第六話 中野の台湾料理店
中野駅北口の改札を出ると、圧倒的なまでの色彩と喧騒が、夜の重力に逆らうように膨れ上がっていた。迷路のように入り組んだ路地には、安酒と揚げ物の匂い、行き場を失った熱気が澱みのように溜まっている。
〝綺麗すぎる川では生き物が住みにくいように、綺麗すぎる街では人は住みにくい〟
誰かが言ったそんな言葉を思い出す。整いすぎた無機質な大通りよりも、こうした適度な毒と濁りを孕んだ場所の方が、皮肉にも呼吸の置き場を見つけやすい。アサコは黒いジャンパーの首元を少しだけ手繰り寄せ、視線をわずか数メートル先の路面に固定したまま、雑踏へと足を踏み入れた。
「あそこは禁煙だし、ママの足が悪くて裏方を探してるんだ。接客なしでいいってさ」
叔父のそんな軽い声が耳の奥で再生される。今回も、叔父がどこからか運んできた得体の知れない縁を、アサコはただ淡々と受け入れた。徹底的な清浄さよりも、こうした適度な暗がりを持つ場所の方が、今の自分の歩幅には馴染む気がしたのだ。
「ねえ、お姉さん。いい店あるよ。モデルとか興味ない?」
「ちょっと、一回話だけでも聞かない?」
路地裏の客引きたちが、獲物を探す爬虫類のような視線で次々と声をかけてくる。だが、アサコは彼らの存在を、そこにある看板や街灯と同じ「風景」として処理した。視線を一ミリも動かさず、誘いの言葉が鼓膜に届く前に意識の外へと弾き飛ばす。アサコの纏う静謐な空気は、この街の湿った熱気の中でも決して揺らがなかった。黒服たちの間を縫うように、迷いのない足取りで一直線に路地の奥へと潜り込んでいく。
辿り着いたのは、袋小路の突き当たりに赤いネオンを小さく脈打たせているスナック「灯」だった。外装は、剥げかけた漆喰の壁に、蔦のような装飾鉄枠が絡みついている。木製の重厚な扉の横には、小さな擦りガラスの窓があり、そこから漏れる淡い光が路地の石畳を僅かに照らしていた。アサコが扉を押し開けると、真鍮のカウベルが低く澄んだ音を立てた。店内は、琥珀色の空気が幾層にも積み重なったような、深い静寂に包まれていた。磨き込まれた黒檀のカウンターが一直線に伸び、その向こう側には、深紅のベルベットを張ったスツールが並んでいる。壁一面の棚には、幾多の夜を越えてきたボトルたちが、宝石のように鈍い光を放っていた。
「……あら」
カウンターの奥、止まり木のような椅子に腰掛けた女性が顔を上げた。六十手前のその女性──「ママ」は、しゅっとした細身の体躯を、シックな黒のアンサンブルで包んでいた。きれいに頭の上でまとめられた黒髪は、一本の乱れもなく、蛍光灯の下で艶めいている。若い頃は相当にモテたであろう、凛とした美貌の残照が、その切れ長の瞳の奥に宿っていた。
ママは立ち上がろうとして、僅かに眉根を寄せた。カウンターに両手をついて身体を支える仕草は、叔父が言っていた「足の不調」が深刻であることを物語っていた。
「はじめまして。アサコです」
「アサコ……ああ、あの人の姪っ子さんね。……へえ、あなたみたいな美人が来るとは思わなかったわ」
枯れた、けれど品のある声がアサコを値踏みするように撫でる。
「洗い物とかお掃除をお願いするわ。お酒を作ったり接客はあたしがやるから」
ママはそう言って、ふっと口角を上げた。まるで、アサコの「他人を寄せ付けない気配」を一目で見抜いたかのようだった。アサコは無言で頷き、いつもの白いTシャツにジーンズ、持参した黒いエプロンをきつく締めた。
仕事は、アサコの呼吸に合っていた。洗ったグラスの口縁を布でひと拭きすれば薄く「キュッ」と鳴って指に吸い込まれ、氷をバケツに落せば低い音が一つ響く。
「氷、お願い。次はあそこのウイスキー」
ママの指示はフラットで、アサコの動きもまた、無駄のない影のようだった。時折、常連と思われる男性客がアサコへ無遠慮な声を投げてくる。
「へぇ、こんな綺麗な子が皿洗い? もったいないね。もっと楽に稼げる店、いくらでもあるだろうに」
アサコの喉の奥で「もったいない、とは?」という冷ややかな拒絶を声に出そうとした瞬間、ママの細い指先が、アサコの肩にそっと置かれた。そのわずかな重みが、アサコの尖りかけた意識を静かに押し留める。ママは湿った布巾をカウンターに走らせながら、さらりと割り込んだ。
「あら、やだ。この子は私の大事な助っ人さんよ。あんた、氷が溶けてるじゃない。さあ、次はハイボールでいい?」
ママの流れるような差配で、客の視線はアサコから逸らされ、再び酒へと戻されていく。アサコは何も言わず、ただ手元のグラスを磨く作業に戻った。
客足がまばらになった深夜二時半。扉の鈴が控えめに鳴り、グレーのスーツを端正に着こなした男がひとり入ってきた。男はママに会釈し、アサコに一瞬だけ、探るような、けれど礼儀正しい視線を走らせてから席についた。
「こんばんは。少しだけ寄らせてもらいます」
男はウイスキーをひとつ頼んだ。アサコは新しいグラスを手に取り、布で口縁を磨く。丁寧に氷を選び、ママの前へ差し出す。ママがボトルを傾け、琥珀色の液体を注ぎ入れた。
「その音、いいですね」
男がぽつりと言った。アサコは無反応を装ったが、布の軌道がわずかに滑らかになり、音の伸びが少しだけ長くなる。次に男の前に置く水差しは、彼の利き手に向かってコンマ数ミリの狂いもなく、吸い付くような位置へと最初から置かれた。その微細な配慮に、男が気づいたかのように少しだけ顎を引いたのを、アサコは視界の端で感じていた。
男はグラスを空にすると、長居することなく、端正な所作で会計を済ませて立ち上がった。扉へ向かう際、アサコの横を通る一瞬だけ、声を落とした。
「こんな静けさは、大事ですね」
「──はい」
顔を向けずに答えたアサコの声は、いつになく素直に喉を抜けた。
閉店作業を終え、アサコが帰宅の準備を整えていると、カウンターの奥でママがふう、と深く腰を下ろした。時計の針は朝の七時を回っている。ママの足の状態を気遣い、アサコが隅々まで磨き上げた店内は、朝の光を真っ直ぐに跳ね返し、ただ静まり返っていた。
「お疲れ様。本当に助かったわ」
「お疲れ様でした」
ママは少しの間、無言でアサコの顔を見つめた。その切れ長の瞳の奥には、深い慈しみと、遠い日の自分を重ね合わせるような寂寥感が静かに揺れている。
「……あんたを見てると、なんだか思い出すのよね」
ママは遠い目をして、誰もいない客席を見渡した。
「私、若い頃に旦那を亡くしたの。それからずっと一人でこの店を守ってきた。……独りは自由だけど、たまにこうして誰かの気配があるのも、悪くないわね」
アサコは何も言わず、ただ耳を傾けていた。ママはアサコの方を見つめ、少しだけいたずらっぽく、茶目っ気のある笑みを浮かめる。
「まあ……あたしほど美人じゃないかもしれないけどさ。フフ、あんたも結婚しなよ。独りの人生ってのも、案外大変よ」
アサコはリュックを肩にかけ、扉に手をかけた。
「考えておきます」
ママは口元を緩め、柔らかな眼差しを向けた。
「あんたのこと、気に入っちゃった。仕事じゃなくても、またいらっしゃい」
アサコは小さく会釈をして「灯」を後にした。
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外は深夜と朝の端境期特有の空気に満ちている。北口の飲み屋街を抜けた一角、その場所だけが暴力的なまでに濃密な中華料理の香りに包まれていた。ニンニクが爆ぜる音、ラードが熱され、香辛料が空気に溶け込んだ重厚な匂い。
アサコは店先に置かれた立て看板に目を留めた。黒酢の餡がたっぷりとかかった豚ロースの鮮やかな写真が、朝の光に照らされて胃を刺激する。目の前には黄色い看板に赤い字で「台湾料理」と書かれたテント屋根があり、匂いの元を辿るかのようにアサコは店の中へと足を踏み入れ、手近な円卓に腰を下ろした。
「いらっしゃい。空いてる席どうぞ」
おばちゃん店員が、片付けの手を止めずにぶっきらぼうに言った。卓上に広げられたメニューを眺め、アサコの視線が品書きの端にある『紹興酒』という文字に止まった。
叔父か誰かが、独特の香りと癖がある酒だと話していたのを、おぼろげに覚えている。どんな味なのか、今の今まで一度も想像したことはなかったが、スナックでの初めての仕事を終えた今の気分には、そんな未知の酒が相応しい気がした。アサコは顔を上げた。
「紹興酒を、グラスでいただけますか」
「はいよ。氷とザラメ、使う?」
「ザラメ、ですか」
「そう、お砂糖のザラメ。入れるとおいしいわよ」
アサコは少しだけ考えた。酒に砂糖を入れる。甘い酒は得意な方ではないが、この店の流儀に身を任せてみるのも悪くない。
「お願いします。それと、空心菜の炒め物と、豚ロースの黒酢酢豚を」
「空心菜、と……黒酢酢豚。黒酢酢豚は定食かしら?」
「いえ、単品でお願いします」
「黒酢酢豚が単品、と。ちょっと待っててね」
注文をメモ用紙に書き終えたおばちゃんは、すぐに琥珀色の液体が揺れるグラスと、小さな皿に盛られたザラメ、それから氷の入った容器を運んできた。
「はい、紹興酒。あとザラメ」
「ありがとうございます」
初めて手にするその酒を、アサコは慎重に眺めた。立ち上がる香りは、これまでに知っているどの酒とも違った。ドライフルーツを煮詰めたような、あるいは薬草を燻したような、複雑で厚みのある香り。
ひと口含めば、独特の酸味と発酵したまろやかな苦みが舌を包み込む。そこに、添えられたザラメを数粒、ゆっくりと沈めてみる。角が取れた甘みが琥珀色の液体に溶け出し、尖っていた酸味がふわりと柔らかなコクへと変化した。喉を通る瞬間に熱い塊となって胸へと落ちていく、重厚な充足感。その未知の温かさに、夜の疲れがじわりと溶け出していった。
続いてやってきたのは、空心菜の炒め物。強火で一気に煽られたそれは、鮮やかな緑色が油の膜を纏って光り、皿からはみ出さんばかりの山を成していた。
「いただきます」
箸で掴み、口へ運ぶ。油を纏って艶やかに輝く空心菜の合間には、細かく刻まれたニンニクの白い粒が砂利のように散らばっている。その中空の茎を噛み締めれば、シャキシャキとした快音とともに、凝縮された鶏出汁の旨みがじゅわりと溢れ出した。芯のある茎の歯応えと、熱を帯びてしんなりとろける葉の柔らかさが、口の中で心地よいリズムを刻んでいく。ニンニクの鋭い刺激を、黒砂糖で深みを増した紹興酒が静かに、かつ力強く引き立てていった。
「はいよ、お待たせ。熱いうちに食べてね」
おばちゃんが皿を置くと、湯気とともに黒酢の芳醇な香りが鼻腔を支配した。目の前に置かれたのは、まるで黒い宝石のような光沢を放つ豚ロースの黒酢酢豚だった。漆黒に近い餡が、ゴロゴロとした大ぶりの肉の塊を重厚に包み込んでいる。その隙間から、透明感を湛えた真っ白な玉ねぎと、餡の黒を弾くような深緑のピーマンが顔を覗かせていた。箸で持ち上げると、とろみの強い餡が糸を引く。
「……は」
口に運んだ瞬間、容赦ない熱量にアサコは一瞬だけ息を呑んだ。だが、ひるんだのはその刹那だけで、すぐさま衣を噛み締めれば、カリッと揚がった表面の向こう側から、閉じ込められていた熱い肉汁が弾け出す。鼻腔を強く突く黒酢特有の酸味が、アサコの食欲を激しく揺さぶる。黒酢の深いコクと甘み、それと強烈な酸味が、肉の脂を上品に、かつ鮮烈に際立たせていた。アサコは舌を焼く熱さに構わず、次の一片へと箸を伸ばした。
やがて皿が空になると、アサコは残っていた紹興酒をゆっくりと口に含んだ。熱を帯びた口内を、黒砂糖のまろやかな甘みが優しくなだめていく。ふっと視線を上げると、円卓を囲む客たちの喋り声や食器の触れ合う音が、まるで遠い波音のように聞こえた。喧騒の真ん中にいながら、自分の周りだけが切り離されたようなこの奇妙な安らぎの中で、ふいにあの男の声が蘇った。
──静けさは、大事ですね──
あの低い声が、料理の湯気の向こう側にゆっくりと溶けて消えていく。一人で食べ、一人で飲み、一人で朝を迎える。この完結した時間に、やはり余計な言葉はいらないのだ。
アサコは最後のひと口を飲み切り、静かに席を立った。
繁華街の澱んだ空気を振り払うように、清潔な朝の光がすべてを白く塗りつぶし始めていた。綺麗すぎる川では生きられないけれど、この光の下でなら、また明日もただの風景として歩いていける。リュックの中には、数時間の雑用にしては驚くほど厚みのある給与袋。ママなりの、不器用で過剰な感謝の形。アサコにとってはじめてのスナックだった。少しだけ、楽しかった気もする。けれど、またやってみたいかと言われれば、きっと首を横に振るのだろう。
ポケットの中で、「灯」と記された小さなマッチ箱が指先に触れる。このマッチに小さな火が点くのは、いつのことなのだろう。自動改札を抜ける短い電子音が、アサコを日常の静寂へと引き戻す合図のように、高架下に響いた。




