第18話 幼なじみ、文化祭で出遅れを痛感する
朝比奈みずきは、その日の朝、自分でも少し笑えるくらい機嫌が悪かった。
いや、正確には“機嫌が悪い”だけではない。
腹が立つ。落ち着かない。むかつく。少しだけ寂しい。
そういう細かい感情が全部混ざって、結果として機嫌が悪そうに見えるだけだ。
「……最悪」
家を出る前、玄関の鏡を見ながら小さく呟く。
昨日の放課後。
文化祭準備の買い出し。
白井真央と七瀬ことり。
みずきは、見ようと思って見たわけじゃない。
駅前からの帰り道、たまたま信号待ちで向こう側に二人がいた。それだけだ。
でも、それだけで十分すぎた。
二人が並んで立っていたこと。
ことりが少しだけ楽しそうに笑っていたこと。
真央が、その隣にいるのを“自然に見せていた”こと。
あれは、ただのクラスメイトの距離じゃない。
文化祭準備だから。
買い出しだから。
そういう理由は、いくらでもつけられる。
でも、みずきは幼なじみだ。
真央の“なんでもない顔”の中に混ざる微妙な温度差くらい、誰よりも見慣れている。
「……出遅れてる」
自分で言って、余計に腹が立った。
何に出遅れているのか。
勝負でもレースでもないことくらい分かっている。分かっているのに、そうとしか言いようのない感覚が胸の中にあった。
◇
教室に入ると、真央はもう来ていた。
席に座って、今日使う文化祭の買い出しメモかなにかを見ている。顔はいつも通り。だが、みずきからすれば、いつも通りだからこそ腹が立つ。
昨日あんなに空気が変わっていたのに、こいつはどうして朝からそんな平然としていられるのか。
「……おはよ」
ぶっきらぼうになるのは仕方ないと思う。
真央が顔を上げた。
「おはよう」
「普通ね」
「朝の挨拶に何を求めてるんだよ」
「別に。もっと気まずそうでもいいのに」
「なんでだよ」
「なんでも」
みずきはそれだけ言って、自分の席へ鞄を置いた。
七瀬ことりはまだ来ていない。
それを確認して、少しだけほっとしてしまった自分にまた腹が立つ。
だが、その数分後。
「おはよう」
教室の入り口で、ことりが柔らかく言った。
周囲の女子が「おはよー」と返し、いつもの朝の空気が流れる。
その中で、ことりの視線が一瞬だけ真央を探す。
そして、見つけた瞬間だけ、少しだけ動きが止まる。
その変化を、みずきは見逃さなかった。
――やっぱり。
昨日のことを、ことりもちゃんと引きずっている。
いや、引きずっているというより、大事に抱えたまま来ている。
真央が小さく「おはよう」と言う。
ことりも「おはよう」と返す。
それだけだ。
ただの挨拶。誰が見ても普通。
でも、普通の挨拶にしては、二人の間に流れる空気が少しだけやわらかい。
そこに気づいてしまうと、もうだめだった。
「……うわ」
近くで藤宮つばさが小さく言った。
みずきは反射でそちらを見る。
「何」
「いやあ、朝から分かりやすすぎるなって」
「誰が」
「全員」
つばさはにこっと笑った。
「朝比奈さん、今日すごい顔してるよ」
「余計なお世話」
「ことりちゃんも、昨日より目がやわらかいし」
「……」
「白井くんは白井くんで、“何もないふりしたいけど何もないわけでもない顔”してる」
「よくそんな細かく見てられるね」
「見えるものは見えるから」
便利な言い訳みたいに言うな、と毎回思う。
でも、つばさの観察眼が妙に当たるのも認めざるをえない。
「朝比奈さん」
「なに」
「焦ってる?」
いきなり核心だった。
みずきは思わずつばさを睨む。
「焦ってない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、“焦ってないように見せるのに必死”のほうかな」
「藤宮さん」
みずきは低い声で言った。
「朝から殴られたいの?」
「わ、物騒」
つばさは笑っていたが、少しだけ本気の顔でもあった。
たぶん、ただ煽っているだけじゃない。ほんとうにそう見えているのだろう。
みずきは舌打ちしたい気分をこらえて、前を向いた。
焦っている。
本当は、自分が一番よく分かっている。
◇
一限目と二限目の間の休み時間。
クラスの何人かが、文化祭の話をしていた。
「買い出しどうだった?」
「意外と荷物多くてだるかったー」
「うちのクラスも足りないの出てきた」
「七瀬さんと白井、昨日一緒に行ってたんでしょ?」
何気ない会話の中に、ぽんとその名前が混ざる。
みずきは反射で耳がそちらへ向いてしまった。
「え、そうなの?」
「文化祭の担当、買い出しペアじゃん」
「へえ、なんか意外」
「でも最近ちょっと仲よくない?」
その程度の、軽い会話だ。
悪意も深い意味もない。ただのクラスメイト同士の雑談。
なのに、その一言一言が妙に引っかかった。
最近ちょっと仲よくない?
その“ちょっと”が、やけに刺さる。
教室の斜め前では、ことりがその話を聞いているのかいないのか分からない顔でノートを開いていた。
真央は表向き無反応を貫いている。だが、近くにいるみずきには分かる。あれは完全に“聞こえてるけど反応しない顔”だ。
つばさがいつの間にか近づいてきて、小さく言った。
「ほらね」
「何が」
「噂って、最初はああいう軽いやつから始まるんだよ」
みずきは眉をひそめた。
「別に、あの程度なら噂ってほどでもないでしょ」
「今はね」
つばさは肩をすくめる。
「でも、文化祭って“近づいてるように見える二人”にはすごく都合のいいイベントだから」
「……うざ」
「それ、私に言ってる?」
「半分くらいは」
「残り半分は現実?」
「そういうこと」
みずきはため息をついた。
そうだ。
これがもし、ただの授業の席替えとか、ただの掃除当番とか、そういう単発の何かならまだよかった。
でも今は文化祭準備だ。
放課後が増える。
みんなで何かを作る。
“仲が良い二人”は、それだけで絵になる。
ことりと真央が、昨日の買い出しをきっかけにもっと自然に並ぶようになったら。
周囲はますますそう見るだろう。
それが嫌だった。
嫌だと、ちゃんとはっきり分かってしまった。
◇
三限目のあと、つばさがわざわざみずきの机に寄ってきた。
「ねえ」
「なに」
「朝比奈さんさ」
「だから何」
「出遅れてる自覚、あるんでしょ」
みずきは反射で顔を上げた。
つばさは笑っていない。珍しく、からかう半分を少し減らした顔だった。
「……うるさい」
「図星なんだ」
「そういう言い方しかできないの?」
「だって、そう見えるから」
つばさは机に軽く腰をもたせた。
「幼なじみって立場、強いようで弱いんだよね」
「は?」
「近いのが当たり前だから、“今さらわざわざ近づく”って動きが遅れる」
みずきは言い返そうとして、止まった。
止まった時点で負けた気もしたが、事実だから仕方ない。
「……じゃあ七瀬さんは?」
「ことりちゃんは、“今近づいてる最中”だから強い」
つばさはさらっと言う。
「しかも最初の秘密イベントがある」
その言葉に、みずきの眉がぴくりと動く。
「それ、ずるい」
「ずるいけど、事実だよ」
「分かってる」
「でも朝比奈さんのほうが長い時間を持ってる」
「長いだけで何もしてないなら意味ないじゃん」
「お、珍しく自分で言った」
「言いたくなかったけどね」
みずきは唇を尖らせた。
小さい頃からの積み重ねがある。
真央の家にふらっと寄ったり、コンビニへ一緒に行ったり、くだらないことで言い合いしたり、そういう“当たり前”はたしかに自分のほうが多い。
でも今、ことりが手にしているのは、そういう長い時間とは別種の強さだ。
“最初に特別だった”こと。
“今も近づいていっている途中”であること。
それはたぶん、幼なじみにはない勢いだ。
「……じゃあ、どうすればいいの」
気づけば、みずきはそんなことを口にしていた。
つばさが少しだけ目を丸くする。
たぶん、素直に相談されるとは思っていなかったのだろう。
「そうだなあ」
少しだけ考える顔をしてから、つばさは言った。
「“幼なじみだから分かるよね”をやめること」
「それ、言ってる意味分かんない」
「分かるように言うと」
つばさは指を一本立てた。
「真央くんは、“昔から知ってる”だけでは動かない」
「……」
「むしろ、自分からちゃんと言わないと、“大丈夫なんだな”って勝手に判断するタイプ」
それは、嫌になるほどその通りだった。
真央は察しが悪いわけじゃない。
でも、“自分のこと”に関しては致命的に鈍い。しかも、昔からの関係ほど「まあ大丈夫か」で済ませる癖がある。
「だから朝比奈さんが今やるなら」
つばさは少しだけ口角を上げた。
「幼なじみじゃない動き方、かな」
「……なにそれ」
「たとえば、放課後に用もなく誘うとか」
「は?」
「文化祭の話抜きで、一緒にどっか寄るとか」
「えっ、いや、そんなの」
「ほら、そうやってすぐひるむ」
「ひるむに決まってるでしょ!」
みずきは思わず声を上げそうになって、慌てて抑えた。
つばさは面白そうに笑う。
「でも、そういう“今の距離を少し変える動き”をしないと、ことりちゃんに押されると思うよ」
その言い方は腹立たしかった。
でも、嫌なほど現実味がある。
「……ほんと、性格悪い」
「褒め言葉?」
「違う」
「でも考えるきっかけにはなったでしょ」
みずきは答えなかった。
答えなかったが、つばさはそれで十分だと思ったらしい。「じゃ、がんばって」とだけ言って去っていった。
残されたみずきは、机に頬杖をついたまま、ぼんやり窓の外を見た。
放課後に、用もなく誘う。
文化祭の話抜きで、二人でどこかに行く。
そんなの、今までなら簡単だったはずだ。
コンビニだって、帰り道の寄り道だって、幼なじみだからで済んでいた。
でも今それを改めてやろうとすると、急に意味が変わる。
“幼なじみとして自然”だったものが、“ひとりの女子として近づく”行動になる。
「……無理」
小さく呟く。
その直後に、もっと小さく付け足した。
「……でも」
完全に無理とは、言い切れなかった。
◇
放課後、文化祭準備が始まる前。
真央が教室の後ろで段ボールを持ち上げているのが見えた。
相変わらず、こういう力仕事になると自然に動く。
ことりがメモを持って近づき、何か確認している。
真央が頷く。ことりが少しだけ笑う。
あの並びが、少し悔しい。
でも、見ているだけでは何も変わらない。
つばさの言葉が頭の中で反芻される。
幼なじみじゃない動き方。
みずきは深く息を吸った。
「……真央」
「ん?」
真央が振り向く。
「あとで、ちょっとコンビニ付き合って」
言えた。
思っていたより普通の声で。
真央は一瞬だけ目を丸くしたあと、「いいけど」と答えた。
それだけだ。たったそれだけ。
でも、みずきの心臓は自分でも笑えるくらい速くなっていた。
ことりがそのやり取りを見ていた。
つばさも、少し離れたところでにやっとした。
レナは、何も言わずに視線だけを寄越してくる。たぶん“ようやく一歩踏み出したのね”という顔だ。
「……なに」
みずきが小さく言うと、真央が首をかしげる。
「何が」
「いや、別に」
「今日それ多いな」
「うるさい」
でも、その“うるさい”の響きは、昨日までとは少し違っていた。
負けたくない。
まだ何に負けるのかも、自分がどう勝ちたいのかも分からない。
けれど、黙ったまま幼なじみの場所に座り続けて、気づいたら全部終わっていた、なんてのは絶対に嫌だ。
だから、まずは一歩だけ。
コンビニへ誘うくらいのことでも、今のみずきには大きな一歩だった。
幼なじみは、まだ上手に戦えない。
でも、立ち止まったままでいる気もなかった。




