第三話 川崎の北部市場
アサコの叔父は道楽者で大酒飲み、賑やかという言葉をそのまま歩かせたような人物で、妙に顔が広い。
面倒見もよく、アサコのこれまでのバイトの大半も、この叔父の紹介で始めたものばかりで、今回も例外ではなかった。レジャーランドの清掃会社にも知り合いがいて、その伝手でたまたま欠員が出ると、叔父の軽快な電話ひとつで決まった。
夏の朝は、空よりも湿度が先に目を覚ます。近ごろの夏は明るくなりきる前から熱を帯び、プール掃除も夜の名残があるうちに始めるのが当たり前になった。日の出前に始まり、通勤の列が動き出すころには終わる。
始発で向かうと、シャッターの前に同年代くらいの男女が数名、眠気混じりの声で挨拶を交わしていた。アサコは少し離れたところに立ち、SFの文庫本を開いて園内スタッフの指示を待っていた。
巨大なプールの底には、昨日の影が薄く残っていた。足跡の曇り、指でなぞった跡、小さな葉。ホースの蛇口を捻れば、水は一直線に走り、水色の塗装面を叩く音が細かく増えていく。白いTシャツの袖を肩まで巻き、黒のショートパンツ、髪を低めに結んだアサコが柄の長いブラシで擦り付けると、底からコツコツと硬質な反響が返った。朝が、にわかに動き出した。
「あと一面やったら上がりじゃん」
「終わったら入りたいよね、早朝でこの暑さはヤバいって」
「かき氷も食いてー」
空っぽのプールに、笑い声が硬く跳ね返り、夏の朝の空気がわずかに光の輪を帯びていた。ただ、アサコがその輪へ入ることはない。ときどき作業の短い会話はあるが、誘われることはない。アサコのそばでは、青春が揺れていた。
終わりかけの空はだいぶ明るくなり、東の端に薄いオレンジが乗って、広い底面を少しずつ染めていく。ひと区画を磨き切って蛇口を閉め、音が急に軽くなったところで、アサコは水のないプールの壁に背を預けた。Tシャツの肩口に、洗い流した水滴がひと筋だけ跡をつける。ショートパンツの裾が風でわずかに揺れ、長い脚が光の線を浮かべている。外の空気は、いよいよ本格的な熱を帯び始める。
給与を受け取るとき、封筒とは別に薄い紙を二枚手渡された。園の担当者が「よかったら涼んでいってください」と言い、レジャーランドからの無料券だと付け加える。紙は封筒に滑り込ませた。使うつもりはなかった――が、ここでふと、叔父の話を思い出す。
「その日はレジャーランドの近くにある北部市場の開場日だから行ってみるといい」
「近く」と言いながら、実際はバスに揺られる距離だ。相変わらずの大雑把さだが、バスの時刻表は背中で覚えるほど簡単で、足は自然に市場のほうへ向いた。
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バス停で降りると、急な坂をひと息で上がる。路面の熱が靴底を薄く押し返し、肩口に朝の陽が刺さる。坂の上に長方形の大きな建物が現れ、重厚なグレーの外壁に横長の窓が並び、その上に「北部市場」と大きく掲げられている。正面手前には低い庇がせり出し、「精肉」「水産」の文字が入った看板が白地に赤く浮き、旗竿が風を拾って小さく揺れている。広い前庭には横断歩道の白が強く残り、植え込みの緑が、朝の青い空に押し上げられている。
市場の中は、フォークリフトのバックブザー音、発泡スチロールの軋み、氷が割れる低い響き。野菜の箱はきつく縛られ、魚の箱の内側から冷気が吐き出される。
アサコは三階の通路の角で「海鮮と洋食の食堂」の暖簾を見つけた。店先では食品サンプルの乗ったステンレス机、香ばしい油の匂い、コーヒーの渋みが混ざり、人の体温に繋がったざわめきに変わっていく。夜明け前から動かしていた身体に、はっきりとした空腹が戻ってきた。
「いらっしゃい。おひとりかしら?」
「はい」
店内に入ると、壁一面に黄色い短冊メニューが縦に連なり、黒い文字がぎっしり並ぶ。白い長机が中央に置かれ、黒い樹脂の椅子が規則正しく並ぶ。卓上には銀色のポットと箸立て、ソースや醤油のボトル。奥のカウンターには電子レンジと炊飯器、業務用の冷蔵庫、棚には使い込まれた器が重なり、角の丸い窓からは市場の通路の動きが切り取られて見える。壁の一角にはカレンダー、天井近くでは扇風機が回り、床の黒がところどころ鈍く光っていた。
奥の席に座り、壁に貼られた短冊メニューの並びを見ると〝レモン〟という文字を見つけた。以前からアサコには、自分はきっと酒に強い──そんな根拠のない思い込みがある。あの大酒飲みの叔父の血を、どこかで受け継いでいる気がしてならないのだ。
「レモンサワーを」
グラスの側面を水滴がゆっくり落ち、指先の皮膚に冷たい膜が薄く張りつく。炭酸が舌を軽く叩き、レモンの香りが喉の手前で跳ねて、視界が徐々に明るくなるのが分かった。
黒い器の縁ぎりぎりまで具が重なった「海鮮丼」が、アサコの視線を塞ぐように置かれている。奥に赤身が三枚、右の縁へ木目を引くブリが二枚、その内側に桜がかった中トロ。中央には薄緑のわさびと山吹色のウニがこんもり置かれ、左右から胡瓜が涼しげに寄せ合っている。手前には艶を抱いたホタテの白、コリッと鳴りそうな赤貝の橙、脚先の吸盤まで照る蛸、透ける甘えびの身に玉子焼きが重なり、その脇に大葉の濃い緑色。隣の椀には葱が浮かび、温かい味噌の香りを漂わせている。
「いただきます」
ひと切れを醤油にくぐらせ米と合わせると、酢飯の柔らかな温度と魚の冷たさが半歩ずれて重なり、包丁の軌道が見えるように舌に触れる。ホタテは触れた瞬間に甘みがほとばしり、赤身は穏やかな鉄の香りで舌にまざり、ブリは脂の筋をまっすぐ引く。ウニは粒の縁が一瞬だけ舌に触れ、海の匂いだけを残して消えた。胡瓜の青さは全体の温度を一段下げ、わさびは尖らず、米粒の凹凸に絡んで舌の奥だけをまったりと広げる。レモンサワーをひと口足せば、酸味が脂の膜を薄く剥がし、魚の輪郭を際立てる。忘れてはいけない椀は、出汁が前に出過ぎず、さわやかな葱の辛みが柔らかに混じって、丼とグラスのあいだにぴたりと納まった。
「おまたせしました、アジフライね」
遅れてやってきた「アジフライ」は、衣がサクッと空気を切る。揚げ色は均一、薄い狐色の中に細い黄金の筋が走る。衣の粒は細かく乾いているのに、寄り合うところは繊維のようにスルリと立ち、角に溜まった油の粒だけを掴む。脇には細切りのキャベツが山をつくり、そこへ寄り添うようにレモンの三角が明るい影を映している。
箸で持ち上げると驚くほど軽い。まずは何もつけずにひとかじり。衣が口で静かにほぐれ、すぐに身のしっとりした繊維を感じる。鯵の香りは強すぎず、脂は身の間へほどよく回っている。レモンをひと搾りすれば、黄色い香りが弧を描く。サク、ふわ、じゅわ──時間差で三つの音が現れ、最後に旨みだけが遅れて追ってきた。キャベツを頬張れば、ざくりと鳴って、舌がもう一度よろこぶ。レモンサワーが架け橋となり、喉を過ぎるとき炭酸が小さく弾けるのが心地よい。
「おいしかったかい?」
「はい」
「そうかい、そりゃよかったよ」
会計を終えて外へ出る。すぐさま、刃のような照り返しが地面から跳ね返ってくる。いつもなら一年中身につけている黒のジャンパーのファスナーを、ためらいなく下げた。肩から外すと空気が一段軽くなる。封筒の角が指先に触れ、無料券が中で角を立てていることを思い出す。最初は使う気はなかったが、汗をうまくかけない肌に積もる熱だけが、背中を不本意にも水源の方へ押した。
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レジャーランドへ戻ると開園まもなく、シャッターの音がまだ耳に残り、通路には清掃の水が細い流れを作っている。ゲート脇ではスタッフがリストバンドを束ね、スピーカーから短いチャイムが試験的に流れる。日焼け止めの匂い、膨らませた浮き輪が擦れる音、氷の入ったクーラーボックスが涼しげにガラガラと鳴る。
アサコはスタッフに無料券を渡し、更衣室へ向かった。廊下の蛍光灯は白く、脱衣所の床はうっすらと冷え、ロッカーの扉が順々に開閉する金属音が耳に付く。レンタルの水着は黒一色、スイムウェアに近い装飾のない地味なもの。布は薄く乾いていて、掌に置けば重みがない。鏡の前に立つと、地味でも地味にはならなかった。背の高さ、線の細さ、白い肌──意図せず輪郭ははっきりしてしまう。
開園まもなくの割に、暑さに追い立てられた人が早くも集まっているプールサイドは、さっきまで掃除していたときとは違い、水が満ち、光が底で割れて、音が穏やかだった。濡れたタイルと塩素の匂い、遠くでライフガードの笛が短く鳴り、売店のシャッターが上がる音。低い音楽が流れ始め、掲示板には今日の注意書きが新しいテープで留められている。流れるプールに足を入れると冷たさは膝裏へ上がり、流れに身を任せれば、水の線が腰へ沿って抜けていく。気持ちはいいけれど、一周だけ、と決めていた。
縁に手をかけて流れから身を外すと、視線が集まっているのがわかった。露骨ではないが途切れない。水の流れの向きと一緒に、細い針の先だけ肌をかすめていくようだ。アサコは一周もしないうちに日陰に入り、地面に体育すわりで座る。膝を抱え、足先を軽く重ね、ロッカーの鍵を手首で一度だけ回す。水滴はすぐ乾き、コンクリートの熱が太ももの裏にジリジリと押し付ける。かき氷の旗がはためき、プラカップの氷がいくつもシャリシャリと鳴っている。
しばらく園内の様子を眺めていたが、視線は緩むどころか、むしろ増えていく。目が合うたび、外されるまでの間が少しずつ短くなる。笑い声の向きが変わり、足音が無意味に近づいては離れる──その感覚に、見覚えがあった。これ以上は、いつもの輩が寄ってくる。そう判断して、アサコは腰を上げた。
更衣室でシャワーを短く浴び、水着を受付の台に静かに返す。湿った髪はそのままに、ジャンパーは手に持ったまま園を出た。
園外へ出る小道のフェンスにアサガオの蔓が絡み、濃い葉の陰から小さな蕾がいくつも顔をのぞかせていた。水の青と、レモンの黄色と、衣が切れる音──それらが胸の底で静かに合わさる。蕾のひとつが、アサコの方へ角度を変えたように見えた。影は短く、風はより一層熱くなっている。
バス停のほうへ向かう前に、肩でひとつ呼吸をする。無料券はもう一枚、封筒の底に残っている。使うかどうかは、また朝が決めればいい。




