第四話 東京駅構内の大衆酒場
事務所の蛍光灯は少し暗く、白い光がコピー用紙の書類ばかりをきれいに照らしていた。壁際には段ボール箱や使いかけの清掃用品が雑に積まれ、清掃業務の集合場所らしい雑多さがあった。アサコは息をひとつ整える。時刻は22時を回っていた。この時点で作業開始時刻より数分過ぎている。目覚まし時計の電池が切れているのに気づかず、アラームが鳴らなかったのだ。
奥から椅子がくるりと回り、中年の女性が顔を上げる。胸元には〝YASUE〟と刻まれた名札。金具がわずかに揺れて、細い音を返した。中年の女性は真っすぐな表情で言った。
「先に言っておくけど、このビル……出るのよね」
「何がですか」
アサコは無表情のまま答えた。
「……あなた、お化けとか平気?」
「お化けですか」
一瞬の間があった後、やすえは口を膨らませて笑いを吹いた。
「あっはっは、冗談冗談。遅刻だったから、ちょっと意地悪しちゃった。ここを管理している〝やすえ〟といいます」
「遅れて申し訳ありません」
「これくらいなら許容範囲よ。でも、みんなもう先に作業に行っちゃったからね。夜中のビルに女の子ひとりは、ちょっと怖いわよねぇ」
そういうと、やすえは手早くシフト用紙を引き寄せ、ボールペンで丸をつけた。
「14階・東側の廊下はクリーナー。会議室のガラス内側はスキージーで。給湯室の床は最後にモップで一往復。ゴミは集積まで台車を使う。で、終わったら事務所に戻って報告、と」
「はい」
「ビル清掃の仕事、経験あるのよね?」
「あります」
「なら話は早いね。まあ、何かあったらいつでも事務所に戻っておいで」
アサコは小さくうなずく。やすえは書類をそろえ、名札を指先でちょん、と整えた。その仕草が妙に生活的で、ただの気のいいおばちゃんにしか見えない。
「じゃ、いってらっしゃ~い。あ、休憩は適当にとって、終わったら顔見せてね。……お化けと一緒でもいいのよ」
作業場所へ向かうアサコの背中で、やすえの笑い声がひとつ弾んだ。
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廊下は昼間の気配が残っていた。コピー用紙の繊維、カーペットの糸、椅子の布地の摩耗、何かの食べ物の匂い。それらが薄っすらと空調の残り風に混じっている。別の班の台車が角を曲がり、モップの水線が細長く消えていく。人は近くにいるのに、足音は遠い。クリーナーのスイッチを入れる。低いモーター音がゆっくり広がった。一定の歩幅で進み、床にまっすぐな線を引いていく。
何度目かの角を抜けたところで、モーター音が「フッ」と消えた。持ち手を離し、プラグ、コード、スイッチを順に確かめる。抜けてもいないし、絡まってもいない。クリーナーの表面は熱を帯びていない。
アサコが視線を上げると、廊下の奥はT字路になっていた。消火栓の赤いランプの光のそばに、人らしき影があった。
ほんの一瞬……それはゆらりと壁の影に溶けていった。
この階は自分ひとりだ。アサコはゆっくりと一度だけまばたきをしたが、そこにはやはり仄暗いT字路があるだけだった。顔の向きはそのままに、クリーナーのスイッチをもう一度入れる。モーターが低く息を吹き返す。アサコは何事もなかったように作業へ戻った。振り返らず、さっき見た影をどこにも残さないように。
「……ッ」
二度目の異変は、さらに短い音だった。機械の息が途切れるような止まり方。さっきと同じ順で点検をするが、やはり壊れている様子はない。静けさが耳の内側に貼りつき、遠い時計の針の音まで拾えそうだった。
そのとき、近くの会議室の中から低い唸り声のようなものが聞こえた。
「う……ぅ……」
男なのか女なのか、定かではない。アサコは歩みをゆっくり向け、会議室のノブをひねってそっと押す。
暗がりの会議室には、窓の外からだけ光が入っていた。向かいの高層ビルの窓がところどころ灯っていて、四角い明滅が壁に薄く散る。遠くの屋上灯と航空障害灯の赤、街路のネオンが会議用テーブルの角で細く切れている。カーテンの隙間を抜けた光は、部屋の空気を深い夜の色に染めていた。
スーツの男が座り込んでいた。ネクタイは緩み、カフスが片方だけ外れている。机の上には空の缶。酒の匂いが、ほんの少しだけ漂っていた。
「大丈夫ですか」
男は、ゆっくり顔を上げた。目の焦点が泳ぎ、薄い笑いが喉の奥で崩れる。
「……すみません。終電、逃して……休憩室で、酒飲んでたんだけど……戻れなくなっちゃって……あはは」
アサコが手を差し出すと、男は手を振るようにして「大丈夫、大丈夫」と繰り返し、椅子の背に一度だけ掴まってから、フラフラと立ち上がる。
「片づけるんで……大丈夫っす……すみませんね……」と、笑いながら小声でこぼし、掃除の邪魔にならないようにと気を遣う素振りで会議室の外へ。廊下の方へよろよろと歩いていき、角を曲がると足音はすぐ遠くなった。おそらく、最初に廊下で見た影の正体だったのだろう。アサコは残された空き缶を回収して、何事もなかったように作業へ戻った。
以降、クリーナーは一度も止まることはなかった。プリンター横、給湯スペース、会議室前の廊下。ガラスは上から下へ、言われたとおりに圧をかけすぎず一往復。順調に最後の区画を拭き終えるころには、窓の外は薄っすら白くなっていた。
夜明けの匂い。冷えた空気の薄い膜が、ビルの乾いた匂いに重なる。カーテンの下の影が、じわりと短くなっていく。泥酔の男は、休憩室に戻れたのだろうか。階段の奥から、別班の台車が小さな音で遠ざかる。アサコは備品を片づけ、静まり返ったフロアを振り返らずにエレベーターへ向かった。
事務所の扉を押す。奥の椅子に座っていたのはやすえではなく、見覚えのない若い男性事務員だった。アサコは足を止め、室内を一巡り見る。壁の時計、コピー機、段ボール箱や使いかけの清掃用品──この部屋で間違いない。先に帰ってしまったのだろうか。
「女性の、やすえさんに作業報告を」
「やすえさん?」
事務員は机の上にあった帳簿をめくる。いくつかの名前を追い、指先が止まる。天井を見上げ、記憶を探すように目が泳いだ。それから、ゆっくり顔をアサコへ戻す。
「うちには……そんな方、いませんよ」
事務員はきっぱりと言ってから、手元の帳簿を指先でなぞった。
「……あれ、でも、この出勤確認印はなんだ?」
アサコは一瞬だけ視線を落とした。説明したところで、何の意味もなさそうだと気付くのは早かった。ただ、〝存在しない〟という事実が、波紋のように静かに胸を掠めていった。
「そうですか」
それでも、自分がここで夜を明かしたという感覚は間違いなく残っている。給与の支払いは出勤記録の齟齬を詳しく確認してから、という話になったが、アサコは深追いせずに短く挨拶をして事務所を後にした。耳の奥に残っていたあの名札の金属音は、もうどこからも聞こえなかった。
****
ガラス張りの広いエントランスの壁に朝日がまっすぐ当たり、影が鋭く縮んでいた。ビルの裏口から出て、アサコは帰りの電車に乗るために東京駅の方へ歩いた。夜が完全に抜け切らない早朝の風は、ビルの谷間を流れながら少しだけ冷たかった。街路樹の根本に残った水滴、始発前のタクシーのアイドリング、再開発区画では安全確認のかけ声が聞こえる。朝へ切り替わる直前の街は、どこも均一な薄さで静かだった。
東京駅の赤レンガのシルエットが視界に入る。改札口に入って地下の連絡通路を進むと、魚を焼く香りと出汁の温かい匂いがほのかに鼻孔をくすぐった。ほとんどが〝準備中〟の札を掲げるレストラン街の一角に、暖簾が下りている店がひとつあった。
入口の前には〝定食〟の文字。ガラス越しには、カウンター席でビールを飲んでいる客が二人ほど見える。さっきまでの出来事の重さが、じわりと肩に残っている。あの〝存在しないはずの女〟の笑い声が、まだ耳の奥に薄く残っていた。何か、はっきりした強い味で上書きしたかったのかもしれない。いつも通り、この後に予定はない。時間だけが余っている。暖簾の前に立ち、布の揺れを指先で少しだけ持ち上げる。アサコは、そのまま店へ入った。
店に入ると、通路は一本、奥の厨房まで真っ直ぐ伸びていた。左右には仕切りで区切られたボックス席と、素朴な背もたれの椅子が並ぶ二人テーブル。天井には小さなライトが等間隔で灯り、壁には短冊のメニューが風に揺れるみたいに斜めのまま貼られている。カウンターの向こうでは、青白い鉄板の熱気と湯気が重なり、器の触れ合う音が静かに続いていた。満席とまではいかないが、早朝の店にしては人で埋まっている。
案内された二人掛けの席に座り、そのまま店員に短く言う。
「日本酒と、焼き魚定食を」
日本酒はアサコでも何度か飲んだことがある、強い酒だということは分かっていた。徳利からお猪口へ注ぐと、底の青い蛇の目がゆっくり揺れた。よく分からずに選んだ辛口の純米酒は、香りは控えめで最初のひと口は喉の奥を静かに潤す。強い酒の鋭さはほとんどなく、ただまっすぐ落ちていく感じ。舌の奥に広がる風味が、胸の底の固い部分を少しだけ緩めた。奇妙な夜の名残が、静かに薄れていくようだ。
ほどなくして、焼け目の明るい鮭、脇に玉子焼きと大根おろし。湯気をたたえた白いごはん、わかめとなめこの味噌汁、小鉢には白いしらすがつんもりと盛られている。
「いただきます」
箸で鮭の端を割ると、薄く張った皮が小さく鳴り、中からしっとりした身が出てくる。塩の輪郭は強すぎず、米の温度とちょうど重なった。味噌汁をひと口。わかめの香りが喉を抜け、なめこのぬめりが朝の声を静かに鎮める。しらすは軽く、口の中でほどけ、玉子焼きの甘さが最後にそっと残った。食べ進めるほど、肩の力がゆっくり抜けていく。
奇妙なことはあったけれど、朝酒の静かな余韻が胸のざわめきをゆるやかにほどいてくれた。それだけで、アサコはよかった。
伝票を持って、立ち上がる。椅子の脚が床をかすめる小さな音。黒のジャンパーの袖を軽く引き、店の出口へ向かった、そのとき。
──アサコが座っていた背後のボックス席で、中年の女性が、今にも高笑いしそうな表情をしていた。その隣には、緩んだネクタイと片方だけカフスが外れたスーツの男が、今は醒めた視線で、アサコの背中を静かに見つめている。
レシートを受け取ったアサコは、日本酒の余韻を感じながら、伏せられた睫毛の先をわずかに緩ませ、店を後にした。




