第2話 秘密を共有しただけなのに、距離が近すぎる
翌朝、俺はいつもより十分早く目が覚めた。
目覚ましが鳴る前だった。
しかも気分がいいわけじゃない。むしろ逆だ。眠りが浅かったのか、変な夢を何本も見た気がするのに、内容はひとつも思い出せない。ただ、起きた瞬間から胸のあたりに妙なざわつきだけが残っていた。
「……最悪だな」
天井を見上げたまま呟く。
理由は分かっている。
昨日の放課後だ。
教室。西日。泣きそうな七瀬ことりの顔。
腰に巻いた俺のブレザー。
そして最後に言われた言葉。
――助けてくれたことのほう、忘れないで。
あんなことを言われて、普通に寝られる男がいたら会ってみたい。いたらたぶん、そいつは鋼のメンタルか、恋愛経験が豊富すぎるか、どっちかだ。少なくとも俺ではない。
ベッドから起き上がって顔を洗い、制服に着替え、母親が置いていった朝食のトーストを適当にかじる。いつもと同じ朝のはずなのに、何もかもが落ち着かなかった。
「まあ……」
牛乳を飲みながら、自分に言い聞かせる。
「今日は普通にしてればいいだけだろ」
そうだ。
秘密は守る。
妙に意識しない。
昨日のことを引きずって変な態度を取るほうが、よっぽど怪しい。
俺が平静でいれば、たぶん向こうも助かる。
それが一番だ。
そう決めて家を出たときには、わりと本気で“今日は乗り切れる”と思っていた。
思っていたのだ。
◇
結論から言うと、乗り切れなかった。
朝の教室に入った瞬間から、もうだめだった。
「おはよー」
「昨日の課題やった?」
「え、うそ、それ今日提出なの?」
ざわざわとしたいつもの空気。
窓際では女子が笑っていて、後ろでは男子がスマホを覗き込んでいる。ごく普通の朝だ。普段ならそのまま自分の席に座って、鞄を置いて、ぼんやり一限を待てば終わる。
なのに今日は、教室のどこに七瀬がいるのかを、一番先に探してしまった。
いた。
窓側、二列目。
友達と話している。いつも通り、やわらかい笑顔だ。昨日のことなんてまるでなかったみたいに見える。
「……だよな」
そうでなきゃ困る。
俺は勝手にほっとして、自分の席へ向かった。
その瞬間だった。
七瀬が、ふっとこっちを見た。
目が合う。
ほんの一秒にも満たない時間だったと思う。
なのにその一瞬で、彼女の表情がきれいに固まった。
「…………」
「…………」
俺も止まった。
いや、違う。止まりたくはなかった。動けなかっただけだ。
七瀬ことりは、昨日の夕方とは別人みたいに整った顔で、でもほんの一瞬だけ、確かに動揺を浮かべた。
それから、ふいっと視線をそらした。
そらしたのに、耳が赤かった。
「え」
小さく漏れた声は、たぶん俺のものだった。
七瀬の隣にいた女子が、首をかしげる。
「ことり、どしたの?」
「え? な、なんでもないよ」
なんでもないにしては、声が半音くらい上ずっていた。
俺はとりあえず何も見なかった顔で席に座ったが、着席と同時に理解した。
ああ、これ。
昨日の件、普通には終わってない。
俺は鞄から教科書を取り出しながら、できるだけ自然に深呼吸した。
落ち着け。まだ朝だ。たまたま目が合っただけかもしれない。向こうだって少し気まずいだけだ。俺が勝手に意識しているだけで、すぐ元に戻る。たぶん。
たぶん、と考えた時点でだいぶ怪しかった。
一限が始まる直前、後ろから椅子を引く音がして、馴染みのある声がした。
「おはよ、真央」
振り向くと、朝比奈みずきがいた。
肩までの明るい茶髪を軽く結んで、いつもの勝ち気そうな顔をしている。幼なじみ。腐れ縁。付き合いだけなら人生で一番長い女子だ。
「おはよ」
「なに、そのテンション低い返事」
「朝だからだろ」
「朝だからっていうより、なんか寝不足っぽいけど」
「……人の顔見て第一声がそれか?」
「図星なんだ」
みずきは俺の机に肘をついて、じっと顔を覗き込んできた。近い。
「なに。夜更かし? ゲーム? 動画? それとも珍しく勉強?」
「おまえの中で俺の評価どうなってんだよ」
「最後に一応勉強入れてあげたじゃん」
「ついでみたいに言うな」
軽口を返しながらも、正直助かった。
みずきとのこういう会話はほとんど反射でできる。頭を使わなくていい。昨日のことを考えずに済む時間は、今の俺にはありがたかった。
……のだが。
「で?」
「で、ってなんだよ」
「なんかあった?」
みずきが目を細める。
「は?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで人の私生活を嗅ぎ回るな」
「嗅ぎ回るって言い方感じ悪っ。幼なじみの勘ってやつよ」
「そういう勘は外れてくれ」
そう返した瞬間、みずきの視線が、ふっと俺の肩のあたりから教室の前方へ流れた。
「……へえ」
「なに」
「別に」
言いながらも、みずきは明らかに何かを察した顔をしていた。
嫌な予感がして俺もそちらを見る。
七瀬ことりが、友達と話しているふりをしながら、こっちを見ていた。
いや、正確には“こっちを見た瞬間に慌てて視線を逸らした”。
おい。
昨日のことがあったから仕方ないのは分かる。分かるけど、そんな分かりやすく反応されたら困る。
「……なにあれ」
みずきがぼそっと言った。
「知らん」
「いや、知らんじゃないでしょ。今の、どう見てもなんかある顔だったけど」
「被害妄想だ」
「おまえの?」
「なんでだよ」
俺が即答すると、みずきはますます胡散臭そうな顔をした。
「昨日、七瀬さんとなんかあった?」
「なんでそうなる」
「いや、今の空気見たら普通そうなるじゃん」
「普通って怖いな」
「ごまかした」
「ごまかしてない」
「じゃあ何もないの?」
「……何もない」
言い切るのに、ほんのわずかに間が空いた。
みずきはそれを聞き逃さなかったらしい。
にやりとも笑わない、むしろ真顔のまま、じっと俺を見る。
「今、間があった」
「気のせいだ」
「へえ」
「おまえ今日そればっかだな」
「だって怪しいし」
ちょうどそのタイミングで担任が教室に入ってきて、会話はそこで切れた。
助かったような、助かっていないような気分だった。
一限の現代文が始まっても、どうにも集中できない。
教科書の文字は目に入るのに、頭に入らない。原因は言うまでもなく、右斜め前の席だ。
七瀬ことりは、授業中はちゃんと優等生だった。板書もきれいだし、先生に当てられても落ち着いて答える。昨日みたいに取り乱した姿なんて、微塵もない。
ただ、先生が後ろを向いた一瞬とか、ページをめくる瞬間とか、そういう細い隙間に、彼女が何度かこちらを気にしているのが分かった。
そして目が合うたび、だいたい慌てる。
なんなんだ、ほんとに。
俺は机に肘をつきたくなるのをこらえながら、ノートに意味のない線を引いた。
昨日のことを意識しているのは俺だけじゃない。それは分かった。分かったけど、だからどうしろというのか。
授業と授業の間の休み時間になると、事態はさらに悪化した。
二限前、クラス委員がプリントを配り始めたときのことだ。
列の前から順に紙が回ってきて、俺はそれを受け取って後ろへ渡した。普通の流れだ。
次の列では、七瀬が配っている。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとー」
友達に渡すその声はいつも通り。
問題は、その次だった。
七瀬が列を回って俺の近くまで来る。
ただ紙を置いていくだけ。たったそれだけのことなのに、彼女は一歩手前でなぜか不自然に減速した。
「……し、白井くん」
「ん」
「これ」
「ああ」
受け取る。
受け取るだけ。そこに何の問題もない。
でも七瀬は、紙を渡したあとも一瞬だけ手を引っ込めるのが遅れた。
しかも、そのあと小さな声で言った。
「……その、昨日は」
「七瀬さん?」
隣の席の女子が不思議そうに声をかける。
七瀬ははっとして、ぱっと手を離した。
「な、なんでもない」
「え、何?」
「ほんとに何でもない!」
やけに強い否定だった。
教室の何人かがちらっとこっちを見る。
俺は静かに天を仰ぎたくなった。
みずきなんか、後ろから完全に“今の何?”って顔をしている。やめろ、その目はやめろ。
二限、三限と時間が進むほどに、七瀬の“平常心を保とうとして逆に目立つ感じ”は深刻になっていった。
体育の移動前には、ロッカーの前でたまたま俺と鉢合わせして固まる。
昼前には、友達と笑っていたのに俺が通った瞬間だけ声のトーンが変わる。
そして昼休み。
これが決定打だった。
俺はいつも通り、購買で買ったパンを片手に自分の席へ戻ろうとしていた。
すると前から、弁当を持った七瀬が歩いてくる。友達と一緒だ。
すれ違うだけ。何も起きないはずだった。
「――っ」
七瀬が、机の脚に軽くつまずいた。
大きく崩れたわけじゃない。けれどバランスを崩して、弁当箱が傾く。中身が危ない。
「あ」
反射で手が出た。
俺は持っていたパンを脇に抱え、落ちそうになった弁当箱を受け止める。
「気をつけろ」
「……っ、あ、ありがと」
そこまではよかった。
問題は、そのあと七瀬が俺の顔を見た瞬間、信じられないくらい真っ赤になったことだ。
「え、七瀬さん?」
「だ、大丈夫?」
友達二人が同時に声をかける。
「う、うん! だいじょうぶ、ほんとに!」
全然大丈夫そうじゃない声でそう言って、七瀬は俺の手から弁当を受け取り、ほとんど逃げるようにその場を去っていった。
残されたのは俺と、気まずい空気と、事情を知らないクラスメイトたちの視線。
「……白井」
隣の席の男子が言う。
「おまえ、七瀬さんと知り合いだったっけ?」
「クラスメイトだよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「俺も今そういう意味じゃなくてって言いたい気分だよ」
すると後ろから、椅子をがたんと鳴らす音がした。
みずきが立ち上がっている。
「真央」
「なに」
「ちょっと来て」
「今?」
「今」
声が低い。
これは断ると面倒なやつだ。
俺は仕方なくみずきについて教室の後ろまで行った。つばさとかいう情報通の女子がこちらをちらっと見た気もしたが、今は気にしないことにする。
「で、何」
「それ、こっちの台詞」
みずきは腕を組んで俺を睨んだ。
「何があったの」
「だから、何も」
「今の見てそれで通ると思ってる?」
「別に転びそうになったの支えただけだろ」
「その前からずっとおかしいの。朝からずっと」
「気のせいだって」
「おまえ、嘘つくの下手だよね」
そこだけは自覚があったので、俺は黙った。
みずきはため息をつく。
「別に、全部話せって言ってるわけじゃない」
「じゃあ何だよ」
「変なことに巻き込まれてないか確認してるだけ」
言い方は刺々しいのに、内容は少しだけ優しい。
昔からそうだ。みずきは人の心配をするとき、なぜかちょっと喧嘩腰になる。
「巻き込まれては……いるかもな」
「は?」
「いや、変な意味じゃなくて」
「じゃあどんな意味よ」
「説明しにくい意味」
「いちばんだめなやつじゃん」
正論だった。
俺は頭をかいた。
言えない。言えるわけがない。七瀬の秘密を勝手に話すなんて論外だ。
「心配しなくていい」
結局、言えたのはそれだけだった。
「大したことじゃない」
「……その“大したことじゃない”って、本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、そこ突っ込むなよ」
みずきはしばらく俺を見ていたが、やがて呆れたように息を吐いた。
「まあいい。今は」
「助かる」
「でも」
人差し指を突きつけられる。
「もしほんとに困ってるなら、変に一人で抱え込まないで言いなさいよ」
「なんだよ、その保護者みたいな言い方」
「幼なじみだから言ってるの。忘れた?」
「忘れてないけど」
「ならいい」
そこでチャイムが鳴った。
みずきは「ほら、戻る」と言って先に歩き出す。俺はその背中を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
ありがたい。
でも、ありがたいと思ってることも多分みずきには言わない。言ったら調子に乗るから。
昼休みの後半、俺はできるだけ七瀬と目を合わせないようにして過ごした。
向こうもたぶん同じことを考えていたんだと思う。結局、そのあと直接話すことはなかった。
このまま一日が終わればいい。
そう思っていたのに、放課後になって、もっと面倒なことが起きた。
◇
「白井くん」
帰り支度をしていた俺に、聞き慣れたようでいてまだ慣れない声がかかった。
教室のざわめきが、一瞬だけ薄くなる。
呼んだのは、七瀬ことりだった。
「……え」
間の抜けた声を出したのは俺だけじゃない。
近くにいた何人かも、はっきり驚いている。そりゃそうだ。七瀬が自分から俺に話しかけるなんて、今までほとんどなかった。
しかも本人も相当緊張しているのが見て取れた。
「ちょ、ちょっといい?」
「今?」
「うん、今……」
断る理由はない。ないけど、この空気は断然よくない。
俺が立ち上がると、後ろからみずきの視線が刺さるのを感じた。刺さるっていうか、もうほぼ物理的な圧だ。やめてほしい。
七瀬は俺を廊下へ連れ出した。
夕方の廊下には、まだ部活へ向かう生徒の声が響いている。完全に二人きりにはなれないけれど、教室よりはましだ。
「どうした」
できるだけ普通に聞く。
七瀬は胸の前で手を組んで、少し迷ってから言った。
「昨日の……お礼」
「お礼?」
「その……上着、ちゃんと洗って返したいし。あと、何か……何かお礼したくて」
「ああ」
そういう話か。
だったら、昨日の延長線上として自然だ。よかった。もっと危険なことを言われるのかと思った。
「別にいいよ。上着返してもらえれば」
「よくない」
「なんで」
「だって、ほんとに助かったから」
七瀬はそう言って、少しだけ俯いた。
「昨日、あのあと、家帰ってからずっと考えてたの。私、たぶんすごく変な顔してたし、すごく面倒くさい状況だったのに、白井くん……ちゃんと普通にしてくれたから」
「普通ではなかった気もするけどな」
「私にとっては普通だったの」
その言い方は、少しだけずるい。
俺が言葉に詰まっていると、七瀬は小さく笑った。
「だから、お礼。何かさせて」
「いや、そんな大げさな」
「大げさじゃないよ」
「でも」
「じゃあ、放課後、ちょっとだけ付き合って」
「は?」
「購買でも、自販機でも、なんでもいいから。一本くらい奢らせて」
そこまで言われると断りにくい。
というか、ここで意地でも断るほうが不自然だ。
「……分かった」
「ほんと?」
「ほんと」
七瀬の顔が、ぱっと明るくなる。
その変化があまりに分かりやすくて、俺は思わず視線を逸らした。
そのときだった。
「へえ」
背後から、聞き慣れないけど妙に通る声がした。
振り向くと、廊下の角に一人の女子が立っていた。
藤宮つばさ。クラスでも有名な情報通。軽そうに見えるくせに、妙なところで観察眼が鋭い。俺が勝手に苦手だと思っているタイプの人間だ。
「七瀬さんから白井くんを放課後にお誘い、ねえ」
「ち、違っ」
七瀬がすぐに反応する。
「違うって何が?」
「いや、その、そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃないのに、そんなに慌てるんだ」
つばさは面白そうに笑った。
この人、絶対に今の空気を楽しんでいる。
「藤宮さん」
七瀬が珍しく少し硬い声を出す。
「何?」
「変な言い方しないで」
「してないよ。ただ見たまま言っただけ」
「見たままの解像度が高すぎるんだよ」
思わず口を挟むと、つばさは俺を見て目を細めた。
「へえ、白井くん、そういう返しできるんだ」
「今日初めて知ったのかよ」
「うん、意外。もっと無口系かと思ってた」
「勝手に設定するな」
つばさはくすくす笑う。
七瀬はその横で、さっきよりさらに顔を赤くしていた。
だめだ。
この場に長くいると、どんどん余計な話になる。
「じゃあ、そういうわけだから」
俺は話を切り上げるつもりで言った。
「少しだけ付き合う」
「う、うん」
七瀬がこくりとうなずく。
その“少しだけ付き合う”という言葉が、端から聞くとたぶん別の意味に聞こえることに気づいたのは、言ってからだった。
「……ほーん」
つばさが実に楽しそうな声を出す。
終わった。
◇
結局そのあと、俺と七瀬は購買横の自販機まで歩いた。
廊下よりは人目が少ない。
七瀬はオレンジジュースを買い、俺には缶コーヒーを一本押しつけてきた。
「これで借りひとつ返したから」
「借りって」
「まだ全然返しきれてないけど」
自販機の横で並んで立つ。
妙に静かだ。
俺はプルタブを開けながら言った。
「朝から大変だったな」
「……う」
「いや、俺もだけど」
「やっぱり分かってた?」
「分からないほうが難しい」
七瀬は両手でジュースのパックを持ったまま、うつむいた。
「ごめん……ほんと、普通にしたかったのに」
「いや、こっちも普通にしようとしてた」
「できてた?」
「半分くらいは」
「半分しかできてないじゃん」
「そっちは三割くらいだったぞ」
「ひどい」
言いながら七瀬が笑う。
昨日みたいな張りつめた顔じゃない。今日一日のぎこちなさが、ここでようやく少しほどけた気がした。
「……でも」
七瀬が小さく言う。
「白井くんが普通にしてくれたから、助かってる」
「そうか?」
「うん。私一人だったら、たぶん今日学校休みたかった」
「そこまで」
「そこまでだよ」
真顔で返されて、俺は何も言えなくなる。
そうだよな。俺が軽く“気まずい”で済ませていい話じゃない。昨日の件は、彼女にとってはそれくらい深刻だったんだ。
「……そっか」
「だから、ありがとう」
七瀬はそう言って、少しだけはにかんだ。
その笑い方が妙に近く感じられて、俺は缶コーヒーに視線を落とした。
春の夕方の空気はやわらかいのに、心臓だけが妙に落ち着かない。
「白井くんって」
「ん?」
「もっと冷たい人かと思ってた」
「なんで」
「静かだし、あんまり人の輪の中に入らないし」
「それで冷たい判定されるのか」
「ちょっとだけ」
「ひどいな」
「でも違った」
「どう違ったんだよ」
聞かなきゃよかったかもしれない。
七瀬は少しだけ考えてから、言った。
「……ちゃんと見てる人、だった」
缶コーヒーの温度が、急に分からなくなる。
気の利いた返事なんて出てこない。
「それ褒めてるのか」
「褒めてる」
「そりゃどうも」
「どういたしまして」
その会話がおかしくて、二人で少し笑った。
――その帰り道を。
校門の近くから、朝比奈みずきが見ていたことを、このときの俺はまだ知らなかった。
しかも、そのさらに少し後ろで、藤宮つばさまで面白そうに目を細めていたことも。
だからこの時点の俺は、ほんの少しだけ思っていたのだ。
今日の面倒ごとは、これで終わりかもしれない、と。
もちろん、そんなわけがなかった。




