第十話 大森の大衆割烹(最終回)
製本工場の休憩室は、湿り気を帯びた午後の熱気と、安っぽい砂糖菓子を煮詰めたような、甘ったるい笑い声で満たされていた。
「アサコちゃん、これ食べて~。北海道限定のバターキャラメル。並んで買ったのよ、お裾分け」
ベテランの女性作業員が、節くれだった手で差し出した包みを、アサコは両手で恭しく、しかし軽やかに受け取る。
「わあ、ありがとうございます! 超嬉しい。これ、ずっと食べてみたかったんですよ」
「あら本当? よかった~」
「サイトウさんて、お菓子選ぶセンスめっちゃいいですよね」
花が咲いたような、という形容がこれほど似合う表情もなかった。アサコは器用に周囲の空気を読み、求められる以上の愛想を、まるで無意識の習慣のように振りまく。
「アサコちゃんがいると、現場の空気が洗われるわねえ」
「そんなことないですよ。私の方こそ、皆さんのテキパキした動きに、いつも見惚れているんですから」
軽やかな笑い声が、油と古い紙の匂いが染み付いた殺風景な休憩室の温度を上げ、潤滑油のように人間関係を滑らかに回していく。誰もがアサコを〝とても愛想のいい、完璧な女の子〟として信じて疑わなかった。誰に対しても均等な光を放ち、場を柔らかく整える春の陽だまりのような存在。その鮮やかな、色彩が、不意に──歪む。
視界がかすみ、鼓膜を打つ笑い声が耳障りなノイズに溶け、景色から急速に色彩が抜け落ちていく。明るい蛍光灯の下で交わされる記号的な会話が、砂嵐のように崩れ去り、世界は無彩色の静寂へと反転した──。
『ピピピピ! ピピピピ!……』
暗い部屋に、目覚まし時計の無機質なアラームが鳴り響いて、まもなくして止まった。
アサコは伸びもせず、無表情のまま、シーツの上で上体を起こす。時刻は夜の八時。窓の外からは、夏の夜特有の排熱を孕んだ生暖かい風が、古い網戸を抜けて入り込んでいた。夢の余韻に浸ることも、その落差に落胆することもない。ただ、〝そんな、ありもしない夢を見た〟という事実だけを無感情に収め、機械的に夜の準備を始める。
洗いざらしの白いTシャツを頭から被り、使い古したスリムなジーンズに脚を通す。そして、黒いオーバーサイズのジャンパーを羽織った。鏡はほとんど見ない。鏡の中に自分の確認すべきものなど、何一つ残っていない。夢の中の〝愛想のいいアサコ〟は、クローゼットの奥で眠っている数年前の服よりも、今の自分からは遠い存在だった。
電気スタンドのスイッチを切ると、八畳一間の生活感の欠落した部屋が闇に沈む。鴨居に等間隔に吊るされた予備の白いTシャツだけが、アサコの規律正しさを無言で主張していた。
アサコは一度だけ、闇の中に溶けた鏡の向こうへ視線を投げた。そこにはもう、花が咲いたような笑顔を浮かべる娘はいない。
「行ってきます」
足音を忍ばせ、昭和の残り香が漂う木造アパートの階段を下りる。一段ごとにきしむ木材の音を背中で聞きながら、夜の気配を全身で受け止め、アサコは今夜の仕事場へと向かう。
****
大田区、京浜トラックターミナル付近。深夜の製本工場は、冷たい蛍光灯の青白い光に曝され、糊の匂いと古紙の繊維の粉っぽさが喉の奥にへばりついていた。
「では皆さん、持ち場を確認して作業に取り掛かってください」
それぞれの作業ラインが記された貼り紙を確認して、アサコも持ち場へと向かう。名前すら呼ばれないその無機質なやり取りこそが、アサコにとっては心地よい境界線だった。作業に不要な言葉も、感情の機微も、すべて無表情のまま視界の端へと追いやった。
アサコは丁合い機のポケットへ、折り丁を絶え間なく補充し続けた。機械を止めぬよう厚みを保ち、合間に表紙をセットしては、入念な紙捌きで端を揃え、静電気を逃がす。ラインから流れる完成品への検品も怠らない。乱丁、糊のはみ出し、針金の歪み。目視よりも早く、アサコの指先がわずかな違和感を捉えては、不良品を次々と弾き出していった。
検品を終えた製品を結束し、段ボールに詰め、パレットへ積み上げる。ストレッチフィルムを巻き終える頃には、深夜の静寂を切り裂く駆動音と同期するように、アサコの精神は透明に研ぎ澄まされていた。
午前五時。終業を告げるチャイムが、出し抜けに耳を突く。人々は言葉を交わす気力もなく、すべてを出し切った後の、余韻だけを含んだ静かな足取りで、夜明け前の事務所へと戻る。着替えを済ませ、タイムカードを切って工場の出口へ向かおうとした時、背後から一人の男性社員が駆け寄ってきた。胸元のネームプレートには〝ライン長〟と記されている。
「あ……ちょっと待って。もしよかったらなんだけど、今夜ご飯でもどうかな。美味しいシーフードレストランがあるんだよね」
男は馴れ馴れしい笑みを浮かべてアサコの前に回ったが、その瞳には相手への敬意はなく、ただ都合の良い暇潰しを探しているだけだった。アサコは足を止め、男の瞳の奥を無機質に映した。
「結構です」
「いいじゃん、奢るからさ……え、あ、ちょっと!」
男が困惑したように声を上ずらせる。アサコは一瞥もくれずに男をすり抜けた。唇を真一文字に結んだまま、周囲の空気ごと相手を切り離し、無言のまま工場の門を抜ける。男の不機嫌そうなため息が背中に届いたが、それはアサコの意識の表層に触れることすらなく、朝の空気に溶けて消えた。
夢のような温かな誘いなど、現実の朝にはどこにも落ちていない。アサコはジャンパーの裾を風に翻し、湿ったアスファルトを力強く踏みしめた。
平和島駅まで歩いたが、かつて訪れた早朝食堂は「臨時休業」の札を下げ、眠ったままだった。アサコは足を止めず、落胆さえも見せず、そのまま京急線の改札に入ろうと思ったが、次の電車まで多少の時間があることに気づく。アサコは少し考えた後、踵を返し、高架沿いを大森方面へと歩き出した。
日曜日の朝。光がビルの隙間から、まるで刃物のように鋭く差し込み、長く伸びたアサコの影が、ひび割れたアスファルトを冷酷に切り裂いていた。早朝の空気は、数時間後の酷暑を予感させるような、重苦しい湿気を帯びて肌に纏わりつく。
道沿いには、シャッターを下ろしたままの中古車販売店や、古びた町工場が立ち並んでいる。日中の喧騒を予感させる広い車道も、今はまだ大型の物流トラックが時折唸りを上げて通り過ぎるだけで、静寂が支配していた。潮の香りがわずかに強まった気がした。運河が近いこの街の夏の匂いだ。
アサコは夜勤明けの火照った体を冷ますように、わざとゆっくりと時間をかけ、今朝の居場所を目指した。
辿り着いたのは、大森の路地裏に、息を潜めるように佇む鶏串割烹の店だった。日曜日の朝七時、その店は街の喧騒から隔絶されたように、静謐な佇まいを見せている。外装は、朝の光を吸い込むような漆黒の焼き杉風の板壁が垂直に並び、周囲の雑多な風景を拒絶するような重厚さを湛えていた。その一部を大胆に切り取ったかのように、切り出したままの木目を残した木製の扉が、所在なげに、しかし確かな存在感を持って嵌め込まれている。扉そのものは決して大仰な重さはない。むしろ、余計な装飾を削ぎ落とした薄い板が、精緻な職人技で収まっているような軽やかさがあった。扉の脇に掲げられた控えめな看板だけが、ここが俗世から切り離された特別な場所であることを示していた。
扉を横に滑らせ、一歩足を踏み入れると、外の蒸し暑さを一瞬で忘れさせるほどの清冽な空気がアサコを包み込んだ。
目に飛び込んできたのは、吸い込まれるような奥行きを持つ、見事に磨き上げられた白木のカウンターだった。L字型に配されたその木材は、繋ぎ目すら見えないほど精密に整えられ、格子状の天井から注ぐ柔らかな照明を受けて、絹のような光彩を放っている。店内は徹底した直線美で構成されていた。壁際に並ぶテーブル席は、計算し尽くされた角度で配置され、その背後には木の格子が美しいリズムを刻んでいる。影は深く、光は鋭い。その空間は、汚れなき一礼を強いるような静謐さに満ちていた。背後の棚には、厳選された酒器が芸術品のように整然と並び、その無駄のない配置が店主の冷徹なまでの美学を物語っている。カウンターの向こう側、奥の焼き場からは炭火の鈍い熱気がかすかな揺らぎとなって伝わってくるが、それすらもこの空間の一部として静かに収まっていた。
アサコはカウンターの端に腰を下ろし、置かれた品書きに視線を走らせた。朝の光に照らされた文字の中に、一際目を引く名前を見つける。
『朝ハイ』
どこか清々しく、それでいて謎めいた響きが、アサコの乾いた心に心地よく触れた。アサコは顔を上げ、店主を見据えた。
「朝ハイをください」
店主はアサコの注文に、丁寧な所作で応じた。
「かしこまりました」
まず運ばれてきたのは、薄く繊細なグラスに注がれた「朝ハイ」だった。氷が触れ合う澄んだ音が、店内の静寂に心地よく溶ける。
「……うん」
アサコはまず、その冷たいグラスを手の平で愛でるように包み込んだ。名前に惹かれて選んだそれが何なのか、その正体は口にするまで分からなかった。ひと口含めば、純度の高い焼酎の香りと、突き抜けるような炭酸の刺激が舌の上を走り、喉の奥へと滑り落ちていった。余計な味を一切排したアルコールの潔さに、ほんのわずかな甘酸っぱさが彩りを添えている。いわゆるプレーンチューハイと呼ばれるものだと、アサコが知る由もない。ただ、夜を徹して働き抜いた身体には、この飾りのない透明な味が、この上なく贅沢に感じられた。アサコはそのまま、誰にも邪魔されない時間の重みを噛み締めるように、朝ハイをゆっくりと喉に流し込んだ。
その時、背後の扉が横に滑る音がした。熱気を含んだ外気が一瞬だけ店内に流れ込み、白木の匂いを乱した。アサコは振り返らなかった。ただ、グラスの底で小さく弾ける炭酸の泡を眺めていた。続いて、複数の足音が店内の静寂を塗り潰すように響き始める。引きずるような靴音と、不自然に高い笑い声。日曜の朝、まだ眠りから覚めない街の中で、その一団だけが濁った熱を帯びていた。
「お、ここいいじゃん。涼しいー」
「ほとんど人もいねえな。貸し切りかよ」
男女のグループは、アサコの数歩後ろにあるテーブル席へと、乱暴な所作で腰を下ろした。彼らがまき散らす、夜を跨いできた酒の匂いと、安っぽい高揚感が店内の秩序を浸食していく。店主は眉一つ動かさず、彼らに向けて丁寧に会釈をしたが、その静謐な所作は彼らには届いていないようだった。アサコはただ、目の前の半分ほどになった朝ハイに意識を集中させた。
グラスの半分ほどを空けたところで、アサコは再び品書きへ目を向けた。品数豊富な朝食メニューが、整然とした文字で並んでいる。アサコの視線は迷うことなく、あるべき場所に吸い寄せられていった。それは、まるで答えの分かった神経衰弱を当てるかのように、極めて滑らかで、一切の逡巡を感じさせない所作だった。
「鶏ハム、ソーセージ、ポテサラコロッケを単品で」
「はい、全部で三つですね。お待ちください」
店主の返事とともに、炭火の爆ぜる音が一段と強く聞こえ、香ばしい香りが漂ってきた。やがて、小皿に乗った料理が三品、目の前に並べられた。どの単品料理も、一皿百円台という潔い価格だ。まず箸を伸ばしたのは「鶏ハム」だった。低温でじっくりと熱を入れられた肉は、淡い桃色を湛え、しっとりとした輝きを放っている。ひと口噛み締めれば、鶏の穏やかな旨味が口いっぱいに広がり、添えられた粗挽きの黒胡椒がピリリと後味を引き締めた。
次に「ソーセージ」へと移る。炭火で表面をこんがりと焼き上げられた皮に箸を入れれば、パキッという小気味よい音とともに、凝縮された肉汁が溢れ出した。燻製の香りが鼻を抜け、その脂の甘みを朝ハイの強炭酸が鮮やかに洗い流していく。
そして最後に残ったのは、アサコが密かに期待を寄せていた「ポテサラコロッケ」だった。きつね色に揚げられた衣は、驚くほど軽い手応えを返す。
……サクッ。
口から漏れた、揚げたての衣が弾ける音そのものだった。中には滑らかに潰されたポテトと、ゴロゴロとした食感を残した具材が詰まっており、ポテトサラダとしての酸味と、コロッケとしての温かなコクが絶妙な調和を見せていた。それらが、夜の間にすり減っていた「自分」という存在の輪郭を、内側からそっと書き直していくようだった。機械の部品に過ぎなかった指先に、ようやく自分だけの体温が戻ってくるのを感じた。
その時だった。背後のテーブル席で鬱陶しいほどに響いていた濁った笑い声が、不意にすぐ近くで弾けた。夜通し痛飲していたのであろう先ほどのグループの男の一人が、テーブルを離れ、冷やかし半分にアサコの背中に声をかけてきたのだ。
「ねえ、ウチらこれからもう一軒、いい店知ってんだけど、お姉さんも一緒に行かない? ひとりじゃ寂しいっしょ」
男はニヤつきながら、アサコの剥き出しの横顔を覗き込む。安っぽい合成アルコールの匂いと、垢抜けない香水の混ざった、吐き気を催すような不潔な体温。一瞬、数時間前の夢に現れた、あの〝愛想のいい自分〟が、記憶の沼から這い上がってきた。相手に合わせて微笑み、適当な相槌を打ち、場を円滑に濁す、あの空疎な自分。
だが、アサコは朝ハイのグラスを静かに置き、ゆっくりと、確かな動作で声の主へ顔を向けた。
「──」
その瞳には、怒りも、嫌悪も、社交のための憐れみも、一切の温度が宿っていなかった。ただ、極めて精巧なガラス玉のように、男の輪郭を無機質に映し出しているだけだ。
「えっ、お……なんだよ~、つれないなぁ。ウチらと飲んだらもっと楽しいって……ねえ?」
男は息を呑み、引きつった笑いを浮かべたまま硬直した。しん、と店内の空気が物理的に凍りついた。アサコは一言も発していない。人間を、不快な雑音を発生させるだけの物質として見つめ返しただけだった。
「……なにこいつ、もうほっとこうよ。怖いんだけど。関わらないほうがいいよ」
「えっ、あ……お、おう……」
女のひとりが男の袖を強く引く。男たちはアサコの端正な横顔を惜しむように、けれどその底冷えするような無言の圧力に完全に気圧され、這い寄るような足取りで自分たちのテーブル席へと戻っていった。途端に彼らの話し声はひそひそとした囁き声に変わり、店には再び、アサコが望んだ静寂が戻った。
取り戻した静寂の中で、アサコは残りの料理とグラスの最後の一滴までをゆっくりと味わい尽くし、静かに席を立った。
「ごちそうさまでした」
会計を済ませるアサコに、店主は深く、静かな敬意を込めて一礼した。
「ありがとうございました」
アサコは短く頷き、木製の扉を引いた。
店を出ると、湿り気を帯びた朝の匂いが、鼻腔をくすぐった。頭上で、空を縦に引き裂くような重低音が響き渡る。視線を上げると、鈍く光る銀色の巨大な機体が、ビルの屋上を掠めるような不自然な低空で、こちらへ迫っていた。羽田が近いこの街では、日常に溶け込んだ、しかし異様な光景だ。巨大な車輪が、獲物を狙う爪のように無機質に突き出されていた。これから遠い異国へ向けて、重力を振り切って飛び立つのか。それとも、長い旅を終えて、ようやく地上の重力へ身を委ねようとしているのか。アサコはその行方を見送ることなく、エンジンの強烈な震動を細い体に感じながら、前だけを見て歩いた。どちらであっても構わない。アサコには、アサコだけの進路と、誰にも譲ることのない静かな居場所がある。
「ただいま」
古びたアパートに帰り着き、ギィ、と鳴るベランダの戸を開ける。ここしばらく、アサコの目を楽しませてくれた鮮やかな青や紫のアサガオは、すでにその花をすべて落とし、茶色く乾いていた。枯れかけた蔓は、支柱を越えて、空中の何もない場所を掴もうとして、その形で止まっている。その姿は、役割を終えた者の潔さを纏っていた。その蔓の付け根には、黒く硬い種が、いくつも結実していた。それは、夏の光と水を限界まで吸い込み、次の季節を耐え抜くための、鎧のような硬度を持っていた。アサコはそれを見て、少しだけ満足そうに、薄っすらと目を細めた。夢に見たような、誰からも愛される「愛想のいい自分」になど、なれるはずもなかったし、なる必要もなかった。けれど、この黒く硬い種のように、ありのままの自分で明日を待つことはできる。この種の中には、またいつか、新しい朝に咲くための、静かだが確固たる力が凝縮されているのだ。
黒いジャンパーを脱ぎ、白いTシャツ一枚になったアサコは、水の入ったジョウロを手に取った。朝の光が差し込むベランダに、アサコの長い影が、静かに一輪の花のように伸びていた。
それは、朝露を浴びて咲くアサガオのように──。




