第九話 大田区の銭湯
大田区の路地裏に佇むその銭湯は、年季の入った煙突を誇らしげに空へ突き立てていた。看板娘を務める二代目の、店主の母親(大女将)が慰安旅行で留守にしている。そこの常連客である叔父がその穴を埋めるべく、軽い電話一本でアサコの仕事を決めてしまった。
アサコはいつもの白いTシャツにジーンズを膝まで巻き、その上に撥水性のある藍色のエプロンをきつく締め、手首のゴムで黒髪のボブを後ろに束ねた。長身に映える地味な装いながら、透き通るような白い肌が、薄暗い脱衣所のなかで静かに光を放っている。
仕事内容は、男女の風呂場と休憩所の清掃、そして脱衣所の備品補充だ。アサコはまず、釜場の様子を覗いた。そこでは穏やかな面持ちの店主が、自慢の「金色湯」を薪で沸かしていた。円形の重厚な窯口からは、紅蓮の炎が舌を伸ばし、薪が爆ぜる乾いた音が響いている。店主は厚手のグローブを嵌めた手で、慎重に薪の位置を整え、火の機嫌を窺っていた。揺らめく火影が店主の眼鏡を赤く染め、ボイラー室特有の熱気と微かな煙の匂いが、アサコの鼻孔をくすぐった。
浴室へ向かうと、そこには朝の光が差し込む静謐な空間が広がっていた。白いタイルが整然と並ぶ壁には、大きな窓から淡い光が落ちている。浴室の中央には六角形や三角形を組み合わせたような不思議な形の浴槽が鎮座し、その縁を縁取る木目調のデザインが温かみを添えていた。洗い場には紫や黄色の鮮やかなボトルが規則正しく並び、鏡の銀色とタイルの白が、無人の空間で清潔な光を反射させていた。
アサコがモップを手に取り、タイルの一枚一枚を磨き上げていたその時、脱衣所の陰から低い視線を感じた。振り返ると、そこにはパジャマ姿の男の子が立っていた。
「お姉ちゃん、だれ?」
少年が不思議そうに首を傾げる。アサコは手を止め、静かに答えた。
「今日だけ、お手伝い」
「ふ~ん……ぼく、ここ、入っちゃだめ?」
「今はまだ、準備中」
アサコがそう答えると、少年は動きを止め、自分の小さな裸足をじっと見つめて何かを懸命に考えているようだった。数秒の沈黙の後、彼は決心したように顔を上げ、小さく、けれど確かな声で言った。
「おてつだい、してもいい?」
アサコは一瞬手を止めて、真っ直ぐな瞳の少年を見つめた。その眼差しに嘘がないことを確かめると、小さく頷く。
「いいよ」
少年はパッと表情を明るくし、嬉しそうにアサコのもとへ駆け寄ってきた。アサコがモップを滑らせる後ろを、少年は小さな手で一生懸命に追いかける。アサコが鏡を磨けば、少年は低い位置の蛇口をなぞり、アサコが桶を重ねれば、少年は椅子を等間隔に並べようと背を丸めた。
「お母さん、いつもこの時間、ここを掃除してたんだ」
「うん」
「だから……きょう、はやく目がさめて、もしかしたらって、おもって」
「……」
少年の瞳は、蛇口の湯気の向こうに誰かの姿を探しているように見えた。
「あっ、ちょっとまってて」
少年がふと思い出したように脱衣所へ駆け出し、一枚の小さな紙切れを握りしめて戻ってきた。それは、母親と一緒に書いたメモだった。
おふろをピカピカにする。
おきゃくさんをえがおでむかえる。
あさのごはんはのこさずたべる。
かおあらってわらう
鉛筆で書かれた幼い字の横に、丸印が並んでいる。最後の一行だけ、まだ丸がついていない。
「お母さん、もういないんだ。病院で、しんじゃったから。でも、ここを掃除してたら、もしかしたら、また会えるかなって……」
少年の唇が、わずかに震えている。アサコは何も言わず、腰に下げていた雑巾を少年の手に握らせた。少年は、母親のいた時間を手繰り寄せるように、タイルの縁を何度も磨き始めた。
作業が終わり、開店の準備が整う頃、店主が釜場から顔を出した。
「海、お前……手伝ってたのか」
「うん。お姉ちゃんといっしょに、ピカピカにしたよ」
店主は優しく海を抱き寄せた。店主はアサコに向かって、深々と頭を下げた。
「助かりました。海も、あなたと一緒にいられて嬉しかったようです。……よろしければ、二階で朝食を一緒にどうです?」
「お姉ちゃん、いっしょに食べよう!」
海の無邪気な誘いに、アサコは断る言葉を見つけられなかった。
二階の食事処は、使い込まれた畳の匂いが漂う空間だった。
「お酒、飲むんでしょう? 叔父さんに聞いてますよ」
アサコは一瞬だけ動きを止め、ゆっくりと店主へ顔を向けた。単なる日雇いの清掃員として派遣されたはずなのに、なぜ自分の個人的なアルコール事情まで伝達されているのか。あの自由奔放な叔父は、一体姪の情報をどこまで勝手に吹き込んでいるのか──。
アサコの胸の奥で、静かな呆れと疑念が渦を巻いた。だが、店主が冷蔵庫から取り出したのは、赤と銀のダイヤカットが眩しい、ウメ味の缶チューハイだった。隣に座る海のグラスにはすでに瓶のラムネが注がれており、底からシュワシュワと立ち昇る気泡を、少年は宝物でも見つけたかのように目を輝かせて見つめている。アサコは一切の感情を表情に出すことなく、内心の戸惑いを押し殺して、差し出された缶を黙って受け取った。
「いただきます」
プルタブを引き抜くと、シュワッと弾ける音とともに、梅特有の甘酸っぱさが広がる。炭酸が掃除で強張った喉を爽やかに通り抜けていく。アサコは壁に貼られた品書きから、一つの名前を見つけた。
「みそ田楽、ありますか」
「みそ田楽ですか? ええ、ちょっと待っててください」
子供の頃、よく食べた記憶がふいに蘇った。自分も好きだったが、これなら隣でラムネを飲む海も一緒に食べられるだろう。そんな考えを言葉にはせず、運ばれてきた四本のこんにゃくを、アサコは海と分け合って食べた。濃厚な赤味噌のタレと、こんにゃくのぷりっとした弾力。からしの刺激が、チューハイの酸味によく合った。
「はい、これ。うちの定番なんですよ」
店主が最後に持ってきたのは、オムライスだった。卵が見えないほどたっぷりと真っ赤なケチャップがかけられた、少し不格好な一皿。アサコがスプーンを入れようとすると、海がじっとそれを見つめている。
「ひと口、食べる?」
アサコがスプーンで少しだけオムライスをすくい、海の口元へ運ぶ。「お前のは今作ってるから」と店主が苦笑いしたが、海は嬉しそうにそれを頬張った。
「おいしい。お母さんのオムライスもおいしかったけど、お父さんのつくるオムライスもおいしい」
海が満面の笑みで言う。店主は少しだけ潤んだ目で、でも、誇らしげに笑った。
「亡くなった妻の味を、必死に真似してるんですけどね。最初は、本当に大変でした。でも、この子が母親のいない寂しさを我慢して、こうして明るく頑張っている姿を見ると、私も……ね、」
店主はそこで、深い一呼吸を置いた。
「……この子が一番、頑張ってるんだから。負けてられないなって、頑張れるんですよ」
アサコは頷かず、ただ無言で、不格好なオムライスを大切に口へ運んだ。不格好な卵の隙間に、家族の時間がぎっしりと詰まっているような味がした。
「お姉ちゃん、また来てくれる?」
帰り際、海が真っ直ぐな瞳でアサコを見上げた。アサコは少しだけ足を止め、彼と同じ目線に腰を落とした。
海の頬には、掃除のときについた黒い煤がひと筋、かすかに残っていた。アサコは持っていたタオルの端で、その汚れをそっと拭い取った。
『かおあらってわらう』
メモの最後の一行が、アサコの脳裏をよぎる。アサコは、自分でも驚くほど温かな声で言った。
「来るよ。また、お風呂をピカピカにしよう」
そしてアサコは、ほんのわずかに、けれど確かに、目元を和ませて静かに微笑んだ。海は一瞬目を丸くし、それからつられたように、パッと花が咲いたような無邪気な笑顔を見せた。
銭湯を出ると、街は朝の光に満たされていた。ふと、入り口の脇に置かれた古びたプラスチックのプランターが目に留まった。そこには、絡み合う蔓の先に三つの花が咲いていた。力強く、深い色を湛えた大きな青のアサガオ。その隣で、少しだけ輪郭を和ませた中くらいの赤いアサガオ。そして、その二つの花に守られるように、真ん中で小さなアサガオが寄り添うようにして、朝の光を懸命に浴びていた。
アサコはジャンパーを羽織り、駅の方へと歩き出す。背後で、銭湯の暖簾が風に揺れ、子供の走る音が小さく聞こえた。アサコは一度も振り返らなかったが、その足取りは、いつになく軽やかだった。




