第1話 放課後、好きな子の秘密を知ってしまった
四月の空気は、いつも少しだけ嘘っぽい。
新しい教室。新しいクラス。新しい席順。新しい人間関係。
窓から入り込む春の風まで、何もかもが「ここからちゃんと始めろ」と言ってくる気がして、正直ちょっと息苦しい。
だから俺――白井真央は、入学してまだ数日だというのに、すでにこの教室の“空気の住み分け”みたいなものをなんとなく理解していた。
前の方には、まじめで手堅い連中。
後ろの方には、声がでかくてノリのいい連中。
真ん中あたりには、どこにも偏りきらない普通の連中。
そして、そのどこにいても中心になれるやつが、たまにいる。
七瀬ことりは、その“たまにいるやつ”だった。
目立つ美人、というより、見ていると勝手に目が行くタイプ。
誰かと話しているときの笑い方がやわらかくて、先生に当てられたときの返事も感じがいい。押しつけがましくないのに、自然と人が寄っていく。
たぶん、こういう子を“人気者”って言うんだろう。
もっとも、俺みたいな人間にはあまり関係がない。
話すきっかけもなければ、同じグループでもない。視界に入ることはあっても、会話することはほとんどない。せいぜい、提出物を回すときに「はい」と「ありがとう」があるかないかだ。
だからその日の放課後も、俺はいつも通り、自分には関係ない世界だと思っていた。
「やっば、ノート忘れた」
駅まで歩いて五分ほどの坂道に差しかかったところで、俺は思わず立ち止まった。
英語のノートがない。
鞄の中をひっくり返す勢いで探してもない。今日の最後の授業で机の中に突っ込んだままにした記憶が、じわじわ蘇ってくる。
「……最悪だ」
明日の朝でもよかったが、提出がある。
取りに戻るしかない。
春の夕方は、空が明るいくせに気分だけは妙に終わった感じがする。俺は肩を落としながら校門をくぐり直し、ほとんど人気のなくなった校舎へ向かった。
廊下は静かだった。
部活に向かう声や吹奏楽の音が遠くから聞こえてくるせいで、余計に教室棟の静けさが目立つ。
二年A組。
自分の教室の前まで来て、俺は何も考えずに扉を開けた。
――その瞬間だった。
「っ……」
小さな、息を呑むような音がした。
教室の中に、誰かいる。
西日が差し込む窓際。
そこに立っていたのは、七瀬ことりだった。
最初に目が合った。
次に、その表情を見た。
そして三秒ほど遅れて、俺は“何かがおかしい”ことに気づいた。
彼女は鞄を胸の前で抱えるようにして、ほとんど動けなくなっていた。
いつものきちんとした姿じゃない。肩が強ばっていて、顔が白い。唇もわずかに震えている。
「……七瀬?」
声をかけた瞬間、彼女の目が揺れた。
「し、白井くん……」
その声は、ひどく弱かった。
いつもの彼女なら、こんなふうに人の名前を呼ばない気がした。もっと普通に、もっと自然に話すはずだ。
「どうした」
「……来ないで」
ぴたりと足が止まる。
強い言い方じゃなかった。むしろ、お願いに近かった。
来ないで。見ないで。気づかないで。そんな言葉が、たった一言の中に全部詰まっていた。
俺は訳が分からないまま、扉の近くで固まった。
そのとき、床に視線が落ちた。
教室の白っぽい床に、小さな水の跡が残っている。
机と椅子の間から、窓際の彼女の足元へ続く、ほんのわずかな痕跡。
そこでようやく、俺は理解した。
理解した瞬間、たぶん俺の顔も相当ひどいことになっていたと思う。
「あ……」
言葉が出なかった。
見てはいけないものを見た、というより。
見なかったことにしてやりたいのに、そうもいかないものを見てしまった感じだった。
七瀬は、今にも泣きそうな顔で下を向いた。
「ごめん、なさい……」
謝るようなことじゃない、なんて、すぐには言えなかった。
たぶん俺自身が動揺していた。こういうとき、何を言うのが正解なのか分からない。気の利いたことなんて何も思いつかない。
ただ、彼女が泣きそうなことだけは分かった。
「……誰か、来るかもしれない」
口から出たのは、それだった。
七瀬がゆっくり顔を上げる。
「え……」
「とりあえず、そこにいたらまずい」
自分でも、ずいぶん冷静な声が出たと思う。
いや、冷静なふりをしただけかもしれない。変に優しいことを言うより、今は現実的なことを言ったほうがいい気がしたのだ。
「保健室……いや、まだ先生いるか。だったら……」
頭の中で、校内の人目につかない場所を必死に探す。
非常階段の踊り場。旧校舎裏。職員室前は論外。中庭もだめ。
そこで俺は、自分のブレザーの前ボタンに手をかけた。
「白井くん?」
「これ」
脱いだ上着を、彼女のほうへ差し出す。
「腰に巻いとけ。とりあえず、見えないように」
七瀬は、一瞬、ぽかんとした。
たぶん俺も似たような顔をしていたと思う。こんなの正解かどうか分からない。でも、何もしないよりはましだ。
「……いいの?」
「いいから。早く」
「でも、白井くんが……」
「俺のことはいい。男子は多少変でも誰も気にしない」
本当はちょっと気にする。春先の夕方にワイシャツ一枚は普通に寒い。
でもそれより、彼女がここで立ち尽くしているほうがよっぽどまずかった。
七瀬は震える手で上着を受け取った。
それを腰に巻こうとして、うまくいかない。焦っているせいで指先が言うことを聞かないらしい。
「……貸せ」
「えっ」
「結ぶだけ。変なことしない」
自分で言って、自分で少し傷ついた。変なことしないってなんだ。俺は普段どんな目で見られてるんだ。いや、今はそこじゃない。
七瀬の許可を待ってから、俺は少し距離を詰めた。
彼女の手から上着の袖を受け取り、視線を外し気味にして腰の前で結ぶ。できるだけ見ない。見ないようにする。人間、見ないと決めると逆にいろいろ意識するから困る。
「……これで大丈夫」
「……うん」
七瀬の声が、さっきより少しだけ戻っていた。
教室の外を誰かが通る音がして、彼女の肩がびくりと震えた。
それだけで、俺の中の迷いが消えた。
「行こう」
「ど、どこに?」
「とりあえず、人が来ないとこ」
「でも、歩いたら……」
「大丈夫。俺が前歩くから、後ろ気にしなくていい」
それはたぶん、うまい言い方じゃなかった。
でも七瀬は、なぜかそこで少しだけ目を見開いて、それから小さくうなずいた。
「……うん」
俺は教室の外を確認し、廊下に誰もいないのを見てから先に出た。
七瀬がその後ろをついてくる。足音は小さく、今にも止まりそうだった。
途中で数人の生徒とすれ違ったが、俺が少し立ち位置をずらすだけで、七瀬はうまく影に入った。こんなときに妙な気づかいスキルを発揮している自分が、少しおかしかった。
結局、連れて行ったのは校舎の端にある非常階段の踊り場だった。
ここなら人が来ることは少ないし、風も通る。何より、教室みたいに誰かが急に入ってくることがない。
七瀬は壁にもたれるようにして、ようやく大きく息を吐いた。
「……っ、はぁ……」
「少しは落ち着いたか」
「……うん。ごめん」
「だから、謝るのやめろって」
反射でそう言ったあと、俺は少しだけ後悔した。
強く言いすぎたかもしれない。
でも七瀬は怒るでもなく、ただ困ったように笑った。
「だって、迷惑かけたし……」
「迷惑っていうか、びっくりはした」
「うぅ……」
「あ、いや」
「正直すぎるよ……」
七瀬が顔を伏せる。
その反応で、ようやく少しだけ“いつもの会話”っぽくなった気がした。
「でも」
俺は言葉を探した。
「笑う気はない」
七瀬がゆっくり顔を上げる。
「……え?」
「こういうの、たぶん本人が一番きついだろ」
うまく言えない。
俺は気の利く人間じゃないし、優しい台詞のテンプレートなんて持っていない。ただ、ここで変に気を遣ったふりをするのは違うと思った。
「俺、困ってる人を笑えるほど器用じゃないし」
沈黙が落ちた。
風が吹いて、非常階段の金属が小さく鳴る。
遠くで運動部のかけ声が聞こえる。春の夕方の、ひどく普通の音ばかりだった。
なのに七瀬は、まるで初めて聞く外国語でも聞いたみたいな顔で俺を見ていた。
「……なんで」
「ん?」
「なんで、そんなふうに……普通にしてくれるの?」
「普通にって」
「だって、普通こういうの、もっと気まずくなるでしょ……」
それは、たしかにそうだ。
というか今も十分気まずい。俺だって内心はかなりバタバタしている。クラスの人気者の、しかも女の子の、しかも誰にも見られたくない失敗に遭遇してしまったのだ。平然としていられるわけがない。
でも、そこで俺が気まずそうにしたら、彼女はもっと追い詰められる。
「普通じゃないのは、まあ、そうかもな」
俺が言うと、七瀬は少しだけ目を丸くした。
「ただ、七瀬が困ってるのは分かったから」
「……」
「だったら、先にそっちだろ」
七瀬の喉が、小さく動いた。
それから彼女は、泣きそうなまま、でも少しだけ笑った。
「そういうの、ずるい」
「なんでだよ」
「そんなふうに言われたら、余計に恥ずかしい」
「いや、そこはすまん」
思わずそう返すと、七瀬はほんの少しだけ吹き出した。
ちゃんと笑ったわけじゃない。けれど、あの教室で見た泣きそうな顔より、ずっとましだった。
「……ありがとう」
「うん」
「あと、ほんとに……誰にも」
「言わない」
即答すると、彼女はまた少し驚いたように目を見開いた。
「そんなに早く答える?」
「そこ迷ったらだめだろ」
「それもそうだけど……」
七瀬は、上着の裾をぎゅっと握る。
俺のブレザーは彼女の腰に巻かれたままで、少しだけサイズが大きく見えた。
「今日のこと」
「うん」
「絶対に、二人だけにして」
その言い方が、妙に胸に残った。
二人だけ。
秘密を共有した、みたいな響きがあったからかもしれない。いや、実際その通りなんだけど。
「分かった」
そう答えると、七瀬はようやく安心したように息を吐いた。
そのあと、保健室の前を避けながら、俺たちは裏門に近いトイレへ回り、彼女が落ち着くまで少し待った。
幸い、予備のジャージを借りられる場所を彼女自身が知っていて、最悪の事態にはならなかった。
問題が完全に解決した頃には、空はすっかり茜色になっていた。
校門の近くまで来たところで、七瀬が立ち止まる。
「あの」
「ん?」
「上着……洗って返す」
「別にそのままでいいけど」
「だめ。絶対ちゃんと返したい」
妙に強い口調だった。
たぶん、借りたものを返すというより、今日の出来事をそれで少しでも整えたかったんだろう。
「じゃあ、好きにしてくれ」
「うん」
七瀬は一歩だけ俺に近づいて、それから小さな声で言った。
「白井くん」
「何」
「今日のこと、忘れないで」
「……忘れろって話じゃなかったか?」
「そうだけど、そうじゃなくて」
彼女は困ったように視線をさまよわせたあと、少しだけ笑った。
「助けてくれたことのほう」
その顔は、教室で見た泣きそうな顔と同じ人には見えないくらい、やわらかかった。
「……分かった」
「うん」
それだけ言って、七瀬は先に歩き出した。
春の風が吹いて、彼女の髪が揺れる。何事もなかったみたいな背中に見えたけれど、きっとそうじゃない。
俺はしばらくその場に立ったまま、なんとなく自分の胸元を見下ろした。
ブレザーがないせいで妙に心もとない。ワイシャツ一枚の夕方は、想像以上に寒い。
「……ノート」
そういえば、とっくに取りに戻った理由を忘れていた。
教室に置きっぱなしの英語ノートを思い出し、俺はひとりで頭を抱えた。
「何やってんだ、俺……」
でも、その情けない独り言のあとで、さっきの七瀬の顔が不意に浮かんだ。
助けてくれたことのほう、忘れないで。
そんなことを言われたら、たぶんもう無理だ。
こうして俺は、放課後の教室で、好きな子の秘密を知ってしまった。
そして、その日から。
たぶん俺の“普通”は、少しずつ音を立てて崩れ始めていたのだと思う。




