第13話 最初の秘密は、いつの間にか恋になっていた
放課後の空き教室で行われた、あの妙な“作戦会議”のあと。
何かがすっきり解決したかと言われれば、そんなことは全然なかった。
むしろ逆だ。
今まで曖昧にしていたものに、少しだけ輪郭がついた。
ことりが何を嫌だと思っていたのか。
みずきが何に腹を立てていたのか。
そして、俺がいかに無自覚なまま周囲の距離感をかき回していたのか。
全部、少しだけ見えてしまった。
見えたから楽になるかというと、そうでもない。
見えたせいで、前よりよっぽど意識するようになっただけだ。
翌朝、教室に入った瞬間からそれを思い知った。
いつもの朝。
でも、いつもの朝ではない。
七瀬ことりは、窓際で友達と話していた。
その笑顔は前より少しだけ自然だった。昨日までみたいな、無理やり作ったきれいすぎる笑顔ではなく、ちゃんと本人の温度がある感じがする。
そして、俺が教室に入ると、ことりは一度だけこちらを見た。
目が合う。
ほんの一瞬。
でも、今までとは違って、すぐには逸らされなかった。
代わりに、ことりは少しだけ照れたように笑って――それから、ゆっくり目を伏せた。
それだけだった。
それだけなのに、心臓がうるさくなる。
「……おはよう」
自分でも驚くくらい普通の声で言えたのは、わりと奇跡だった。
「お、おはよう」
ことりも少しだけぎこちなく返す。
けれど、そのぎこちなさは前までの“気まずさ”ではなく、“意識しているせいでどうしていいか分からない”ほうのやつだ。
違いが分かるようになってしまった自分が、いちばん面倒だった。
「うわ、進展してる」
すぐ横から、つばさの小声が飛んでくる。
「朝からうるさい」
「いやでも、昨日までの“目が合ったら終了”状態より全然いいじゃん」
「実況をやめろ」
「無理」
相変わらずだ。
だが、今日はその相変わらずさが少しだけありがたい気もした。空気が重すぎないようにしてくれている部分も、きっとある。
後ろを振り向くと、みずきが頬杖をついたままこちらを見ていた。
視線が合うと、少しだけむっとした顔をする。
「なに」
「別に」
「その“別に”が怪しいんだよ」
「真央も最近“別に”多いじゃん」
「返しが強いな」
「強くもなるでしょ」
口調はいつも通りに戻りつつある。
戻りつつあるが、完全に元通りではない。会議のあと、みずきの中で何かが整理された部分もあれば、逆に整理されたせいで意識が強くなった部分もあるのだろう。
それはたぶん、ことりにも言える。
つまり、楽になったわけではない。
ただ、隠れていたものが少しだけ表に出て、前よりも正面から向き合わざるを得なくなっただけだ。
◇
一限目が終わった休み時間。
ことりが、珍しく自分から俺の席の近くまで来た。
いや、来たというより、列の間を通るついでに少しだけ立ち止まった感じだ。露骨にはしない。そのあたりがまだことりらしい。
「白井くん」
「ん?」
「これ、昨日のノート」
「あ」
昨日の会議のあと、帰り際にことりへ貸したノートだった。
あまりにいろいろありすぎて、すっかり忘れていた。
「悪い、いいって言ったのに」
「でも借りたままだと気になるし」
「ことりって、そういうとこ律儀だよな」
言った瞬間、ことりの耳が少しだけ赤くなる。
「……いきなり名前で呼ぶの、ずるい」
「え?」
「いや、その」
ことりが視線を泳がせる。
「昨日から、普通にそうなってるけど」
「ああ……」
たしかに昨日の会議の途中から、何となく“七瀬さん”ではなく“ことり”になっていた。勢いというか、流れというか。あの場の空気の中で、今さら姓で呼ぶのも変な感じがしたのだ。
「嫌だったか」
「嫌じゃない!」
ことりが即答してから、はっと口元を押さえる。
教室の空気が、ほんの少しだけこちらへ寄った気がした。
俺もことりも、一瞬だけ固まる。
そしてそのタイミングで、つばさが小さく机を叩いた。
「はい、今の採用」
「何を採用したんだよ」
「“嫌じゃない”発言」
「おまえは黙ってろ」
ことりは顔を真っ赤にしていた。
でも、不思議と逃げなかった。俯いて、それでもそこに立ったままだ。
「……嫌じゃないけど」
ことりが小さく言う。
「慣れないから、ちょっとだけ心臓に悪い」
「俺もだよ」
「え」
「いや、だって」
俺は頭をかいた。
「急に距離変わった感じするだろ」
ことりがほんの少しだけ目を見開く。
それから、困ったように、でも少しだけ嬉しそうに笑った。
「……そうだね」
その笑い方を見て、俺はようやく少しだけ分かった気がした。
ことりが俺に向けているものは、単なる“秘密を共有した特別感”だけじゃない。
もちろん、それもある。最初はきっとそこから始まったのだろう。
でも今はそれだけじゃない。
放課後の教室で泣きそうになっていたことり。
そのあと、中庭で少しずつ普通に戻ろうとしていたことり。
雨の日の渡り廊下で、恥ずかしかったのは“俺だったから”だと零したことり。
そして昨日、“私だけが知ってる白井くんだと思ってた”と口にしたことり。
全部が一本につながる。
ああ、そうか。
これ、もうけっこう深いところまで来てるんだ。
◇
昼休み。
俺は購買でパンを買って戻り、席で袋を開けていた。
みずきは少し離れたところで友達と話している。つばさは相変わらず教室の空気を面白そうに眺めている。レナは静かに弁当を食べていた。
そして、ことりは窓際で弁当箱を開けている。
いつもの光景。
でも、昨日までと少し違う。
昨日までは、ことりのことを意識しないようにしていた。
目が合えば気まずくなるし、変に意識すると全部ぎこちなくなるからだ。
だが今は、逆にことりのほうを見ないほうが不自然な気がする。
見たら見たで、やっぱり少し落ち着かない。でも、“見ない”を選ぶ時点で逃げている感じがした。
俺がそんなふうにぼんやりしていると、不意にことりがこっちを見た。
また目が合う。
今度は逸らさなかった。
ことりはほんの少しだけ迷って、それから小さく口を動かす。
「おいしい?」
声には出ていない。
でもたぶん、そう言った。
俺は手元の焼きそばパンを見て、小さく頷いた。
ことりが笑う。
なんだこれ。
すごく地味なやり取りなのに、妙に心臓に悪い。
「進んでるねえ」
つばさがまた小声で言う。
「おまえはほんとどこまで見てるんだよ」
「見えるものは仕方ない」
「便利な言い訳にするな」
「でも、あれじゃない?」
つばさが少しだけ真面目な声になる。
「ことりちゃん、昨日で腹括ったんじゃないかな」
「腹括るって」
「好きかも、って自分で口に出しちゃったから」
俺はパンを持つ手を止めた。
「……やめろよ、その言い方」
「なんで?」
「意識するだろ」
「してなかったの?」
している。
しているが、他人から言葉にされると急に現実味が増す。
つばさは肩をすくめた。
「でも白井くんも、昨日までと顔違うよ」
「そうか?」
「うん。“困ってる子だから助ける”だけの顔じゃなくなってる」
図星だったのかもしれない。
ことりが困っている。
それは事実だ。
でも、今の俺が気にしているのは、たぶんそれだけじゃない。
ことりが笑ってくれると少し安心するし、ことりが他の誰かと話していると何となく目が行く。そういう種類の意識が、昨日あたりからはっきりし始めている。
ただ、それを“好き”だと認めるには、俺の頭も心もまだ追いついていない。
「……面倒だな」
小さく呟くと、つばさが笑う。
「ラブコメってそういうもんでしょ」
「ジャンルみたいに言うな」
「だってまさにそれじゃん」
否定はできなかった。
◇
五限目のあと、廊下で偶然ことりと二人になった。
偶然、というには少しだけ不自然だったかもしれない。
俺がプリントを職員室に届けた帰り、ことりがちょうど階段の踊り場で立ち止まっていたのだ。手にはノート。たぶん何かを取りに来た帰りだろう。
「あ」
ことりがこっちを見る。
「……あ」
俺も似たような声を出す。
なんだこの会話の始まりは。
「今、ちょっと恥ずかしいね」
ことりが言う。
「何が」
「“あ”しか出なかったの」
「お互い様だろ」
「そうだけど」
ことりはふっと笑った。
踊り場の窓から、午後の光が差し込んでいる。部活に向かう声が遠くでして、ここだけ少し静かだった。
「白井くん」
「ん?」
「昨日のこと、変にしちゃってごめんね」
「昨日って」
「会議」
そう言って、ことりは少しだけ肩をすくめた。
「私、あんなふうに言うつもりなかったのに」
「“私だけが知ってる白井くん”?」
「……うん」
「別に、変じゃなかったと思う」
「ほんとに?」
「本音だったんだろ」
ことりは少しだけ黙る。
それから、小さく頷いた。
「本音」
「なら、変じゃない」
「でも重くない?」
「まあ、軽くはない」
「そこ正直なんだ」
「変にごまかすと余計変だろ」
ことりがくすっと笑う。
「そういうとこなんだよね」
「最近それよく言われる」
「だってほんとだし」
ことりは手元のノートの端をなでながら、少しだけ視線を落とした。
「……私ね」
「うん」
「最初は、ただ恥ずかしかっただけなんだと思ってた」
その言葉に、俺は黙って耳を傾ける。
「あの日のこと、知られたくなかったし、できれば忘れたかったし」
「うん」
「でも、白井くんが変に触れなかったでしょ」
「触れたらもっと最悪になると思ったから」
「そういうの」
ことりが少しだけ笑う。
「そういうのが、だめだった」
「だめって何だよ」
「だって、ちゃんと助けてくれたのに、恩着せがましくしないし」
「恩着せがましいのは嫌だろ」
「嫌だけど、そういうのって普通は少しくらい出るじゃん」
たしかに、そうかもしれない。
「白井くんは、“困ってたから助けた”で終わりだった」
「実際そうだし」
「うん。だから最初は、それに救われたの」
ことりはそこで少しだけ息を吐いた。
「でも、そのあと普通に話してくれるし、普通に笑うし、私だけが変に意識してるみたいで」
「……」
「それで、気づいたら」
ことりは少しだけ俺を見た。
「恥ずかしかったことより、白井くんと話すほうが気になるようになってた」
その言葉が、静かに落ちてくる。
強い言い方じゃない。
でも、だからこそ嘘じゃない。
「……ことり」
「うん」
「それ、結構すごいこと言ってるぞ」
「知ってる」
ことりが少しだけ笑う。
「でも、昨日のあとで、もう誤魔化せなくなったから」
「昨日で?」
「うん。私、自分で言っちゃったし」
“私だけが知ってる白井くん”。
あの言葉のことだろう。
あれを口にした時点で、ことりの中ではもうかなり明確だったのかもしれない。
「……じゃあ」
俺は少し迷ってから聞いた。
「今は、どうなんだよ」
「何が?」
「その、俺のこと」
ことりは一瞬だけきょとんとして、それから顔を真っ赤にした。
「い、今それ聞く!?」
「いや、だって」
「だってじゃないよ!」
ことりが慌てて一歩下がる。
その反応がいかにもことりらしくて、少しだけ笑いそうになった。
「ごめん、急だった」
「急すぎるよ……」
「でも、気になるだろ」
「気になるけど!」
ことりは顔を覆いたそうな勢いで俯いた。
「……好き、だと思う」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
階段の踊り場に、春の風が抜ける。
遠くで部活の声がする。
そんなありふれた午後の中で、その一言だけがやけに鮮明だった。
俺はしばらく何も言えなかった。
ことりが慌てて言葉を足す。
「で、でも、返事とかそういうのじゃないからね!」
「え?」
「今すぐどうこうしてほしいとかじゃなくて、ただ、私がやっと気づいただけで」
「……うん」
「だから、困らないで」
「それは無理だろ」
「だよね……」
ことりが少しだけ困ったように笑う。
その笑顔を見て、俺は変なふうに納得した。
ああ。
これ、やっぱり本当なんだ。
最初の秘密は、最初の恥ずかしさは、もうただの事故じゃない。
いつの間にか別のものに変わっている。
しかも変わったのは、ことりだけじゃないのかもしれない。
「……白井くん?」
ことりが不安そうに俺を見る。
俺はようやく口を開いた。
「正直、今すぐ何か言えるほど整理できてない」
「うん」
「でも、ことりがそう思ってるって分かったのは、嫌じゃない」
ことりの目が少しだけ開く。
「嫌じゃ、ない?」
「うん」
「それって、期待していいやつ?」
「今それ聞くのか」
「だって大事!」
ことりが即答する。
その必死さが妙に可笑しくて、俺は少しだけ笑ってしまった。
「……少しだけなら」
「少しだけなんだ」
「今はな」
「じゃあ、今はってことは、これから増える可能性ある?」
「おまえ、そういうとこ意外と攻めるよな」
「今のは確認だから!」
ことりはそう言いながらも、明らかに少しだけ嬉しそうだった。
俺はそんな顔を見ると、また余計に落ち着かなくなる。
この気持ちに名前をつけるのは、まだ少し怖い。
でも、少なくとももう“ただのクラスメイト”ではない。そんなことだけは分かる。
「じゃあ」
ことりが言う。
「今日はこれで十分にする」
「十分すぎるだろ」
「そうだよね」
ことりはくすっと笑う。
「でも、ちゃんと伝えたかったから」
「……ありがとな」
「うん」
その返事は、すごく静かで、でも満足そうだった。
ことりは一歩だけ下がって、ノートを胸の前に抱え直す。
「また明日」
「おう」
「今度はもう少し普通に話せるといいね」
「今日の時点で普通ではなかったな」
「全然普通じゃなかった」
二人で少しだけ笑う。
そしてことりは、階段を下りていった。
俺はその背中を見送りながら、しばらく動けなかった。
――好き、だと思う。
あの言葉が、まだ胸のあたりに残っている。
でも、不思議と苦しくはなかった。
困るのに、逃げたくなるのに、それでもどこかで嬉しいと思っている自分がいる。
最初の秘密は、いつの間にか恋になっていた。
そしてたぶん、その変化の中に、俺ももう片足以上突っ込んでいる。




