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第八話 アサコの自宅

練馬の境界に横たわる園芸専門店は、早朝の光の中で、雨に煙る巨大な植物の迷宮と化していた。始発列車が走り出す頃、広大な温室を覆うガラス屋根を叩く激しい雨音は、重金属の連打となってアサコの鼓膜を震わせる。いつもの白いTシャツに使い込んだジーンズ。その上には、店から支給された糊のきいた真っ白なエプロンを重ねている。黒髪は後ろの低い位置で一つに束ねられており、露出したうなじの白さが、雨の朝の冷ややかな空気感を際立たせていた。実用本位の装いながら、その凛とした佇まいは、瑞々しい緑の中で静謐な光を放っている。


作業は、入荷したばかりの苗が詰まった重いトレイを台車で運び、品種ごとに配置を整え、乾いた鉢に命を吹き込むことだ。長いノズルから放たれる水が、乾いた土に吸い込まれ、土埃の匂いを瑞々しい生命の香りに変えていく。飽和状態に達した湿気と、数千の植物が吐き出す濃密な酸素が肺の奥まで重く沈殿する。巨大なシダ植物の影で、スタッフの男が一人、鏡を見るように濡れた前髪を指先で撥ね上げた。


「アサコちゃん、こんな朝早くからご苦労様。その白いエプロン、君の透き通るような肌によく似合っているけれど、そんなに無愛想だと、せっかくの雨も泣いちゃうよ」

彼はシルクのシャツを素肌にまとい、花を愛でるような手つきで自分の顎に触れる。自意識が服を着て歩いているような、キザで線の細い男は、棚の奥から小さな紙袋を差し出した。激しい雨漏りで袋が濡れ、売り物にならなくなったアサガオの種だ。

「君と同じ名前の、朝に咲く花。僕からの、ちょっとした愛の形かな」

キザな台詞をアサコは雨音の一部として聞き流し、礼の代わりに短く頷いてそれを受け取った。

開店準備が整い、交代の時間が来ても、アサコは慌てることはない。エプロンを丁寧に畳み、髪を束ねたゴムを一度解いて結び直すと、いつもの黒いジャンパーの上から雨の滴るカッパを羽織って静かな足取りで店を後にした。


西武池袋線の車内は、湿った傘の匂いが充満していた。アサコは、読みかけの文庫本に視線を落とす。それは、丁寧な朝食の風景を執拗に描写する小説だった。湯気を立てるおひたし、飴色の出汁が染みた煮物。その一文字ずつを追いながら、アサコは自分もまた、そうした温かな食卓の端に触れてみたいという、漠然とした欲求に包まれていく。


最寄り駅の朝から営業しているスーパーに立ち寄り、アサコは迷いのない足取りで〝和食〟を連想するであろう食材をカゴに放り込んだ。ほうれん草、かぼちゃ、そして見覚えのある調味料。食品加工工場のバイトで、マニュアル通りに野菜を千切る術は知っている。だが、白紙の状態から料理を組み上げるという創造の回路は、アサコの中には存在しなかった。

つまるところ、アサコは料理というものを知らないのだ。


****


たどり着いたのは、「大和荘」という名の昭和の面影を色濃く残す二階建て木造アパートだった。二階の一番奥にあるアサコの部屋は、八畳の居間と小さな台所、ユニットバスだけのシンプルな間取り。古びた壁に囲まれたその部屋は、驚くほど整然としていたが、同時に恐ろしいほどに生活感が欠落していた。

フローリングの上には、無機質なパイプベッドが一つ。その横には、実用本位のシンプルな電気スタンドと、唯一の領土である平積みされた本の〝塔〟が、まるで摩天楼のように幾つもそびえ立っている。鴨居には、真っ白なTシャツが数枚、規則正しい間隔で吊るされている。台所のシンクは、一度も使われたことがないかのように乾ききっていた。小さな冷蔵庫の音だけが、この空洞のような部屋で唯一、時間が動いていることを証明していた。


アサコはまず、小さなベランダへ出た。そこには入居前から放置されていた、土の乾いた古い鉢がある。アサコは水に濡れてふやけた紙袋から、小さく硬い黒い粒を取り出した。人差し指で湿った土を数センチほど押し込み、小さな窪みを作る。そこへ一粒ずつ、祈るでもなく儀式のように種を落としていく。指の腹で土を優しく被せ、上から軽く押さえる。雨が降り続いているのだから、水やりという工程は天に任せていい。


それからアサコは、不慣れな手つきで台所に立った。いつも食品加工工場のラインで、機械的に野菜を捌くアサコにとって、自分の意志で味を決めるという作業は、砂漠で針を探すようなものだった。小説にあった「ほうれん草のおひたし」を再現しようと、まず大きな鍋に湯を沸かした。しかし、どれほどの塩を入れ、どれほどの時間茹でればいいのか。沸騰した湯の中にほうれん草を放り込み、小説の次のページをめくっている間に、瑞々しかった葉は見る影もなく、泥のような深緑の塊へと成り果てた。

続いて「かぼちゃの煮物」だ。包丁を入れるのにも一苦労する硬いかぼちゃを、強引に切り刻んで鍋に放り込む。醤油と砂糖を漠然と振りかけ、蓋をした。しばらくして甘辛い香りが漂い、表面は煮崩れてそれらしい色を帯びたが、竹串を刺すまでもなく、その芯は冷たい石のような硬さを保ったままだった。出来上がったのは、食欲をそそる和食ではなく、名もなき残骸の山だった。アサコはそれを見て、嘆くことも声を上げることもなかった。ただ、料理というものの難しさを雨音と共にじっと受け止めることしかできなかった。

「ピン、ポーン」

その時、濁った雨音の隙間に、硬いチャイムの音が混じった。


扉を開けると、そこには一人の和服を着た妙齢の女性が立っていた。艶のある黒髪を凛とまとめ、雨の湿り気を微塵も感じさせない姿。藍色の生地に白い花の葉が舞う着物に、鮮やかな朱色の帯。女性の透き通るような白い肌を、その色がより一層引き立てている。切れ長で涼やかなその瞳は、アサコ自身の美貌と、どこか同じ種類の冷たさを湛えていた。女性の背後には、土砂降りの雨が銀色のカーテンのように世界を遮断し、アスファルトを白く叩きつけていた。

「アサコさん、ですね?」

「はい。どちら……」

「少し、お邪魔してよろしいかしら」

アサコが返答するより早く、女性は音もなく玄関に足を踏み入れた。有無を言わさぬ、しかし羽毛のように軽い所作で草履を滑り脱ぐと、汚れ一つない真っ白な足袋が上がりかまちへとしなやかに揃えられる。普段のアサコであれば、見ず知らずの他人が強引に境界線を越えようとすれば、一切の言葉を発することなく、無言で即座に扉を閉ざしていただろう。しかし、目の前の女性が纏う圧倒的な静謐さに、なぜか言葉を失い、女性を部屋へと受け入れてしまう。


台所の無惨な光景に視線を留めると、女性はふっと柔らかに微笑んだ。

「わたくしが、お手伝いしていいかしら」

女性は帯の間からスッと白い紐を引き抜いた。迷いのない流れるような手つきで背中にたすきを掛け、藍色の長い袖をきゅっとたくし上げる。ピンと張られた紐が、凛と伸びた背筋をさらに際立たせていた。露わになった細く白い腕が、ためらいなく無惨な台所へと伸ばされる。その手つきは、まるで踊るように軽やかだった。ほうれん草をさっと湯に通し、冷水で締める。その指先が水気を絞るたび、野菜が本来の緑を取り戻していく。かぼちゃは適切な厚さに切り揃えられ、鍋の中で心地よい音を立てて煮込まれていく。アサコはただ、その完璧を超えた所作を、黙って見つめ続けた。女性の立ち居振る舞いが、あまりにもこの部屋に溶け込んでおり、アサコが疑問を挟む余地を完全に奪っていたのだ。


目覚まし時計の針がちょうど十時を指したころ、小さなちゃぶ台の上に料理が並んだ。アサコが安く買い揃えた器。それなのに、盛り付けられた料理はまるで高級割烹の逸品のような品の良さを放っていた。

「さあ、お召し上がりくださいませ」

それから女性はどこからともなく、白地に〝麦〟とだけ筆書きで記されたボトルを取り出し、アサコのグラスに注ぐ。アサコも、並べられた小皿のうちのいくつかを、女性のほうへと促した。

「どうぞ、あなたも」

女性はその誘いに、どこか寂しげな、それでいてどこか清々しい微笑みを返した。

「いいえ、わたくしは、頂けないの」

それがどういう意味なのか、アサコには分からなかった。しかし、もはやこの状況のすべてが日常の枠を越えている。アサコは深く追究することをやめ、差し出されたグラスを手に取った。

トクトクと注がれた透明な液体から、香ばしい麦の香りが立ち上がる。麦焼酎の味は、驚くほど澄んでいた。最初に感じるのは、香ばしく炒り麦を思わせる、素朴で力強い大地の香り。それが喉を通る瞬間、シルクのように滑らかな舌触りへと変わり、アルコールの熱が冷え切った胃の腑をやさしく愛撫する。喉を通る熱が、雨で冷えた体の芯をじわりと溶かしていった。

「どうぞ、お料理もお召し上がりください」

「はい。いただきます」

ほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。先ほどまで泥のような塊だったはずのそれは、瑞々しく鮮やかな緑色を取り戻し、上には細かく削られたかつお節がふわりと乗っている。ひと口運べば、シャキッとした絶妙な歯ごたえと共に、奥深い出汁の旨みが葉脈の隅々からじゅわっと溢れ出した。丁寧にとられた出汁のふくよかな香りが、鼻腔を真っ直ぐに抜けていく。かつお節の風味が麦焼酎の香ばしさと共鳴し、土の匂いを思わせる力強い余韻となって、簡素なはずの料理がこの上ない贅沢へと変わる。

続いて、黄金色に輝くかぼちゃの煮物。綺麗に面取りされた角は一切崩れていないのに、箸を入れれば、抵抗なくホロリと崩れる。

「おいしい」

「フフ……」

思わずこぼれ落ちた感嘆の呟きに、女性は柔らかく口元を綻ばせた。口の中で淡雪のようにとろける食感と、かぼちゃ本来の濃厚な甘み。それが奥ゆかしい醤油の塩気と見事に調和し、すかさず次の一杯を誘った。甘みとアルコールの熱が胃の腑で混ざり合い、アサコの意識は心地よい微睡みのような充足感に包まれていった。


「ごちそうさまでした」

アサコはグラスを置き、目を閉じて手を合わせた。この状況を理解することはできなかったが、料理のおいしさは真実だった。

目を閉じていると、不思議な感覚がアサコを包み込んだ。足の裏から、あるいは身体のずっと深い場所から、冷たく湿った土の中へと、細くしなやかな根が静かに、そして力強く張っていくような感覚。乾ききっていた細胞の隅々にまで、澄んだ水と命の熱が吸い上げられ、自分という存在が大地とひとつに繋がっていくような、深く安らかな静寂だった。


「──こちらこそ、ありがとうございました」


ふいに、鈴の音のように涼やかな声が落ちた。

静寂の水面を揺らすようなその響きに、アサコはフッと我に返る。その言葉の真意を訊ねようと、アサコがゆっくりと目を開いた、その瞬間──。

対面にいたはずの女性の姿は、霧のように消えていた。

残されたのは、綺麗に空になった二つの小皿と、まだ少し麦の気配が残っている空のグラス。そして静まり返った部屋には、どこかで嗅いだことのあるような、朝の露に濡れた花のような淡く甘い匂いが、ほんのりと、けれど確かな名残として漂っていた。


狐につままれたような沈黙の中、アサコは何かを思い立ったようにベランダの窓を開けた。驚いたことに、さっきまでの大雨が嘘のように止んでいた。分厚い雲の隙間から、柔らかな陽光が差し込み、濡れたアスファルトを眩しく反射させている。

ふと、先ほど種を埋めたばかりの鉢に目を落とした。そこには、ありえないはずの速度で成長したアサガオの双葉が、瑞々しく頭を覗かせていた。

それは、まるで「鶴」の恩返しの冗談のような。あるいは、朝を愛した「つる」が、一時の酒に酔うために見せた幻だったのかもしれない。アサコは静かに、芽吹いたばかりの命を指の腹でなぞった。

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