第11話 笑顔のまま余裕がない子と、怒ったまま余裕がない子
翌朝、教室の空気は前日よりさらに悪かった。
いや、正確に言うと、教室そのものは普通だった。
朝のざわめき、眠そうな生徒、提出物に追われるやつ、購買の新作パンの話をしている女子。いつもの朝だ。世界は容赦なく普通に回っている。
問題は、その普通の中にいる俺たちのほうだった。
小日向ひよりの爆弾発言。
「わたし、先輩のことかなり好きかもしれません!」
あの一言が、思っていた以上に後を引いていた。
俺が教室に入ったとき、最初に感じたのは視線ではなく“避けられている感じ”だった。露骨ではない。でも、確かにある。
七瀬ことりは、いつも通り友達と話していた。笑ってもいた。
ただ、その笑顔が少しだけきれいすぎる。
きれいすぎる笑顔というのは、つまり無理しているときの笑顔だ。
一方、朝比奈みずきは、その真逆だった。
隠す気はあるくせに隠しきれていない。俺が入ってきた瞬間にちらっと見て、すぐ目を逸らす。その動きだけで、まだ怒っているのが分かった。
そして藤宮つばさは、今日はいつもより少し静かだった。
静かといっても、おとなしいわけではない。ただ、面白がるより先に“これ、ちょっと洒落にならないかも”と感じているときの顔をしていた。
榊レナに至っては、もはや完全に“状況観測モード”だった。
こちらを見ないようでいて、全体の空気は確実に拾っている。保健委員とか関係なしに、あの人はたぶん日常的に人の体温を測っている。
「……はあ」
席に座って、俺は小さく息を吐いた。
その瞬間、つばさがぼそっと言う。
「朝から重いなあ」
「おまえにだけは言われたくない」
「今回はさすがに、ちょっとだけ同情してるんだけど」
「ちょっとなのか」
「全部は無理」
「なんでだよ」
「だって、昨日のあれはラブコメ的にはおいし――いや、大変だったし」
「今“おいしい”って言いかけたよな」
「気のせい気のせい」
便利に使うな、その言葉。
でも、こうやって軽口を叩いてくるぶん、つばさはまだ通常運転寄りだ。問題は、軽口を叩いてこない二人のほうだった。
前を見る。
ことりは友達の話に頷いている。だが、俺とは一度も目が合わない。
後ろを見る。
みずきは頬杖をついたまま、窓の外を見ている。だが、俺が後ろを振り向いた瞬間にだけ、視線がわずかに固まった。
どっちも余裕がない。
それが嫌になるほど分かった。
◇
一限目が終わった休み時間。
ことりは珍しく、俺のほうへ来なかった。
来ないだけじゃない。視界に入らない位置を選んで動いているようにすら見える。
その代わり、みずきが来た。
「真央」
「おう」
「ちょっと」
「今日もか」
「今日も」
有無を言わせない声だった。
教室の後ろ、ロッカーの近くまで連れていかれる。つばさが「またかあ」という顔をしていたが、今回はさすがに茶々を入れてこなかった。
「で」
みずきは腕を組んだ。
「昨日のあれ、何」
「何って」
「一年の子のやつ」
「見たままだろ」
「見たままだから聞いてるの」
刺すような言い方だが、怒鳴らないあたり、たぶん昨日よりは抑えている。
それが逆にしんどい。
「前に保健室の前でちょっと助けた子で」
「それは聞いた」
「それで昨日、相談してもいいかって言われて」
「それも聞いた」
「じゃあ何が聞きたいんだよ」
「そこから先全部」
即答だった。
「なんで“かなり好きかもしれません”になるの」
「俺に聞くなよ……」
「でも真央が原因でしょ」
「原因って言い方」
「違うの?」
違わないと言い切るのもつらい。
だからといって、違うと胸を張るのも無理がある。
みずきは小さく息を吐いた。
「ねえ、真央」
「ん?」
「あんたってさ、ほんとに自分で分かってないの?」
「何を」
「助け方」
その言葉は、最近いろんなやつから聞いている。
「みんな同じこと言うな」
「だって本当だし」
「だから、そんなに変か?」
「変っていうか……」
みずきは珍しく言葉を探した。
「変に近いの。自然すぎて」
「褒めてる?」
「褒めてない」
即答だった。
「たとえば昨日の子だって、あんたの中では“ちょっと助けた”だけでしょ」
「まあ、そうだな」
「でも相手からしたら、そうじゃなかった」
「……」
「そこが問題なの」
みずきは真っすぐ俺を見た。
「真央は、困ってる人に近づくときだけ、変に距離がちょうどいいの」
「どういう意味だよ」
「だから!」
少しだけ声が強くなる。
「踏み込みすぎないのに、ちゃんと助けるの! 見てるほうは分かるよ、そういうの!」
その言い方は、昨日ことりが言っていたこととほとんど同じだった。
しかもみずきの場合、その言葉の裏に“だから嫌なんだ”がはっきり乗っている。
「朝比奈」
後ろから、静かな声がした。
レナだった。
いつの間にか近くに来ていたらしい。手には保健委員のファイル。相変わらず気配が薄い。
「声、少し大きい」
「……っ」
みずきははっとして口を閉じた。
たぶん自分でも、周囲の視線が集まり始めていたのに気づいたのだろう。
「悪い」
みずきがぼそっと言う。
レナは首を横に振った。
「怒るのはいいけど、見せる相手は選んだほうがいい」
「別に怒ってないし」
「怒ってるわよ」
レナが平然と言った。
みずきが言葉に詰まる。
「あと、白井くんも」
「え、俺も?」
「“俺に聞くな”はたぶん一番よくない」
「なんで」
「当事者だから」
正論だった。
最近、正論で殴られる機会が多すぎる。
レナは俺とみずきを交互に見て、静かに続けた。
「聞かれて困るなら、困るってちゃんと言ったほうがいい。曖昧にすると相手は余計に考えるから」
みずきが少しだけ目を逸らす。
まさに“余計に考えている側”なのだろう。
俺は頭をかいた。
「……困ってるよ、正直」
そう言うと、みずきがぴくっと反応した。
「それ、昨日初めて言ってほしかったんだけど」
「昨日は昨日でいっぱいいっぱいだった」
「今もそうでしょ」
「まあ」
否定はできない。
レナは小さくため息をついた。
「ほんとに、みんな感情の扱いが下手ね」
「自分は違うみたいに言うな」
みずきが言う。
「私は少なくとも、教室の真ん中で爆発はしない」
「う」
みずきが詰まる。
そこへ、聞き慣れた声が割り込んだ。
「それは私もちょっと同意」
つばさだった。
おまえはどこにでもいるな。
「なに、集合してるの?」
「してない」
俺とみずきの声が揃った。
「息ぴったりじゃん」
「うるさい」
「はいはい」
つばさは手をひらひらさせたあと、少しだけ真面目な顔でみずきを見た。
「でも朝比奈さんの言いたいことは分かるよ」
「……藤宮さんに分かられたくないんだけど」
「ひどいなあ」
「事実でしょ」
つばさは肩をすくめる。
「いや、でもほんとにさ。白井くんって“優しい男子”っていうより、“困ってるときだけ急に距離感バグる男子”なんだよね」
「バグるって言うな」
「でも的確でしょ?」
悔しいが的確だった。
的確すぎて腹が立つ。
「だから、相手のほうだけ勝手に心が動く」
つばさの声は軽いのに、中身は妙に重かった。
「しかも本人は“え、何で?”って顔する」
「するな」
「してる」
「してるわね」
レナまで乗るな。
みずきは腕を組んだまま、少しだけ視線を落としていた。
怒っているのは怒っている。でも、それ以上に、何かを認めたくない顔だった。
「……別に」
みずきが言う。
「その一年の子が悪いって言いたいわけじゃない」
「うん」
「真央が、誰にでも同じことしてるのが嫌なだけ」
その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
「誰にでも、って」
「そうでしょ」
「いや、誰にでもってわけじゃ」
「じゃあ何」
みずきが顔を上げる。
「違いあるの?」
その問いに、すぐ答えられなかった。
あるのか、ないのか。
考えたことがなかった。
ことりのとき。
みずきのとき。
レナのとき。
ひよりのとき。
たしかに全部“困ってたから助けた”ではある。
でも、その中に差がないかと聞かれると、自信がない。
黙った俺を見て、つばさが小さく「うわ」と言った。
「その沈黙はよくない」
「うるさい」
「いや、ほんとに」
つばさが言ったときだった。
「……私だけが知ってる白井くん、だと思ってたのに」
小さな声がした。
全員がそちらを見る。
教室の前方。
ことりが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。たぶん、途中から聞こえていたのだろう。
顔は赤くない。むしろ少し白い。笑ってもいない。
ただ、静かに立っていた。
「ことり」
俺が名前を呼ぶと、ことりは少しだけ目を伏せた。
「……ごめん」
「いや」
「今の、忘れて」
「無理だろ」
思わず言うと、ことりは少しだけ唇を噛んだ。
「だよね」
そのまま、教室の空気が完全に止まる。
つばさが息を呑んだのが分かった。
レナは目を細める。
みずきは何か言いたそうだったが、言葉が出ないらしい。
俺も、すぐには何も言えなかった。
“私だけが知ってる白井くん”。
その言葉は、かなりまっすぐだった。
ことりが自分で思っていた以上に、本音だったのだろう。
「……それ」
ようやくみずきが口を開く。
「どういう意味」
ことりはみずきを見た。
その視線は逃げていない。でも、強くもなかった。
「そのままの意味」
「そのままって」
「最初に、白井くんがどういう人か知れたの、私だったから」
教室の空気がさらに重くなる。
つばさが小さく「わあ……」と漏らした。
頼むから実況するな。
「でも」
ことりは続けた。
「今は、そうじゃなくなってる」
「……」
「それが、ちょっと嫌だった」
“ちょっと”じゃないだろ、とたぶん全員が思った。
でも誰も言わなかった。
ことり自身も、それが“ちょっと”で済む感情じゃないと分かっている顔だった。
みずきはしばらく黙っていた。
怒るのかと思った。噛みつくのかと思った。だが、そうはならなかった。
「……そっか」
それだけだった。
怒ったまま余裕がないみずきと、笑顔のまま余裕がなかったことり。
その二人が、ようやく同じ場所まで来てしまった感じがした。
つばさが、小さく息を吐く。
「これは、もう一回ちゃんと整理したほうがいいね」
「整理って何を」
俺が聞くと、つばさは珍しく真面目な顔で答えた。
「今の全部」
「雑すぎるだろ」
「でも必要でしょ」
レナも小さく頷く。
「放っておくと、もっと拗れる」
「もう十分拗れてるけど」
「まだ序盤よ」
そんな嫌なことを静かに言うな。
ことりは気まずそうに鞄を抱え直した。
みずきは視線を落としたまま、まだ何か考えている。
つばさはたぶん、本気で“このままではまずい”と思っている。
レナは最初からそこまで見えていた顔だ。
俺はようやく理解した。
これ、もう俺だけではどうにもならない。
しかもたぶん、“誰が悪いか”の話でもない。
みんな少しずつ本音が出てきて、そのぶん傷ついているだけだ。
「……で」
俺が言う。
「整理って、何するんだよ」
つばさがにやっと笑った。
「放課後、作戦会議」
嫌な予感しかしなかった。




