第10話 優しいだけの男は、自覚なしで地雷を踏み抜
嫌な予感ほど、だいたい当たる。
旧校舎裏で一年の小日向ひよりと別れたあと、俺はわりと本気でそう思っていた。
相談の内容自体は拍子抜けするくらい平和だった。少なくとも、その場で何かが爆発したわけではない。
問題は、その場面を誰かに見られていた気配が濃厚だということだ。
しかも今の俺の周囲には、見られて面倒になる相手が複数いる。
七瀬ことり。
朝比奈みずき。
藤宮つばさ。
ついでに、榊レナまで含めると四人だ。
終わっている。
何も終わっていないのに、俺の平穏だけが終わっている。
旧校舎裏から戻る途中、俺は何度か後ろを振り返ったが、誰の姿も見つからなかった。
それが余計に嫌だった。いたならいたでまだ分かりやすい。見えないまま“見られたかもしれない”だけが残るのが、いちばん精神に悪い。
「……最悪だ」
小さく呟きながら、教室へ戻る。
放課後の教室には、まだ数人残っていた。
部活前にだらだらしている男子、提出物をまとめている女子、そして。
窓際で帰り支度をしている七瀬ことり。
その近くで、スマホをいじっているふりをしながら完全にこっちを見ている藤宮つばさ。
後ろの席で鞄を持ったまま、今から帰るのか残るのかよく分からない顔をしている朝比奈みずき。
うん。
これは何かあった顔だ。
俺が教室に入った瞬間、三人の空気がわずかに揺れたのが分かった。
「おかえりー」
一番最初に口を開いたのは、案の定つばさだった。
「ただいまって言う場面か?」
「だってちょっとしたイベント帰りみたいな顔してるし」
「どんな顔だよ」
「火種を増やしてきた男子の顔」
具体的すぎるんだよ。
つばさは椅子の背にもたれながら、にこにこと聞いてくる。
「で? 誰だったの」
「何が」
「差出人不明の相談ちゃん」
相談ちゃんってなんだ。
だが、そこを突っ込んでも話が進むだけなので、俺はとりあえず鞄を机に置いた。
「一年」
「へえ」
つばさの目がきらっとする。
その横で、ことりの指先が鞄の持ち手を少し強く握るのが見えた。みずきは露骨に眉を寄せる。
「女子?」
つばさが楽しそうに続ける。
「……そう」
「やっぱり」
「やっぱりって何だよ」
「いやあ、白井くんって、最近そういう流れ強いなって」
「俺の意思じゃない」
「でも行ったんでしょ?」
「行った」
「しかも女子だった」
「だった」
「それはもう火種なんよ」
本人がいちばん分かってる。
つばさがさらに何か言おうとしたとき、ことりが小さく声を挟んだ。
「……何の相談だったの?」
その声は、できるだけ普通に聞こうとしているのが分かる声だった。
だからこそ、少しだけ切実だった。
俺はことりを見る。
ことりは視線をそらさない。でも、どこか少しだけ不安そうだった。
「前に、保健室の前で助けたことがある子で」
「助けた」
つばさが繰り返す。
やめろ。その単語をそんな面白そうに拾うな。
「その子が、また何かあったら相談してもいいかって」
「へえー」
「だから何だその“へえー”は」
「いや、ほんとに白井くんって、そっち系のイベント引くね」
「引きたくて引いてるわけじゃない」
つばさはくすくす笑う。
一方、ことりは少しだけ表情をやわらげていた。
完全に安心したわけではない。でも、“もっと別の何か”ではなかったと分かって、少しだけ力が抜けたように見えた。
みずきはそうでもなかった。
「……それで」
後ろから、低い声がする。
「相談してもいいですか、って言われて、なんて答えたの」
「別に、内容によるって」
「断らなかったんだ」
「いや、相談くらいなら――」
「それだよ」
みずきが言う。
「それが問題なの」
俺は振り返った。
みずきは椅子の背に手をかけたまま、真っすぐこっちを見ている。
怒っている、というより、呆れている顔だった。
「真央ってさ、困ってる子見るとすぐ“相談くらいなら”って言うよね」
「だめなのか」
「だめっていうか、軽いの」
「軽く言ったつもりはない」
「言い方の問題じゃなくて」
みずきは少しだけ声を強めた。
「その“助けてもいいよ”みたいな距離感が、周りにはどう見えるかって話」
つばさが「おお」と小さく言う。
レフェリーみたいな顔をするな。
俺は頭をかいた。
「でも、実際困ってるなら」
「だからそういうとこ!」
みずきが言い切った。
教室に残っていた数人が、ちらっとこちらを見る。
まずい、と思ったときには遅い。
みずきもそれに気づいたらしく、すぐに口をつぐんだ。
でも感情は止まっていない。
「……はあ」
小さく息を吐いて、顔をそらす。
「ごめん。今のは大きかった」
「いや」
気まずい沈黙が落ちた。
そのとき、ことりが少しだけ前に出た。
「朝比奈さん」
「なに」
「それ、ちょっと分かる」
今度は、みずきがことりを見る番だった。
つばさが目を輝かせる。
頼むからそういうときだけ生き生きするな。
「白井くんって、たぶん自分では普通にしてるつもりなんだよね」
ことりが言う。
「でも、される側は普通じゃないことあると思う」
完全に図星だった。
そして、その言葉はみずきにも刺さったらしい。
「……でしょ」
みずきが少しだけ勢いを失った声で言う。
「なんか、変に自然なの」
「分かる」
「え、分かるんだ」
つばさが楽しそうに割り込む。
「いや、分かるでしょ普通に」
「えー、私も分かるけどさ」
「じゃあ黙ってて」
ことりが少しだけ低い声で言う。
つばさが一瞬だけ目を丸くしたあと、「はいはい」と笑った。
教室の空気が、妙な方向にまとまり始めていた。
何だこれ。俺だけが議題の会議か?
「……俺の悪口大会?」
思わず言うと、ことりが慌てて首を振った。
「違うよ」
「違わないでしょ」
みずきが言う。
「少なくとも“自覚持ったほうがいい”会ではある」
「タイトルがひどい」
「でも必要」
「必要なんだ……」
俺は本気で少し落ち込んだ。
つばさが面白そうに笑いながらも、珍しくフォローするように言う。
「まあでも、悪口じゃないよ。むしろ逆」
「逆?」
「白井くん、優しいのは優しいの」
「そうだよ」
ことりが即座に言った。
その即答ぶりに、俺もみずきもつばさも一瞬だけことりを見る。
ことりははっとして、すぐに視線を逸らした。
「あ、いや、その……実際そうだから」
「うん、そう」
みずきも少しだけむっとしながら頷く。
「そこは否定してない」
「否定してないのにこの流れになるのか」
「優しいだけで済むなら苦労しないの」
みずきが言う。
「その優しさで無自覚に人の距離感壊してるから問題なの」
それはかなりひどい言われ方だった。
ひどいが、反論もしづらい。
「壊してはないだろ……」
「壊してるよ」
今度はことりが小さく言った。
俺はそちらを見る。
ことりは少しだけ困ったように笑った。
「少なくとも、私のはちょっと壊れた」
その言い方はずるい。
教室のど真ん中で、そんな静かに爆弾を置くな。
「ことりちゃん、それ今かなり強いよ?」
つばさが言う。
「言ってから気づいた……」
「遅いよ七瀬さん」
みずきが言いながらも、どこか複雑な顔をしている。
たぶん“共感できるのに、共感したくない”のだろう。
俺は頭を抱えたくなった。
何なんだこの会話。
どうして俺がいちばん知らなかった俺の話を、周囲の女子たちが勝手に解説してるんだ。
そのときだった。
「先輩!」
教室の入り口から、やけに明るい声が飛び込んできた。
全員の視線がそちらへ向く。
立っていたのは、小日向ひよりだった。
元気な一年生。
小柄で、明るい茶色の髪が少し跳ねていて、表情の動きが大きい。昨日見たときと同じく、胸の前で鞄を抱えるように持っている。
……そして、空気を読むにはたぶんまだ若い。
「うわ」
また口から出た。
「先輩、やっぱりここにいた!」
ひよりは嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ちょ、待て」
「すみません、昨日ちゃんとお礼言えてなかったなって思って!」
やめろ。
その言い方は誤解の素しかない。
案の定、ことりとみずきとつばさの空気が一斉に変わった。
つばさなんか、声に出さずに“来たー”って顔をしている。最低だな。
「小日向」
俺はできるだけ冷静に言う。
「昨日のことならもういいから」
「でも!」
ひよりはそこで、教室の空気をようやく感じ取ったらしい。
ぴたりと足を止めて、ことりたちを見る。
「……あれ」
遅い。
「もしかして、お話中でした?」
「そう見えるなら入ってくるなよ」
「えへへ……」
えへへ、じゃない。
ことりが小さく言う。
「この子が、昨日の……?」
「……そう」
すると、ひよりがぱっとことりを見る。
「えっ、先輩のお知り合いですか!?」
「同じクラスの七瀬」
「七瀬先輩!」
ひよりがやたら元気よく頭を下げる。
ことりは少し戸惑いながらも「こんにちは」と返した。
「あとこっちは朝比奈。藤宮」
「こんにちは!」
ひよりはまたぺこりと頭を下げる。
みずきは微妙な顔、つばさは面白そうな顔。
反応が極端すぎる。
「えっと、昨日は本当にありがとうございました!」
ひよりが俺に向かって言う。
「先輩、わたしがすごく恥ずかしい感じになってたのに、全然笑わないで助けてくれて」
「その説明いる?」
「いると思って」
「いらない」
「でも大事なとこですし!」
声が明るい。
明るすぎる。
ことりが少しだけ目を伏せた。
みずきは露骨にため息をつく。
つばさだけが“ああ、白井くん終わったな”みたいな顔で笑っている。
「それでですね」
ひよりはさらに続けた。
「わたし、先輩のことかなり好きかもしれません!」
場が凍った。
文字通り、凍った。
教室の空気って、こんなにはっきり止まるんだな、と変なところで感心したくらいだった。
「……は?」
最初に声を出したのは、みずきだった。
「え?」
ひよりはきょとんとしている。
あ、だめだ。
この子、本気で自分が何を言ったのか分かってない。
「いや、待て」
俺は慌てて口を挟む。
「“好き”ってそういう意味じゃ」
「えっ」
「そこ“えっ”ってなるの!?」
つばさがついに吹き出した。
「おもしろすぎるでしょ」
「おまえは黙れ!」
「無理!」
みずきは腕を組んだまま、信じられないものを見る顔をしている。
ことりは声も出ないのか、ただ固まっている。
ひよりだけが「あれ?」という顔で俺と周囲を交互に見ていた。
「え、わたし変なこと言いました?」
「言ったよ!」
今度は俺とみずきの声が揃った。
ひよりは肩をびくっとさせる。
「え、えぇっ!? でも、好きって好きですよ! 頼りになるし、優しいし、かっこいいし……」
「待て待て待て」
「全部口に出すな」
「でも本当ですし!」
だめだ。
止まらない。
この一年、素直すぎてブレーキがない。
ことりがそこで、ようやく小さく声を出した。
「……かっこいいんだ」
「えっ、はい!」
ひよりが無邪気に頷く。
「だって、困ってる子にすぐ気づいて、何も言わないで助けてくれるんですよ?」
その言葉が、ことりに刺さり、みずきにも刺さり、ついでに俺にも刺さったのが分かった。
つばさだけが「はいはいはい」と楽しそうに頷いている。
「いやあ、分かりやすいねえ」
「藤宮さん」
ことりが低く言う。
「今はほんとに黙って」
「はい」
珍しくつばさが素直に黙った。
それだけ、ことりの声が本気だったのだろう。
ひよりはようやく空気のまずさを察したらしく、少しおろおろし始めた。
「え、あの、もしかして、わたし何かまずいことを……」
「かなり」
みずきが即答する。
「朝比奈さん」
俺が止めようとすると、みずきは「なによ」と睨んできた。
「何でもない」
「何でもないなら話しかけないで」
ひどい。
教室の隅で、残っていた男子たちが“何だ何だ”という顔でこちらを見ているのも分かった。
まずい。このままだと本格的に噂の燃料になる。
「……小日向」
俺はできるだけ静かに言った。
「とりあえず今日はもう帰れ」
「えっ」
「話はまた今度」
「でも!」
「今じゃない」
少しだけ強く言うと、ひよりはびくっとして、それからしゅんと肩を落とした。
「……はい」
その反応に罪悪感はあった。
でも今ここで続けさせるのは無理だ。被害が広がる。
ひよりはぺこりと頭を下げた。
「すみませんでした……」
それだけ言って、ぱたぱたと教室を出ていく。
嵐みたいだった。
完全な沈黙が残る。
つばさが、信じられないものを見たみたいな顔で俺を見る。
「白井くん」
「何だよ」
「今のはさすがに、ちょっと同情する」
「おまえが同情するレベルなんだな」
「うん。だいぶおもしろ――いや、たいへん」
「言い直しが遅い」
みずきは片手で顔を覆い、ことりは静かに目を伏せたままだ。
レナはいつの間にか教室の入り口近くにいて、全部見ていたらしい。何も言わないが、少しだけ深いため息をついていた。
俺は自分の机に手をついた。
優しいだけの男は、自覚なしに地雷を踏み抜く。
さっきまで、みんなで散々そう言っていた。
そして今、俺はそれを否定できない立場にいる。
いや、踏み抜いたのは俺じゃなくてひよりだろ、という気持ちはある。
だが、そもそもの入り口を作ったのが俺の“いつものやつ”なのだとしたら、結局同じことだ。
最悪だった。
ほんとに、最悪だった。
そしてたぶん、これはまだ序章だ。




