第19話 後輩ひより、無自覚に文化祭へ乱入する
文化祭準備が本格化すると、教室という空間は一気に狭くなる。
普段はそれぞれの席に座って授業を受けるだけの場所なのに、机を寄せ、段ボールを置き、装飾用の布を広げ、メニュー表や小道具まで並び始めると、途端に“作業場”の顔になる。
そのぶん、人と人の距離も近くなる。
ただでさえ今の二年A組は、距離感に関して平穏とは言い難い。
そんな状況で、文化祭準備という濃い時間まで増えたのだ。何も起きないほうがおかしい。
そして、その日の放課後。
何かが起きるなら、だいたい予想の少し斜め上から来るのだと、俺は改めて思い知ることになる。
「その布、もうちょい右」
「こっち?」
「違う、白井くんから見て右じゃなくて、黒板側」
「ああ、そっちか」
教室の後方で、俺は脚立を押さえながら、ことりの指示を聞いていた。
模擬喫茶の入口にかける布の位置調整だ。ことりはメモ係兼全体確認役みたいになっていて、今日はやたら仕事ができる。
いや、やたらじゃない。元からそういうやつだ。
丁寧で、抜けが少なくて、周りを見て動ける。文化祭準備みたいな“誰かが気づかないと地味に破綻する作業”に、驚くほど向いている。
「そこ、ちょっと下げて」
「了解」
俺が布の端を少しだけ引く。
ことりが真剣な顔で全体を見る。
「……うん、それでいいかも」
「ほんとか?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「でも、最初より全然いいよ」
ことりがそう言って笑う。
その笑顔は、第一章の頃みたいな“平静を装うための笑顔”ではなくて、今この作業にちゃんと集中して、その中で少しだけ楽しんでいるときの顔だった。
そういう顔を見ると、こっちも少しだけ安心する。
安心する、という表現が正しいのかは分からない。けれど、ことりが今ここで無理に頑張っていないと分かると、胸の奥が少し軽くなるのは事実だった。
「ねえ、白井」
少し離れたところから、みずきの声が飛んでくる。
「なに」
「そっち終わったら、こっちのテープも切って」
「了解」
みずきは衣装や装飾の担当だけあって、机の上に色んな素材を広げていた。
テープ、リボン、厚紙、布見本、マジック。女子の作業机というより、もはや何かの工房である。
「朝比奈さん、そっち順調?」
ことりが聞く。
「順調っていうか、つばさが全然手動かさない」
「だって私は監督だから」
つばさが当然のように言う。
「一番いらないポジションじゃない?」
「ひど」
だが、つばさが完全に役立たずかというとそうでもない。
あいつはあいつで全体の空気を見ながら、人が足りないところに口を出したり、誰かが煮詰まりそうになると話題を変えたりしている。性格はともかく、クラス運営適性は高いのだと思う。
レナは少し離れたところで、調理補助用の備品チェックをしていた。
相変わらず一人でも淡々と仕事が進んでいる。あの人は本当に安定感がある。
そうやって、放課後の文化祭準備は一応平和に進んでいた。
少なくとも、その瞬間までは。
「先輩ー!」
元気な声が、教室の後ろの扉から飛び込んできた。
心当たりがありすぎて、振り向く前から嫌な予感がした。
そして振り向いた先には、やっぱり小日向ひよりがいた。
明るい茶色の髪。
少しだけ跳ねた毛先。
胸の前で小さな紙袋を抱えるように持って、笑顔だけは太陽みたいに明るい。
「……おまえか」
俺が思わずそう言うと、ひよりはきょとんとした。
「ひどくないですか、第一声」
「いや、だって」
「だって何ですか」
「来る予感がしてた」
「それ、嬉しいって意味でいいですか?」
「違う」
「即答!」
ひよりは口を尖らせる。
そのやり取りだけなら、ただの賑やかな後輩との会話だ。問題は、その場にいる人間たちの顔ぶれだった。
ことりが、明らかに一瞬だけ動きを止める。
みずきが、露骨に眉をひそめる。
つばさが、すでに面白そうな顔をしている。
レナだけが小さくため息をついた。
「ひよりちゃん」
つばさが手をひらひらさせる。
「今日も元気だねえ」
「こんにちは、藤宮先輩!」
「こんにちはー。で、なにしに来たの?」
「差し入れです!」
ひよりが紙袋を持ち上げる。
「先輩たち、文化祭準備で大変かなって思って!」
「一年なのに気が利くねえ」
「えへへ」
そのえへへが危ないんだよ、と心の中でだけ言う。
ひよりは教室の中へ数歩入って、俺のほうへまっすぐやってきた。
「先輩、これどうぞ!」
「俺だけにか」
「いや、二年A組のみなさんにです!」
「今、一瞬“先輩に”って言いかけただろ」
「気のせいです!」
便利な言葉を使うな。
ひよりが紙袋を俺に差し出す。中を見ると、購買のパンがいくつか入っていた。人数分というには少し少ない。つまり、クラス全体向けと言いながら、実質的には“近くの数人に配る前提”なのだろう。
「ありがとうございます」
ことりが先にそう言って、にこっと笑う。
笑っている。笑ってはいる。だが、俺には分かる。少しだけ無理している。
「七瀬先輩!」
ひよりがぱっとそちらを見る。
「先輩も準備してたんですね!」
「うん、まあ」
「すごいです! 似合いますね、こういうの!」
「え?」
「なんか、文化祭の中心にいる感じです!」
ひよりは本気で思ったことをそのまま口にするタイプらしい。悪気はない。ないが、悪気がないぶん制御が効かない。
ことりが少しだけ照れたように「ありがと」と返す。
その横から、みずきがぼそっと言う。
「この子、ほんとに強いわね……」
たぶん、俺にしか聞こえない声量だった。
「何が」
「無自覚さ」
その一言に尽きるかもしれない。
「ひよりちゃんは、一年の準備いいの?」
つばさが聞く。
「少し休憩です!」
「で、わざわざ二年の教室まで?」
「はい!」
いい笑顔で頷くな。
「だって先輩、今日いるかなって」
「先輩?」
つばさがわざとらしく聞き返す。
「白井先輩です!」
「はい、出ました」
つばさが笑う。
「何が“出ました”だよ」
「いやあ、分かりやすすぎてつい」
分かりやすいのはおまえもだ。
ことりは紙袋の中のパンを見つめながら、少しだけ視線を落としていた。
笑顔は崩れていない。けれど、そのままでは持たないことも、俺には分かる。
みずきはもっと露骨だった。腕を組み、ひよりの一挙手一投足を警戒している。
ただ、前よりもむやみに噛みつかないのは、第一章の終盤で自分なりに少し整理がついたからだろう。
「ひよりちゃん」
レナが静かに口を開いた。
「差し入れありがとう。でも二年の準備の邪魔をしすぎると、顧問に見つかったとき面倒よ」
「えっ、あ、すみません!」
ひよりが慌てて背筋を伸ばす。
「いや、そこまで邪魔ではないけど」
俺がついフォローすると、みずきとことりの空気が同時に変わったのが分かった。
しまった、と思った時には遅い。
「先輩、優しいですね!」
ひよりが満面の笑みで言う。
「そういうとこ、ほんと好きです!」
教室の空気が凍る。
またか。
いや、前回ほどの爆発力ではない。今回は“好きです”のあとに“そういうとこ”が付いている。だが、それで安全になるわけではない。
ことりの笑顔が、ほんの少しだけ揺れた。
みずきが露骨に目を細める。
つばさはもう口元を押さえている。笑いをこらえているというより、何かを飲み込んでいる顔だ。レナは完全に“ほらきた”の目をしていた。
「……ひよりちゃん」
ことりが言う。
「うん?」
「そういうの、あんまり大きい声で言わないほうがいいかも」
「え?」
「誤解されるから」
その言い方は優しい。優しいが、少しだけ本気だった。
ひよりはきょとんとしたあと、教室全体を見回した。
そこでようやく、自分の発言で妙な空気になっていることを察したらしい。
「あ、もしかして……」
遅い。
「ご、ごめんなさい!」
ぺこりと頭を下げる。
「わたし、また何かまずいことを……」
「またって自覚あるんだな」
俺が言うと、ひよりは「あります……」としょんぼりした。
それが少しだけ可哀想で、俺は言いすぎたかもしれないと反省する。
ただ、ここでまた甘くすると余計ややこしくなるのも分かっていた。
「先輩」
ひよりが少しだけ小さな声になる。
「わたし、ほんとに邪魔したかったわけじゃないんです」
「それは分かってる」
「ただ、応援したくて」
「うん」
「……でも、先輩の周りって、思ったより強い人たちがいるんですね」
不意の一言だった。
ことりも、みずきも、つばさも、そしてレナまで少しだけ反応した。
ひより自身も、自分で言ってから少し驚いたような顔をしている。
「強いって何だよ」
俺が聞くと、ひよりは少しだけ眉を寄せた。
「なんていうか……」
「うん」
「みんな、先輩のことちゃんと見てるっていうか」
その言葉は、無邪気な後輩らしいまっすぐさで出てきたものだ。
嫌味じゃない。皮肉でもない。ただ、見たままをそのまま言っている。
「わたし、先輩って、もっと気軽に話しかけていい人だと思ってました」
「それは別に間違ってないけど」
「でも、なんか違いました」
ひよりはことりを見て、次にみずきを見た。
ことりは少しだけ目を伏せ、みずきは何とも言えない顔をしている。
「……そういう意味じゃないんですけど」
ひよりは慌てて言い足す。
「なんか、先輩の近くって、もうちゃんと特別な場所なんだなって」
今度こそ、教室の空気が静かになった。
つばさですらすぐには口を挟まない。
レナだけが、ひよりを少しだけ見つめていた。たぶん、“この子は今、自分でも分からないところに触れ始めてる”と気づいたのだろう。
ひより自身も、そこまで言ってから、自分の言葉の意味をようやく噛みしめ始めたらしい。
「……あれ?」
「何だよ」
俺が聞くと、ひよりは少しだけ混乱したように俺を見る。
「もしかしてわたし」
「うん」
「思ってたより先輩のこと、好きなんでしょうか」
「今さらそこ?」
みずきが思わず言った。
ことりも、つばさも、俺も、そしてたぶんレナも、似たような気持ちだったと思う。
ひよりは顔を赤くしながら両手をばたつかせる。
「だ、だって! 憧れとか、頼りになるとか、そういう感じだと思ってたんですけど!」
「それが?」
「それだけじゃないかもしれないって、今ちょっと思って……!」
「ひよりちゃん」
つばさが言う。
「気づくの遅いけど、いい線まで来てる」
「いい線って何ですか!?」
「ラブコメ的に」
「そういうのやめてくださいよ!」
教室の中に、ようやく少し笑いが戻る。
ことりも、みずきも、完全に機嫌が直ったわけではない。
でも、ひよりのその慌てっぷりがあまりにも本気で、逆に変な棘が少し抜けたのだろう。
レナが小さく息を吐いた。
「この子は、ほんとに悪意がないのね」
「でしょ?」
つばさが言う。
「だからいちばん危ない」
「そこは否定しない」
怖い会話をするな。
「と、とにかく!」
ひよりが勢いよく言う。
「今日は差し入れだけ置いて帰ります! ほんとに邪魔してすみませんでした!」
「お、おう」
「文化祭、先輩たちぜったい成功させてくださいね!」
最後まで明るい。
明るいまま、ひよりはぺこっと頭を下げて、今度こそ教室を出ていった。
扉が閉まる。
数秒、沈黙。
「……嵐だったな」
俺がようやくそう言うと、みずきが深くため息をついた。
「ほんとに」
「でも」
ことりが小さく言う。
「ちょっとだけ、分かるかも」
「何が」
みずきが聞く。
「ひよりちゃんが、自分で分からなくなってる感じ」
ことりは視線を落としたまま続ける。
「最初は“助けてもらったから特別”って思ってたのに、それが違うって気づくの、怖いし」
その言い方は、ことり自身のことでもあった。
みずきもそれに気づいたらしく、返事をしなかった。
つばさが、珍しく茶化さない声で言う。
「……ほんと、白井くんって大変だね」
「今さら?」
「今さら」
レナは腕を組んだまま、静かに俺を見た。
「だから言ったでしょ」
「何を」
「優しいだけじゃ足りない段階に来てるって」
その言葉が、やけに重く響く。
ことりはまだ俺のほうを見ていない。
みずきも、違う方向を見ている。
でも二人とも、同じくらい真剣な顔をしていた。
ひよりの無邪気さは、ときどき本命より強い。
少なくとも、“周りが見えなくなるほど真っすぐ来る”という意味では、間違いなくそうだ。
そして、その無邪気さに振り回されるだけの段階は、もう終わりかけている。
文化祭準備の喧騒の中で、俺たちの感情だけが、また少し前に進んでしまっていた。




