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第20話 保健委員は、近づきすぎた距離を見逃さない

榊レナは、クラスの人間関係をわざわざ首を突っ込んでまで観察したいタイプではない。


 自分から誰かの恋愛事情を探る趣味もないし、噂話の中心にいたいとも思わない。

 ただ、見えてしまうものは見えてしまう。


 誰が無理して笑っているのか。

 誰が怒っているふりで傷ついているのか。

 誰が自分でも気づかないまま、周囲を揺らしているのか。


 そういうことは、案外、声の大きい人間よりも、少し引いた位置にいる人間のほうがよく見える。


 だからレナは、文化祭準備が始まってからの白井真央の周囲を、自然と観察することになっていた。


 七瀬ことり。

 朝比奈みずき。

 藤宮つばさ。

 小日向ひより。


 全員、反応の仕方は違う。

 でも共通していることが一つだけある。


 白井真央の近くにいるときだけ、少しずつ平常心を失う。


 そして、その中心にいる本人だけが、それをいまいち分かっていない。


「……危ないわね」


 放課後、教室の窓際で救護用の備品リストを見直しながら、レナは小さく呟いた。


 文化祭当日は人が増える。軽いけが人や気分不良に備えて、絆創膏、消毒液、冷却シート、紙コップ、ビニール袋、簡易の常備薬。

 保健委員として確認することは多い。


 その作業の片手間にでも、教室の空気の変化は十分拾える。


 教室の後方では、真央が段ボールを開けていた。

 その横でことりが買い出しメモを確認している。


「これ、余った飾り紐どこに入れる?」


「その箱でいいんじゃないか」


「こっち、色混ざってるよ」


「じゃあ分けるか」


「白井くん、それ雑すぎ」


「細かいな」


「大事だよ」


 なんでもない会話。

 でも、会話の温度が少しやわらかい。


 ことりは、真央の前でだけ少し安心した顔をする。

 それはもう、かなり明確だった。緊張もしている。照れもする。でも、“緊張したまま近づきたい”顔だ。


 一方で、少し離れた場所にいるみずきは、その空気をちゃんと見ている。見ていて、見ないふりをしている。

 その我慢がたまに限界に近いことも、レナには分かる。


 つばさは、その全部を分かったうえで面白がっている。

 そしてひよりは、無自覚に全部をかき回す。


「榊さん」


 つばさが、レナの机に手をついた。


「いま、“このクラス終わってるな”って顔した?」


「してない」


「したよ」


「気のせい」


「便利だね、その言葉」


 つばさはにやにやしている。

 この手の空気を楽しめるのは才能だと思うが、たまに本気でたちが悪いとも思う。


「でもさ」


 つばさが小さく声を落とした。


「榊さんも分かるでしょ」


「何が」


「白井くん、もう“優しい男子”で済ませられないとこまで来てる感じ」


 レナは少しだけ視線を上げた。


 教室の後方。

 真央がことりの手からメモを受け取り、確認しやすいように紙を少し高く持ってやっている。ことりはそれに何の疑いもなく寄っていく。


 ああいうところだ。

 自然すぎる。


「……ええ」


 レナは静かに答えた。


「本人だけが、自分の渡してるものをまだ正確に分かってない」


「だよねえ」


「楽しそうね」


「楽しいよ」


 つばさは即答したあと、少しだけ笑いを引っ込めた。


「でも、ちょっとだけ怖くもある」


 その言葉は意外だった。

 つばさにも、そういう感覚はあるらしい。


「誰か一人が泣く前に、一回ちゃんと線引きできるといいんだけどね」


「それができるなら、もう少し簡単だったでしょうね」


「違いない」


 つばさは肩をすくめて離れていった。


 レナはもう一度、真央のほうを見る。


 困っている人を見ると、反射で動く。

 変に恩着せがましくしない。

 見返りを求めない。

 そのくせ、相手の“恥ずかしさ”だけはちゃんと守ろうとする。


 悪い人間ではない。むしろかなり善良な部類だろう。

 でも、その善良さが、今の状況ではかなり危うい。


「……白井くん」


 レナは小さく呟いた。


「そろそろ一回、自分のこと考えたほうがいいわよ」


     ◇


 その日の準備がいったん落ち着いたのは、日が傾き始めたころだった。


 教室の中はまだ片付いてはいないが、少なくともみんな一度息をつけるくらいには作業が進んでいる。


「ちょっと飲み物買ってくる」


 真央がそう言って、教室を出ていった。


 ことりが一瞬だけその背中を見たあと、何でもないふうに自分のメモへ視線を戻す。

 みずきも気づいている。つばさはもちろん気づいている。


 こういう、小さな目線の動きひとつで空気が変わるのだから、見ている側としてはたまらない。


 数分後、レナも備品の確認で保健室へ向かうことになった。


 廊下へ出ると、ちょうど自販機の前で真央が缶コーヒーを開けているところに出くわす。


「休憩?」


 レナが声をかけると、真央が少しだけ驚いた顔で振り向いた。


「ああ」


「珍しい顔してる」


「どんな」


「少し疲れてる顔」


「それは実際そうだろ」


「文化祭準備だけで?」


 レナが聞くと、真央は少しだけ黙った。

 その沈黙で、だいたい分かる。


「……半分くらいは」


「残り半分は?」


「聞くなよ」


「じゃあ当たってるのね」


「最近、みんなそうやってすぐ見抜くな」


「分かりやすくなってるのよ」


 真央は缶コーヒーを持ったまま、壁に軽く寄りかかった。


「そんなにか」


「そんなに」


「嫌だな」


「でも前より人間っぽい」


「つばさにも似たようなこと言われた」


「じゃあ本当にそうなんでしょ」


 レナは真央の隣に並ぶでもなく、少し距離を空けたまま廊下の窓に背を預けた。


 しばらく無言。


 夕方の校舎は静かだった。

 遠くから運動部の声がする。文化祭準備の喧騒も、この場所までは少し遅れて届く感じがする。


「榊」


 真央が言った。


「ん?」


「俺、そんなに危ないか?」


 レナは少しだけ首をかしげた。


「危ないって?」


「その、最近みんなに言われるから」


「優しいだけじゃだめだとか、自覚持てとか?」


「そう、それ」


 レナは少し考えたあとで答えた。


「危ないというより、不安定」


「不安定」


「自分の中では基準が変わってないのに、周りはどんどん変わってる状態だから」


 真央は黙って聞いている。


「たとえば、困ってる子を助ける。それ自体は悪くないわ」


「うん」


「でも、その“助ける”が相手にとってどういう意味になるかまでは、もう見ないとだめな段階」


「……」


「少なくとも今のあなたの周りは、そう」


 真央は缶コーヒーを見下ろした。


「正直、そこまで考えられてなかった」


「でしょうね」


「断言するな」


「だって見てれば分かるもの」


 レナは淡々と言う。


「ことりさんが、あなたの前でだけ安心した顔をすること」


「……」


「朝比奈さんが、そういうことにちゃんと気づいてること」


「……」


「ひよりちゃんが、まだ自分でも整理できてないまま近づいてきてること」


 真央はそれぞれに反応しながら、でも何も言わない。


「そしてあなたが、それを“全員まとめて困ってる人”みたいに見ようとしてること」


 その一言で、真央が少しだけ眉を寄せた。


「違うのか」


「違うわ」


 レナは即答した。


「少なくとも、もうそれだけじゃない」


 風が廊下を抜ける。

 真央は少しだけ視線を上げた。


「……じゃあ、どうすればいい」


 その問いは、思っていたより弱かった。

 たぶん本気で分からないのだろう。


 レナは少し考えてから、静かに言った。


「正解を探す前に」


「うん」


「誰の気持ちを、一番軽く扱いたくないか考えたら?」


 真央が息を止めたのが分かった。


 重い問いだ。

 でも、今の真央には必要な問いでもある。


「全員、はなし」


 レナが先に言う。


「それを言うときは、だいたい誰のことも選べてないから」


「……厳しいな」


「現実的なだけ」


 真央はしばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、たぶんいろんな顔が浮かんでいるのだろう。ことり、みずき、ひより。もしかしたらそこにレナ自身やつばさまで入るのかもしれない。


 やがて、真央が小さく息を吐いた。


「分からない」


「今すぐ分からなくてもいいわ」


「でも考えろってことか」


「そう」


 レナはそう言って、窓の外を見た。


「優しいだけでいられる時期は、もう終わったから」


 真央は返事をしなかった。

 でも、その沈黙は、聞いていない沈黙ではなかった。


     ◇


 教室へ戻ると、さっきまでと空気が少し変わっていた。


 ことりが、黒板に書いたメニュー案を見直している。

 みずきがその横で装飾案を出しながら、時々ことりと小さく言い合っている。

 つばさはそれを見ながらニヤニヤしている。


 完全に平和というわけではない。

 でも、前みたいな“触れたら壊れる緊張”よりは、少しだけ人間味のある空気になっていた。


「おかえり」


 つばさが言う。


「買い出しじゃなくて飲み物だった」


「その揚げ足取りいる?」


「いる」


 真央が苦笑する。


 その顔を見た瞬間、ことりがちらっとこっちを見る。

 みずきも、少しだけ遅れて視線を寄越す。


 その二つの視線の意味を、レナは今なら少しだけ言葉にできる。


 ことりは、“大丈夫だった?”を見ている。

 みずきは、“何か変わった?”を見ている。


 そして真央は、その両方を受け取りながら、まだ自分が何を返すべきか決めきれていない。


「……ほんと、ややこしいわね」


 レナが小さく呟くと、つばさがすぐ反応した。


「でしょ?」


「でも、ちょっと嫌いじゃないでしょ」


「まあね」


 つばさは笑う。


「青春って感じするし」


 レナはその言葉に、否定も肯定もしなかった。


 青春。

 たしかに、そういう名前で呼べるのかもしれない。


 不器用で、近づきたくて、でも近づき方が分からなくて、誰かの優しさひとつで簡単に揺れてしまう。

 そういう時期の、少し危ういやりとり。


 問題は、その中心にいる真央が、まだ自分の立ち位置を決められていないことだ。


 けれど、それも今すぐでなくていい。

 今はまだ、気づく段階なのだろう。


「白井くん」


 レナが静かに呼ぶ。


「ん?」


「そのメニュー札、字ずれてる」


「え、うわ、ほんとだ」


 真央が慌てて直そうとする。

 ことりが「そこ押さえて」と言い、みずきが「そのテープ短い」と言い、つばさが「ほらやっぱり一人でできないじゃん」と笑う。


 そうやって、また放課後の準備が動き出す。


 優しいだけでは足りない。

 でも、優しいからこそ始まったものもある。


 その両方を抱えたまま、文化祭前の教室は今日も少しずつ熱を持っていくのだった。

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