの”としてしか扱ってこなかった。
ちゃんと使う。
それはつまり、そこに意味を持たせるということだ。
「……考えとく」
「それ、もう半分やるやつじゃん」
「うるさい」
でも、完全に否定できない自分がいた。
◇
その日の放課後、文化祭準備はわりと早く一区切りついた。
ポスターの修正も終わり、衣装班も今日は大きな進展がない。
教室の空気が少しだけ緩んで、それぞれが帰り支度を始める。
ことりはつばさと何か話していた。
ひよりは今日は来ていない。
レナは保健委員の書類を持って、先生のところへ向かった。
今だ。
みずきは、自分でも呆れるほど意識してしまいながら、真央のほうへ歩いた。
「真央」
「ん?」
真央が顔を上げる。
その“ん?”が、昔から変わらない調子なのが腹立たしい。こっちは心臓がうるさいのに、なんでそんな普通なんだ。
「……このあと、時間ある?」
「あるけど」
「コンビニ、付き合って」
言えた。
思っていたよりも、ちゃんと普通の声で。
真央は少しだけ目を瞬いた。
「コンビニ?」
「そう。ちょっと飲み物買いたい」
「今さら?」
「今さらって何よ」
「いや、校内の自販機でもよくないかと思って」
「よくないの」
「なんで」
「……なんとなく」
そこまで言って、みずきは自分で“雑すぎる”と思った。
でも、今さら言い直せない。
真央はほんの少しだけみずきを見て、それから頷いた。
「いいよ」
それだけだった。
でも、その“いいよ”に無駄な引っかかりがないのが、みずきには少しだけ嬉しかった。
「じゃ、行こ」
「おう」
教室を出るとき、つばさがものすごく意味深な顔をしていた。
ことりもこちらを見ている。レナはちょうど戻ってきたところで、二人の並びを見て少しだけ目を細めた。
全部見られている気がする。
でも、ここでひるんだら最初から意味がない。
◇
校門を出て、駅前の小さなコンビニまで歩く。
距離にすれば大したことはない。
普段なら、ただの寄り道だ。
なのに今日は、その数分がやけに長い。
「……珍しいな」
真央が言った。
「何が」
「おまえが、こういう理由で誘うの」
「こういう理由って何よ」
「文化祭とか関係ないやつ」
みずきは少しだけ口をつぐんだ。
やっぱり、真央もそこはちゃんと分かるらしい。
鈍いくせに、ゼロではない。その中途半端さが本当に厄介だ。
「だめだった?」
「いや、別に」
「じゃあいいでしょ」
「よくはある」
「どっちよ」
「いい」
真央が少しだけ笑う。
その笑い方を見て、みずきは心の奥が妙に落ち着かなくなるのを感じた。
ことりの前で見せる顔と、自分の前で見せる顔。違いがあるのか、ないのか。今のところ、みずきにはまだうまく分からない。
コンビニに入ると、冷房の気配が少しだけ涼しかった。
「何買うんだよ」
「飲み物」
「それは聞いた」
「じゃあアイスも」
「最初からそう言えよ」
「今決めた」
みずきは飲料棚の前で少し迷って、結局いつもの炭酸飲料を手に取った。
真央は缶コーヒー。
「相変わらずだな」
「なにが」
「その組み合わせ」
「真央こそ」
二人でレジへ並ぶ。
そこまでは、ほんとうに普通だった。
問題は、そのあとコンビニ前の小さなスペースで飲み物を開けたときだった。
「で?」
真央が言う。
「で、って何」
「なんか話あるんだろ」
みずきは一瞬だけ固まった。
見抜かれている。
「……なんで分かるの」
「コンビニ行くだけなら、別にそんな顔しない」
「どんな顔」
「言いにくいことある顔」
その言葉に、少しだけ笑ってしまいそうになる。
やっぱり、昔からの付き合いはこういうところがずるい。
みずきはペットボトルのラベルを指先でいじりながら、少しだけ視線を落とした。
「文化祭準備始まってからさ」
「うん」
「いろいろ変わったじゃん」
「まあ、そうだな」
「真央も」
「俺?」
「うん」
みずきは顔を上げる。
「ことりちゃんのこととか、ひよりちゃんのこととか、前よりちゃんと意識してるでしょ」
真央はすぐには答えなかった。
それだけで十分だった。
「……してるんだ」
「いや、まあ」
「隠さなくていいし」
「隠してるつもりはない」
「それが一番たち悪いんだけど」
思わずそう言うと、真央は少しだけ苦笑した。
「最近それよく言われる」
「そうでしょうね」
みずきは少し息を吐く。
「で、私さ」
「うん」
「それ見て、ずっと焦ってた」
言葉にしてみると、思ったよりずっとすっきりした。
「出遅れてる感じがして」
「……」
「私のほうが長く知ってるのに、今の真央の近くにいるのはことりちゃんのほうで」
そこまで言ってから、少しだけ笑う。
「でも、それに文句言うのも違うって分かってるし」
「みずき」
「だから、今日誘った」
真央が少しだけ目を見開いた。
「コンビニ?」
「そう」
「それだけで?」
「それだけじゃないけど」
みずきはペットボトルを持ち直す。
「こういうの、昔ならただの寄り道で済んだじゃん」
「……うん」
「でも今は、そうじゃないって分かってる」
真央は黙って聞いている。
「だから、ちゃんと“私が誘った”って形で一回やりたかった」
そこまで言い切ると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
真央はしばらく黙って、それから小さく笑った。
「……そっか」
「なによ、その反応」
「いや」
真央は缶コーヒーを少し揺らした。
「そういうの、いいなって思った」
みずきは言葉を失った。
「……は?」
「自分で動こうとしてる感じ」
「今それ言う?」
「悪い」
「悪くないけど!」
思わず声が大きくなりそうになって、慌てて抑える。
真央は少しだけ楽しそうにしている。
その顔を見て、みずきは胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。
ことりに向けるのとは、また違う表情だ。
少なくとも今この瞬間、真央は“昔から知ってる幼なじみ”としてじゃなく、“ちゃんと何かを言おうとしている自分”を見ている。
「……ずるい」
みずきが小さく言う。
「何が」
「そうやって、ちょっと嬉しいこと言うとこ」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「じゃあ残り半分は?」
「腹立つ」
「ひどいな」
真央が笑う。
その笑い方に、みずきはほんの一瞬だけ見惚れた。
やっぱり、好きなのだ。
昔から知ってるとか、近くにいるのが当たり前とか、そういうのを全部抜きにしても、今ちゃんと好きだと思う。
まだ告白なんてできない。
でも、こうして一歩ずつ距離の意味を変えていくしかない。
「……また誘ってもいい?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
真央は驚いた顔をしたあと、すぐに頷いた。
「いいよ」
「ほんとに?」
「なんで疑うんだよ」
「だって、今の真央人気者だから」
「どこの話だよ」
「私の中の話」
みずきがそう言うと、真央は少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、予約制にでもするか」
「なにそれ」
「朝比奈様専用寄り道枠」
「バカじゃないの」
思わず吹き出す。
でも、その冗談が妙に嬉しかった。
昔みたいに気楽で、でも昔とは少し違う。
その中間みたいな今の距離が、みずきにはたまらなく心地よくて、同時に苦しかった。
帰り道、並んで歩く歩幅は自然だった。
それが“幼なじみだから”なのか、“それ以上になりたいから”なのか、まだきれいには分からない。
でも少なくとも、今日は一歩踏み出せた。
幼なじみ以外の武器なんて、まだ上手に使えない。
それでも、自分から動いたことには、ちゃんと意味があった。




