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第七話 赤坂の神社境内にある売店

赤坂の路地を抜けた先にあるその神社は、都会の肺胞のように、古びた緑と沈黙を蓄えていた。数時間後に控えた大きな夏祭りを前に、境内は夜明け前から不穏なほどに澄んだ熱気を帯びている。

アサコは白いTシャツに使い込んだジーンズ、その上に社務所から支給された胸元に神社の名前が白字で刺繍されたグレーのエプロンを締め、竹箒たけぼうきの先で砂利の文様を静かになぞっていた。作業は、祭りの舞台となる本殿の拭き掃除と、境内に迷路のように立ち並ぶお稲荷様の清掃だ。千本鳥居の朱色は朝露に濡れて鮮やかに、その足元に鎮座する無数の狐像は、どこか温かな、あるいは試すような眼差しをアサコに向けている。

アサコは汗をあまりかかない体質だった。どれだけ立ち働いても、透き通るような白い肌は冷えた陶器のように滑らかで、首筋に一筋の湿り気すら浮かない。アサコは無言で狐の耳や背中を拭き上げ、古びた石の質感を掌で慈しむように受け止めていた。


作業終了の合図とともに、スタッフが本殿裏の木陰に集められた。神主は何度も手ぬぐいで額を拭い、困り果てたように眉を下げている。

「いや、参りましたね……。これだけの人出です。授与所を一人で切り盛りするのは、どう考えても手が足りません。急病で一人来られなくなってしまいましてね。この状況で彼女一人に任せるのは、さすがに無茶というものです……」

神主は手元の名簿を見返しながら、すがるような視線をスタッフたちへ向けた。

「ちょっと神主さん、マジで一人じゃ無理だって! こんな人出、秒でパンクしちゃうよ!」

隣では、すでに巫女姿になったバイトの「ナツ」が、派手な身振りで窮状を訴えている。

「午前中の補充が来るまででいいんです。どなたか、ナツさんと一緒に授与所の受付を手伝ってくださる方はいませんか……?」

アサコは神主の言葉を背中で受け流し、無言のまま社務所の方へと一歩を踏み出した。清掃の仕事は終わった。この場所にこれ以上留まる理由は、アサコのなかには一欠片も残っていなかった。

しかし、その歩みを遮るように、すぐ横から弾けるような声が飛んできた。

「え、ちょっと待って! 神主さーん、このお姉さんでいいじゃん! めっちゃ可愛いし、巫女装束ぜーったい似合うから!」

振り返ると、そこには背中の真ん中まである黒髪をセンターで分けた、ストレートヘアの女の子が立っていた。巫女姿ではあるが、その肌は夏の日差しを健康的に吸い込んだような、適度な小麦色に輝いている。

「私、そういうのは」

アサコの拒絶を遮るように、ナツはごく自然にアサコの細い手首を掴んだ。その手のひらは、常に指先の冷たいアサコには驚くほど温かかった。

「いいじゃん、いいじゃん! 助けると思ってさ。祭りのテンションだって。お姉さんのビジュなら、神様も秒で喜ぶって!」

ナツの強引さには不思議とトゲがなく、むしろ抗いようのない熱量に満ちていた。気づけばアサコは、その勢いに押されるまま、本殿裏の狭い更衣室へと導かれていた。


更衣室は古い線香と、乾いた木の匂いがした。渡されたのは、緋色の袴と、糊のきいた真っ白な白衣。

「この格好、したくない」

アサコは静かに、けれど明確に拒絶を口にした。

「そんなこと言わないで! 今日は特別なお祭りなんだから、お姉さんも神様の一部になっちゃいなよ。ほら、絶対似合うからさ!」

ナツはアサコの戸惑いを意に介さず、手際よくエプロンを剥ぎ取り、白衣の袖に腕を通させていく。

「ちょっと」

「動かないで、帯締めるから。ほら、背が高いからめっちゃ映えるじゃん。マジ、国宝級なんだけど」

ナツは屈託なく笑いながら、アサコの腰に手際よく帯を巻き、形を整えていく。

アサコは鏡の中の自分を見た。時代小説の挿絵に出てくる、神域を司る高貴な者のような、ひどく現実味を欠いた美しさを持つ自分の姿がそこにあった。


****


着替えを終えたアサコに、神主が改めて向き合い、仕事の心得を説いた。

「桐箱の中のお守りや絵馬を、参拝客の希望に合わせてお渡ししてください」

「はい」

「いいですか。ここは商店ではありません。お金を『頂戴』するのではなく、お守りを『授与』する。その心持ちでいてください」

神主の厳かな言葉を受け、アサコは静かに深呼吸をした。本日二度目の仕事が、今始まった。竹箒からお守りへと持ち物は変わったが、アサコにとってはこれもまた、粛々とこなすべき「作業」の一つだ。

装束に身を包んだアサコが授与所に現れた瞬間、関係者や早朝の参拝客のあいだに、真空のような静寂が訪れた。

「おおっ……」

誰かが漏らした感嘆の声が、静かに波紋となって広がっていく。白衣の清廉な白と、緋袴ひばかまの鮮烈な赤。丸く束ねた黒髪がうなじの白さを際立たせ、目元と口にうっすらと引かれた淡い紅が、その冷徹な透明感に、儀式めいた危うい色香を添えていた。


切れ長の瞳が神域の空気を鋭く射抜いている。拝殿の奥から重低音の太鼓が響いた。それを合図に、祭りの空気が一段と熱を帯び、境内に漂っていた人々が吸い寄せられるように授与所の前へと歩み寄ってくる。

「……あ、きれい」

最初にカウンターの前に立ったのは、通りがかった母子だった。小さな女の子が、アサコの姿に目を丸くして見上げている。母親もまた、不意に目の前に現れた非現実的な美しさに、一瞬言葉を失ったようだった。

「あの……この、交通安全のお守りをください」

母親が、桐箱の一つを指差した。アサコはまず、自身の指先を整えた。桐箱から丁寧にお守りを取り出し、指先だけで滑らかに扱う。掌の上で一度整えてから、両手を添えて、母親の目の前へ恭しく差し出した。

「ありがとう、ございました」

これまでのどのバイトよりも多くの言葉を発したが、その声は常に低く、必要最小限の温度に保たれていた。隣でナツが「はい、お守り超可愛いよー! ご利益ガチだから!」と賑やかに場を回すのを、アサコはどこか遠い世界の音のように聞き流しながら、指先の秩序だけを執拗に守り続けた。

「あたしのことは〝なっちー〟って呼んでね!」

作業の合間、ナツが小声で囁いた。さらにナツはアサコの視界に身を乗り出さんばかりの勢いで話しかけてくる。

「ねえ、アサコちゃんのこと〝あさまる〟って呼んでいい?」

「いいけど、気づかないと思う」

アサコは目線をまっすぐ前に向けたまま、最小限の言葉を返した。対照的な二人のリズムは、不思議と噛み合っていた。アサコは、自分に向けられる過剰な視線も、遠巻きに光るレンズの反射も、祭りの囃子の一部として意識の外へ弾き飛ばし、淡々と授与所の秩序を守り続けた。


午前十時を回り、日差しが石畳をじりじりと焼き始めた頃、ようやく交代のスタッフが到着した。白衣の下に溜まった熱を逃がすように、アサコは授与所を後にした。

「あさまる~、マジで連絡先……」

更衣室まで追いかけてきて名残惜しそうに食い下がるナツを尻目に、いつもの白いTシャツとジーンズに着替えを終えたアサコは、無言で黒ジャンパーに袖を通した。ナツに向かって、一度だけ片手を小さく上げ、境内を横切った。


****


境内の端、木々に囲まれるようにして建つ茶色のレンガ造りの建物。その一階部分に、いくつかの小さな売店が並んでいた。店の名前が染め抜かれた渋い暖簾がかかり、店先にはだるまや土産物が所狭しと並んでいる。レトロな空気が漂う入口の前で、店先にいた女将さんがアサコの姿を見つけて、柔らかく声をかけてきた。

「お食事どう? 席あいてるよ」

そういえば、朝から何も食べていない。女将さんの言葉に促されるようにして空腹の存在に気がついたアサコは、吸い寄せられるように店の敷居を跨いだ。入口の赤いマットを踏んで中に入ると、外の喧騒が嘘のように遠のく。

店内は、一種の「聖なる雑多さ」に支配されていた。使い込まれた木製のテーブルと椅子の合間を縫うように、売り物の数珠、お札、金色の置物、招き猫といった「ありがたい」と思われる品々が棚や壁に所狭しと飾られている。それらはどれも少しだけ埃を被り、窓から差し込む光の中で古びた祈りの名残を湛えていた。

アサコは壁に貼られた「おでんうどん」の短冊に目を留め、今日は食事だけで済ませようと考えていた。しかし、その時だった。

「おばちゃん、ビール!」

隣のテーブルに腰を下ろした現場帰りのようなオジサンが、威勢よく声を上げた。視線を向けると、商品棚の奥にあるガラス扉の冷蔵庫に、見慣れた銀色の缶が整列しているのが目に入った。その冷ややかな輝きを目にした瞬間、胸の奥で眠っていた渇きが、静かに、けれど確実に目を覚ました。

「ビールをください」

アサコが静かに告げると、エプロン姿のおばちゃんの手がふと止まった。涼やかな顔立ちの娘からの注文に一瞬だけ驚きを見せたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべる。

「はいよ、ビールね」

ほほえましく、そして手際よく、おばちゃんは冷蔵庫から銀色の缶と小ぶりのグラスを運んできた。アサコはプルタブを弾き開け、乾いた音を店内の静寂に響かせる。傾けた缶から、グラスへとトクトクと黄金色の液体を注ぎ入れた。

「いただきます」

アサコはまず、結露で白く曇ったグラスを手に取った。ひと口喉を鳴らせば、芯まで冷え切った炭酸の刺激が、午前中の不慣れな接客で強張った喉を一気に突き抜けていった。鼻に抜けるホップの香りと、鮮烈な苦味。白衣の締め付けから解放された身体の隅々まで、冷たい液体が浸透していく。アサコは静かに目を閉じ、喉を通過する熱い拍動をただ独りで味わった。

続いて運ばれてきたのは、重厚な湯気を立てる「おでんうどん」と、小皿に乗った二つの「いなり寿司」だった。うどんのつゆからは、鰹の香りに混じって、練り物や煮汁が溶け出した甘い香りが立ち上る。透き通ったつゆの海には、おでんの主役たちが所狭しと並んでいた。

アサコは割り箸をパチンと割り、まずは真っ白なうどんをたぐり上げた。少し柔らかめで、つゆをたっぷり吸った麺が喉を優しく撫でていく。

「……おいしい」

吐息のような小さな独り言は、店内の古い冷蔵庫が放つ唸り音と、隣の客が新聞をめくる音に紛れて、誰にも気づかれることなく消えていった。出汁の効いた熱いつゆが、ビールの冷気で冷えた胃に心地よい体温を灯していく。

次におでん種へ。弾力のある三角のこんにゃくを噛み締めれば、表面に刻まれた細かな切れ目から出汁がぴゅっと飛び出し、丸いさつま揚げからは魚の練り物特有の滋味深い油のコクが溢れ出した。小さく結ばれた昆布巻きは、奥歯で解けるたびに、凝縮された磯の香りを鼻腔に運んでくる。

そして、丼の半分を覆い尽くすほどの大きな揚げ。つゆを吸って限界まで膨らんだそれを箸で持ち上げ、端をかじる。クタクタになった揚げの繊維から、熱々のつゆがじゅわっと口の中に溢れ出した。揚げ自身の油の甘みと、吸い込んだ出汁の旨味。アサコはその圧倒的なジューシーさを、静かな、深い呼吸とともに受け止めた。表情を動かす代わりに、咀嚼の速度をわずかに落とし、舌の上で踊る熱をゆっくりと鎮めていく。

丼の最後に残ったのは、つゆの熱を芯まで蓄えた玉子だった。アサコはそれを、まるで壊れ物を扱うように慎重に箸で持ち上げた。おでんの中で最も好むこの一品を、アサコは誰にも邪魔されない儀式のように口へと運ぶ。白身の弾力と、つゆを吸ってしっとりとした黄身の濃厚なコク。好物を最後に味わうという、ひそかな秩序が守られたことに満足し、アサコは最後の一滴までつゆを飲み干した。

丼を片付け、唇を控えめに舐める。わずかな塩気を舌先で回収してから、いなり寿司へと箸を運ぶ。

ずっしりと重い一粒。飴色の皮を噛めば、芯まで染みた甘辛い煮汁がじゅわっと溢れ出した。厚手の皮のコクを、酢飯のさっぱりとした酸味が鮮やかに受け止める。噛み締めるたびに一粒ずつ米が解け、長い年月をかけて辿り着いた、あるべき味のようなものが口に広がっていく。アサコは喉の奥に居座る甘い余韻を、ただ静かに受け止めた。

そこへ、残しておいた少し温くなったビールの苦味を流し込む。濃厚な脂が麦の味わいで一気に洗い流され、口内は再び清涼な静寂へと戻る。甘みと苦味、熱と冷。その完璧な循環を、アサコは茶色のレンガ造りの建物の中で、一滴残らず咀嚼し続けた。


ふと視線を上げると、開け放たれた入口の先に店先の様子が見えた。風に揺れる暖簾の隙間から、竹籠の中に整然と並んだ持ち帰り用のいなり寿司の包みが視界に入る。一包み、自分用に買って帰ろうか。あるいは、先ほどまで丁寧に拭き上げていたあのおいなりさんたちに、お供えでもしようか。どこか空腹を抱えているようにも見えた、あの狐たちの石の眼差しを、霧の向こう側にある記憶のように反芻する。

アサコはグラスに残った最後の一滴までを飲み干し、一息ついてから、静かに席を立った。


食事を終えて外へ出ると、境内は桁違いの群衆で埋め尽くされていた。アサコの巫女姿は、参拝客によってSNSへ放流されていたのだ。


#赤坂 #美人すぎる巫女


パニックに近い騒ぎを避けるように、アサコは神社の裏手の階段を降りた。都会の喧騒が再び周囲を包み込む。遠くで、お囃子の音に紛れて、ナツの叫び声が聞こえたような気がした。


「あさまる〜〜、戻ってきて〜〜〜〜!」


アサコは一度も振り返らず、開け放たれたジャンパーの裾を風に揺らして歩幅を広げた。その時、背後の茂みから、カサリと枯れ葉が鳴る音がした。


──またおいで。


いたずらっぽく、軽快な声が風に乗って耳を掠めた。アサコが振り返ると、そこにはただ一対の、古びた狐の石像が静かに目を細めているだけだった。

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