第22話 似合ってるの一言で、ヒロインの心拍数は壊れる
その日の夜、七瀬ことりは自分の部屋でベッドに顔を埋めていた。
理由は一つだ。
似合ってる。
たったそれだけの一言。
文化祭衣装の試着で、白井真央がごく普通の声で言ったそれだけの言葉が、まるで呪いみたいに頭の中を何度も回っていた。
「……むり」
枕に顔を押しつけたまま、くぐもった声が漏れる。
服を褒められたことなら、今までだってゼロではない。
友達に「その色似合うね」と言われたこともあるし、親戚に「大人っぽくなったね」と言われたこともある。そういうのは、ちゃんと嬉しい。でも、それだけだ。
なのに、真央の「似合ってる」は全然違った。
軽くない。
重すぎるわけでもない。
でも、まっすぐだった。
変に気取った言い方でもなく、照れ隠しでごまかすでもなく、ただ本当にそう思ったことをそのまま渡された感じがした。
「……どこが、って聞いたのよくなかった……」
ことりはのろのろと顔を上げた。
あのとき、自分でも半分パニックだった。
似合ってる、と言われて、それだけで十分だったはずなのに、つい“どこが?”なんて聞いてしまった。あれはたぶん、褒められたことを確定させたかったのだと思う。ちゃんと女の子として見てくれているのかを、欲張って確認したかったのだ。
結果、さらにちゃんと褒められた。
文化祭っぽいし、ことりに合ってる。
「……あれはだめでしょ……」
また布団に顔をうずめる。
しかも、そのあとでみずきまで同じように褒められていた。
そこがまた、ことりの感情をややこしくする。
嫉妬した。
でも、真央がみずきを雑に流さなかったこと自体には、少しだけ安心もした。
誰かをわざと傷つけるような褒め方をしない。それは真央らしい。だから好きになったのだとも思う。
「……好き、なんだよねえ」
ぽつりと呟く。
第一章の終わりで、ことりはたしかにその気持ちに名前をつけた。
でも、名前をつけたからって慣れるわけじゃない。むしろ逆だ。前よりずっと、ひとつひとつの言葉や仕草が意味を持ってしまう。
たとえば、今日のあの一言みたいに。
ことりは天井を見上げた。
文化祭準備が始まってから、真央と話す機会が増えた。
買い出しもあった。放課後に一緒に動く時間も増えた。
そのたびに、前よりもっと自然に会話できる瞬間がある。
でも、その“自然”がいちばん危ない。
自然に一緒にいられることが嬉しい。
嬉しいから、もっと欲しくなる。
「……欲張りになってるなあ、私」
自分でそう言って、少しだけ笑う。
でも、その笑いも長くは続かなかった。
だって、ことりは知っている。
朝比奈みずきも、もう引かない。
あの子はちゃんと真央に向かっていこうとしている。
それに、小日向ひよりのまっすぐさだって軽く見ていいものじゃない。
つまり、のんびりしている場合ではないのだ。
けれど、焦ったところで上手いやり方なんて分からない。
「……どうしたらいいんだろ」
答えは出ないまま、夜は更けていった。
◇
翌朝、教室に入ると、ことりはいつもより少しだけ大人しかった。
もちろん、表面上はいつも通りにしている。
友達に挨拶をして、席について、授業の準備をする。
でも、内側では昨日の「似合ってる」がまだ抜けていない。たぶん、顔に出さないようにするだけで精一杯だった。
「おはよ、ことり」
友達に声をかけられ、ことりは反射で笑顔を作る。
「おはよう」
その声が少しだけ高い気がして、自分で嫌になる。
そして、視界の端に真央が入った瞬間、また心臓がうるさくなる。
昨日より、むしろ今日のほうがつらい。時間が経って少し落ち着くかと思ったのに、頭の中で何度も再生されたせいで、余計に言葉の輪郭がはっきりしてしまっている。
ことりは一度だけ深呼吸して、それから小さく真央へ会釈した。
真央も普通に「おはよう」と返す。
その普通さがまた効く。
「……だめだ」
小さく呟いたとき、隣に座ったつばさが即座に反応した。
「なにが?」
「っ、なんでもない」
「いまの“なんでもない”は完全に“なんかあります”なんだよなあ」
つばさが楽しそうに笑う。
「朝から顔が甘いよ、ことりちゃん」
「顔が甘いってなに」
「褒められた翌日の顔」
ど真ん中だった。
ことりが思わず固まると、つばさが目を細める。
「うわ、図星」
「藤宮さん」
「はい」
「朝から元気だね」
「だって面白いし」
「面白がらないで」
「でもさあ」
つばさはことりの机に頬杖をついた。
「昨日のは効くでしょ、普通に」
ことりは反射で視線を逸らした。
「……効いてないって言ったら嘘になる」
「だよねえ」
「藤宮さん、分かってて聞いてるよね」
「うん」
あっさり認めるな。
「でもことりちゃん、分かりやすすぎるんだよ」
「そんなに?」
「そんなに」
つばさは楽しそうに笑ったあと、少しだけ真面目な声になる。
「でも、昨日の朝比奈さんもだいぶきてたよ」
ことりの指先が、ノートの端でぴたりと止まる。
「……みずきちゃんも?」
「うん。あれはあれで、かなり効いてた」
「そっか」
ことりは小さく頷いた。
胸の奥がざわつく。
みずきに褒められたわけではないのに、同じ“似合ってる”をもらった。
嬉しかったのは、自分だけじゃない。
その事実は当たり前なのに、ちょっとだけ苦い。
「ことりちゃん」
つばさが言う。
「顔、わかりやすい」
「だから何の顔」
「“嫉妬してます”の顔」
ことりは思わず口を閉じた。
否定したい。
でも、否定できない。
つばさはそんなことりを見て、くすっと笑った。
「まあ、それだけ本気ってことじゃない?」
「……軽く言わないで」
「軽くは言ってないよ」
つばさの言い方は軽い。けれど、たまに妙に核心を突く。
そのたびに、ことりは反論しづらくなる。
「でも、ことりちゃんはまだいいほうだと思う」
「え?」
「ちゃんと“好き”に気づいてるから」
その言葉に、ことりは少しだけ眉を寄せた。
好きだと気づいた。
たしかにそうだ。
でも、気づいたからって強くなれるわけじゃない。むしろ前より脆くなった気もする。
◇
一方そのころ、朝比奈みずきの席の周辺では、別の意味で空気が張っていた。
みずきは朝から妙に落ち着かなかった。
昨日のことりの反応も見ていたし、自分が褒められたときのことだって、もちろん覚えている。
似合う。
しかも、“ことりとは違うタイプでちゃんとして見える”。
あれはあれで、みずきの胸の中に変に残っていた。
服が似合うかどうかより、“みずきとして見た上での感想”だったのがまずかった。
だからこそ、余計にことりの反応も気になる。
「朝比奈さん」
つばさが、今度はみずきの机に寄ってくる。
「なに」
「今日、ことりちゃんのほう全然見ないね」
「見てるけど」
「いや、見てないふりしてる」
図星すぎる。
「うるさい」
「でも気になるでしょ」
「……まあ」
みずきは小さく答えた。
つばさはにやりと笑う。
「昨日の“似合ってる”は効いたよね」
「……藤宮さんさ」
「なに?」
「人の心拍数を面白がるのやめたら?」
「無理かなあ」
みずきは深くため息をつく。
「でも、ほんとに腹立つの」
「何が」
「真央のああいうとこ」
みずきは頬杖をついて、少しだけ遠くを見る。
「普通に言うの。変に照れたりごまかしたりしないで」
「うん」
「だから、変に残る」
その言葉に、つばさが少しだけ静かになる。
「で、ことりちゃんにも言った」
「……うん」
「しかも、あれ絶対、ことりちゃんのほうが効いてる」
「分かるの?」
「分かる」
みずきは小さく唇を尖らせた。
「顔見れば」
それは、ことりにも言える。
みずきの顔を見れば、昨日の一言がちゃんと残っているのが分かるだろう。
つばさは少しだけ笑ってから、机に指をとんとんと打ちつけた。
「じゃあさ」
「なに」
「負けたくないなら、自分も言わせれば?」
みずきが眉をひそめる。
「何を」
「似合う、以外のやつ」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないからやる価値あるんじゃん」
つばさは平然としている。
「文化祭って、そういうイベントいっぱいあるよ。衣装だけじゃなくて、髪型とか、役割とか、頑張ってる姿とか」
「……」
「朝比奈さんが“幼なじみのまま”で止まらないなら、そういうの増やせるでしょ」
その言葉は、昨日と同じ方向だった。
みずきは机の端を指でなぞる。
簡単ではない。でも、たしかにその通りだ。
幼なじみは、黙っていても隣にいられる。
でも今必要なのは、ただ隣にいることじゃない。
「……考えとく」
「お、前向き」
「うるさい」
つばさが笑って離れていく。
みずきは小さく息を吐いた。
負けたくない。
その気持ちは、もうかなりはっきりしている。
ただ、その“勝ち方”がまだ分からないだけだ。
◇
昼休み。
文化祭のことで先生に呼ばれたつばさがいないタイミングで、ひよりがまた二年の教室へやって来た。
「先輩!」
明るい声に、教室の何人かがすぐ振り向く。
もうこの光景も見慣れ始めている自分が嫌だ。
「また来たのか」
俺が言うと、ひよりは少しだけ頬を膨らませた。
「またって言わないでください」
「じゃあ何て言えばいい」
「ひよりちゃん、ようこそ、で」
「図々しいな」
ひよりはえへへと笑い、それから周囲を見回した。
ことりとみずきの姿が目に入ると、少しだけ姿勢を正す。
「こんにちは、先輩たち」
「こんにちは」
ことりはちゃんと笑顔で返す。
みずきも「こんにちは」と言う。
だが、その二人の間に流れる空気が、昨日よりほんの少しだけ変わっているのを俺は感じた。
共通の敵、みたいなものではない。
むしろ、“同じものにやられている側同士”の奇妙な連帯感に近い。
「今日は何しに来たの?」
ことりが優しく聞く。
「えっと、差し入れ……じゃなくて」
ひよりは少しだけ視線を泳がせる。
「うちのクラスの衣装案ができたので、先輩にも見てほしくて」
そこへ来るのか。
「なんで俺」
「白井先輩が、ちゃんと見てくれそうだからです」
「その理由がもう危ないんだよなあ」
俺が呟くと、ひよりはきょとんとした。
「危ないですか?」
「いろいろとな」
「でも、先輩って、褒めるときちゃんと褒めてくれるじゃないですか」
その瞬間、ことりとみずきの空気がぴたりと止まったのが分かった。
ひよりはまだ気づいていない。
この子、本当にすごいな。爆弾を投げる才能だけなら間違いなく天才だ。
「……ひよりちゃん」
ことりが小さく言う。
「なに?」
「それ、すごく分かる」
今度は俺が止まる番だった。
みずきも、ひよりも、そして少し離れたところに戻ってきたつばさまで、一瞬だけことりを見た。
ことりは言ってから自分でも少し驚いた顔をしたが、もう引っ込めなかった。
「ちゃんと見て、ちゃんと褒めるから」
その言葉は、昨日の気持ちの続きだった。
似合ってる。
あの一言が、まだことりの中に熱を残しているのだ。
「えへへ」
ひよりが嬉しそうに笑う。
「ですよね!」
「そこ意気投合するんだ」
みずきが呆れたように言う。
けれど、その声には昨日ほどの刺がない。
「朝比奈先輩は違います?」
ひよりが聞く。
みずきは一瞬だけ詰まって、それから視線を逸らした。
「……違わないけど」
「やっぱり!」
ひよりが目を輝かせる。
そこでようやく、自分が何に気づき始めているのかを、この一年生は理解したらしい。
「……あれ?」
「遅い」
つばさが即答する。
「もしかして、私」
「うん」
「思ってたより、先輩にかなり弱いのでは……?」
「やっとそこ?」
みずきが呆れる。
ことりも苦笑する。
俺は頭を抱えたくなる。
「で、でも!」
ひよりは慌てて言う。
「先輩の近くには、すでに強い人たちがいますし!」
「その言い方やめてって前も言った」
「でも本当じゃないですか!」
ひよりはことりとみずきを見る。
「七瀬先輩も朝比奈先輩も、すごいですし」
「何が」
みずきが聞く。
「ちゃんと先輩のそばにいる感じがするから」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。
ことりが少しだけ目を伏せる。
みずきは苦い顔をした。
ひよりはそこで、ようやく自分の立ち位置を少しだけ理解し始めたのだろう。
“自分はまだ途中から来た側だ”ということを。
「……でも」
ひよりが言う。
「だからって諦めるわけじゃないんですけど」
今度は三人分の空気が揺れた。
ことり。
みずき。
そして俺。
ひよりは頬を赤くしながら、でも笑っていた。
「先輩、やっぱり好きかもしれません」
前より少しだけ静かな声だった。
それが逆に、本気っぽい。
ことりはぎゅっとノートの端を握る。
みずきは視線を落とす。
俺はもう何と言えばいいか分からない。
「……やっぱり、文化祭ってやばいね」
つばさが小さく言った。
その一言だけが、妙に正確だった。
◇
ひよりが帰ったあと、教室には少しだけ疲れた空気が残った。
ことりは自分の席でノートを閉じ、みずきは窓の外を見ている。
つばさは「いやあ」と言いながらも、さすがに今日は深追いしない。
レナだけが、淡々と教科書を机の中にしまっていた。
俺はようやく息を吐く。
「……つかれた」
「おつかれさま」
ことりが小さく言う。
「ほんとにね」
みずきも続く。
その声に、二人の間に変な刺々しさがないことに気づく。
もちろん、気持ちが片付いたわけじゃない。むしろ複雑さは増している。けれど、ひよりという“無邪気な第三者”がいることで、ことりとみずきは少しだけ“同じ側”にも立っているのかもしれなかった。
「……白井くん」
ことりが呼ぶ。
「ん?」
「その、疲れてるとこ悪いんだけど」
「うん」
「明日、ポスター作り手伝ってくれる?」
「また増えるのか」
「増えるよ。文化祭だし」
そう言って、ことりがほんの少しだけ笑う。
その笑顔を見て、俺は結局断れない。
「……分かった」
「ありがと」
みずきがそれを聞いて、少しだけむっとする。
でも何も言わない。
その何も言わない感じが、前より少しだけ強くなった証拠でもある。
ひよりの無邪気さは、ときどき本命より強い。
けれど、その無邪気さに振り回されるだけの段階は、もう終わり始めている。
誰かを好きになるって、こういうことなのかもしれない。
笑えるし、苦しいし、変なところで意地になる。
文化祭準備の教室は、今日もまた少しだけ熱を増していた。




