表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第二話 新宿駅地下通路の喫茶店

パン工場は、西武新宿線の小平駅からだいぶ離れた倉庫街の外れにあった。深夜になると、街灯の光だけが湿った地面に斜光を作り、その中で冷蔵庫のモーター音が途切れず響いていた。朝刊のバイクが通る音すら遠い。工場の扉を開けると、発酵した生地と焼成機の熱が混ざった独特の甘い匂いが胸の奥にふわりと満ちていた。パンの匂いはアサコが「好き」と言える数少ない匂いだった。どれだけ夜が長くても、この香りの日だけは、胸のどこかにほんの少しだけ温度が灯る。

作業ラインには丸い生地が一定の間隔で流れてくる。表面はつるりとしていて、まだ息をしているように揺れる。アサコはそれを決まった向きでそっと置き直し、押しすぎず、つぶさず、乱さずに並べた。その単調だが静かな作業は、アサコの呼吸と深夜の空気に合っていた。遠くでは巨大な焼成機が鈍く唸りをあげ、扉が開くたびにむっとした熱が顔の前を横切る。焼き上がったパンは金属棚に置かれ、カチリという規則的な音を響かせながら並んでいく。仕上げ台ではチョコやクリームを決まった位置に置くだけ。声はいらず、指先と呼吸だけが世界を描いていた。

隣の細身の女の子は、作業着の袖口を粉で白く汚しながら黙々と作業していた。特徴的な左目の泣きぼくろ、衛生帽の縁からは髪の一本も覗かず、その収まり方が、彼女のまじめさを静かに物語っていた。地味で、影のように静かな子。袖の白い粉を横目に見ながら、自分に似ていると思った。この子の日々に何か楽しいことがあるのだろうかと胸の奥に浮かんだ疑問は、粉の帯みたいに、触れた拍子にすぐ消えていった。


午前六時、終業のベルが鳴る。焼けた匂いが少しだけ濃くなり、機械の唸りがふっと弱まる。作業着から着替えたアサコは黒いジャンパーを羽織り、給料封筒をリュックにしまって工場を出ると、外の空気は夜と朝の境目のひんやりした温度を感じていた。体のどこかに、まだパンの甘い匂いが残っている。

工場から小平駅までの道は長く静かだった。舗道に夜露が広がり、住宅街の窓はほとんど灯りがない。早朝の郊外の道は、人の気配がゆっくりと集まる前の、張りつめた静けさを持っている。アサコはその中を一定の歩幅で歩いた。


****


始発が入ってきた小平駅のホームで電車に乗る。車内にはほんの数人の乗客がいるだけ。窓の外の街が色を変えながら後ろへ流れていく。高田馬場を過ぎたあたりで人の気配が増え、空気に熱が少し混ざる。西武新宿駅に着くと、世界の密度が一気に変わる。ここからJR新宿駅に乗り換えるためには、歌舞伎町の入口を横切らなければならない。

アサコはこの乗り換えが嫌いだった。うるさい、人が多い……空気に角が立つ。じっとりとした夜と朝の残骸のような匂いがまだ漂い、看板の光が消え残ったまま立ち尽くしている。夜を終えた人と、朝を始める人が混ざり、その呼吸を一定に保つように、乱されない速度で通り抜けた。歌舞伎町の入口を過ぎ、地下へ降りる階段が見えてくる。階段を下りると、地上の喧騒がわずかに薄くなり、冷たい空調が白い頬を撫でた。

その瞬間、ふと焼きたてのパンの香りが鼻先を掠めた。工場の匂いとも違う、〝完成されたパン〟の匂い。温かく、少しだけ焦げの入った香り。店先に、小さな立て看板が出ている。

〝おいしいコーヒーをどうぞ〟

白い文字が黒板の木枠に収まっていた。ガラス越しには、湯気と温かみのある木のカウンター。その独特な気配に引かれて、扉を押してしまったのだ。


店内はだいぶ狭いが、どこかアサコと雰囲気が合った。新聞が擦れる音、スプーンが陶器に触れるかすかな金属音、奥から漂う香ばしい匂い。二人掛けの小さな席に腰を下ろし、メニューを一度だけ眺めたところで、アサコの瞳がわずかに揺れた。

──お酒。ただの喫茶店だと思っていた。コーヒーと軽食、それだけの店に見えたのに、ページの隅に当たり前のような顔で〝ビール〟の文字が並んでいる。しかも、見慣れない種類のものまで。思わず指先でページの端を戻し、もう一度確認する。ほんの一瞬だけ眉がわずかに動いたが、その驚きを誰に見せるでもなく胸の奥に沈める。コーヒーにするつもりだったが、視線は別の行で止まった。そこには、色の違うビールを混ぜて飲むという、見たことのない種類の酒が記されていた。つまるところ、黒と琥珀のビールを合わせるらしい。そんな飲み方があるとは考えたこともなかった。その味を想像すると、静かに食指が動く。やってきた店員に堂々と伝えた。

「ハーフ&ハーフを」

まもなくグラスが置かれると、琥珀と黒が完全に混ざり合うのではなく、ほのかに境目をたゆませながら静かに重なっていた。口に含めば、黒は最初にローストの苦みで舌に薄いヴェールを敷き、半歩遅れて琥珀が麦芽の甘みと穀物のやわらかな香りを押し出してくる。対立して溶け合うのではなく、前後を入れ替えながら互いの良いところを際立たせ、喉を抜ける瞬間だけ一拍の和音になる。芳醇と苦みが鼻へ抜け、余韻に麦の気配が残った。派手さを思わせる黒と、静けさを思わせる琥珀──こんなふうに違う味が時間差でまとまるのかと、アサコはしばし感心する。グラスの中で起きていることは、あるいは自分の中にもあるのかもしれないと。


「いただきます」

生成り色の皿に、透明感を残した薄桃のスライスが三枚。「生ハム」の縁の色はごく薄く、光を受ける面だけがわずかに艶を持つ。脇には水気を含んだオニオンのスライス。フォークで端を持ち上げると、絹のように柔らかくたわむ。最初の一枚はそのまま舌へ。塩が輪郭を描いてすぐに後退し、脂の甘さが薄い膜になって口内に広がる。二枚目はオニオンを添える。辛みが甘さを細く切り、香りだけが鼻の奥へ儚く残って消えた。グラスをひと口──黒の層が塩気を静かに洗い、琥珀が甘さを平らへ均す。そこに、しばらく余韻だけが残る。

「ホットドックです」

ちょうどいい焼き目の入った「ホットドック」。縦に割かれた中央へ、艶のあるソーセージが一本。マスタードの粒が線になって置かれ、その上からケチャップの赤が細く重なる。手で持つと、表面の温かさが掌へ移り、パンの薄い皮が「パリッ」と鳴った。ひとかじり。まずパンの皮が小さく割れ、続いてソーセージの皮が「プツッ」と弾ける。内部の熱がふわりと立ち、塩味と脂の香りが鼻へ上る。パンの内側はやわらかく、食感の差が音の差になって胸のあたりをいい意味で小突かれているようだ。


カウンターの向こうで、シャリシャリとミルの低い音と、抽出の短い吐息がときどき届く。大都会のまさしく中心なのに、誰も話さない。皿を置けば、陶器が木に触れるコツリとした音だけが残った。

そんなとき、空気を押しつぶすような強烈な匂いが店に流れ込んだ。甘ったるい香水に酒の酸味が混ざった重い匂い。息をするたび、その密度が厚くなる。扉が開くと、暗夜を引きずったような男が入ってくる。金髪……いや、白に近い髪。深く開いた胸元、手首のジャラつき。カウンターの空いた席に腰を落とし、片手でスマホをいじりながら気だるそうに言い放つ。

「ビール、秒で」

半分ほど一息で飲み、スマホの画面に顔を寄せてSNS用の自撮りを一枚。シャッター音が小さく鳴った一瞬、笑っているはずの瞳だけが水底みたいに濁って見えた。肩を落とす角度が、つくり笑いの反動でわずかに沈む。それで満足したのか、肩の力を抜いて店内を見回したとき、視線がある方向へ止まった。

アサコだった。照明のやわらかい反射でシルエットが際立ち、黒髪は耳の線でさらりと揺れ、切れ長の目は伏し気味でも光を宿している。白い肌が美しい角度を造り、まっすぐな姿勢のままハーフ&ハーフを口に運んでいた。

「エグ……やば」

男が小声でつぶやき、ビールジョッキを口につけたまま立ち上がる。角度をつけてアサコの横へ立ち、香水と酒の匂いが濃い霧のように広がる。

「おいしそうに飲むじゃん。ここ、相席いい?」

「不可です」

男は片口を上げて笑う。

「〝不可〟だってさ。いやいや、ちょっとだけ。朝からその感じ。正直、ガチ惚れなんだけど」

アサコはゆっくり顔を向けた。

「あなたの匂いで、おいしい匂いが壊れる」

空気が一拍だけ止まり、次の瞬間には店の沈黙が片方の味方になった。男はおチャラけた顔で肩をすくめ、持っていたビールをもう半分飲んで身を翻した。

「はいはい、了解。じゃあ着替えてくるからさ、待っててよ」

本気か冗談か、それとも負け惜しみか。男は軽く言い捨てて、あっさりと店を出ていった。店にいる数名は、やはり誰も何も言わない。ただ、その場の視線が渦中の美女のグラスの角度へもう一度だけ集まり、いくつかの目の端がわずかにやわらいだように見えた。アサコはハーフ&ハーフをひと口、ホットドックを二口で片付けた。


改札へ向かう途中、視界の端に強い色が入り込んだ。金髪に近いハイトーン、厚いメイク、原色のネイル──超ド派手なギャルが、さっきのホストみたいな男らと笑いながら歩いている。

アサコはすぐ気付いた。パン工場で隣にいた細身の女の子だ。衛生帽子ごしの輪郭も、カラコンの奥の目の形、そして左目の泣きぼくろも同じだった。

声はかけない。かける理由もない。人はみんな複雑で、混ざりきらない色をひとつずつ隠し持っている。見える色が違うだけで、どちらもその人なのだろう。

アサコは静かに、改札へ向かって歩き続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
目に映る一つ一つの描写が綺麗に描かれていて自分が生きている生活の中にもあるんだなと改めて気付かされました!心地良い空間の短編です。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ