第一話 平和島の大衆食堂
図書室の薄暗い一角は、午後になると埃が穏やかに浮かび上がる場所だった。小学生のアサコは、いつも決まって同じ席に座り、静かにページをめくっていた。音は小さいのに、その場だけが世界の中心に見える瞬間が確かにあった。
中学生、高校生になっても、学校が終われば真っ直ぐ帰宅した。黒いジャンパーを椅子の背に掛け、制服から白シャツとジーンズに着替えて本を開き、イヤホンから流れるラジオをただ〝膜〟のように纏う。季節が変わってもジャンパーだけは変わらず、真冬は中にセーターを足し、真夏だろうと気にせず袖を通した。誰かや何かを特別に好むのではなく、外界と自分のあいだに薄い距離を置くのが心地よかったのだと思う。
大人になった今も、友達と呼べる存在はいない。口数が少ないのは性格というより〝習慣〟であり、人と関わる機会そのものが極端に少なかったからだ。思い返せば小・中・高の休み時間は読書、放課後は即帰宅。乗り物酔いが酷く、遠足のバスでは揺れは少ないが不人気席の担任教師の隣に自分から座った。修学旅行のグループ希望用紙は白紙で提出し、担任の配慮で〝大人しいグループ〟に混ぜてもらったが、夜に忍ぶ遊びも恋の噂話もなく過ごす。高校卒業後に上京してからは、両親とさえ会話が途切れた。読書以外に趣味らしい趣味もなく、深夜の工場で日雇いバイトの製本や仕分け、食品加工などで生活をしているだけで、昨日と今日の境目さえ曖昧なまま過ぎていく。現場が日ごとに変わるため、人間関係も定着するわけもなく。
けれど、それを不幸とは感じていない。特に人が嫌いではないし、いじめられた経験もない。ただ、自由で、気どらず、静かに生きていたいだけだ。そうして過ごすうち、気づけば大人になっていただけなのだ。
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「はい、三十分間の休憩に入ってくださーい」
機械が止まり、製本工場に薄寒い静けさが広がる。蛍光灯はわずかに明滅し、製本用の糊や紙粉、油の混ざった乾いた匂いが喉に薄く貼り付いている。作業着姿のアサコは、どこかミステリアスに見えた。ミディアムショートの黒髪は前髪がゆるく流れ、毛先は少し内に巻いている。切れ長の二重と透き通る白い肌は、どれだけ地味な作業着でも目を引いた。
まともな休憩所がない現場なので、積まれた木製パレットに腰を下ろし、アサコは落丁の『神社特集』のムック本を読んでいた。そこへ作業着の男がやってきて、アサコを見下ろしながら声をかけた。
「君、ここはじめて?」
実際には二回目だったはずだが、アサコは本から目を上げず、軽く頷く。
「この現場、他に女の子が少ないから寂しいでしょ?」
アサコは首を横に二度振る。
「週にどれくらいバイト入ってるの?」
「……一回とか、二回とか、三回とか」
返事をきっかけに、作業着の男は〝しめた〟とばかりに横へしゃがみ込もうとしたが、それとほぼ同時に本をパタリと閉じたアサコはスッと立ち上がり、無言でその場を離れた。たとえその相手が、現場の課長だろうと関係ない。距離を取るという行為そのものが、彼女の意思表示なのだ。
午前五時。終業の構内放送は、空気から眠気だけを切り離すように鳴った。事務所には茶封筒が横一列に並び、名前が呼ばれるたび、小銭が触れ合う微かな音がする。バイトらの無機質な表情から、封筒は喜びをしまう袋ではなく、今日という現実を受け取るためのもののように見える。アサコはそれをリュックの内ポケットに滑らせ、黒いジャンパーのジッパーを上げた。肌寒いとはいえ、季節は初夏だというのに、彼女はいつものように迷いなく袖を通す。袖口には糊の細い筋が一本固まって光っている。親指でそっと剥がすと、乾いた糸のようにするりと取れた。
外に出ると、夜の名残りが冷えとして残っていた。国道の向こう側が薄く明るく、大型トラックが通るごとに足元の白線が風で震えるように見える。遠くで清掃車が路面に水を撒き、濡れたアスファルトの匂いが鼻に付いた。近くの自販機は「ヴゥゥ……」と内部のモーターを小さく唸らせ、わずかな熱で空気を揺らしている。
歩幅はいつもどおりなのに、靴底の摩擦音だけが耳に残る。道端のガードレールには昨夜の雨粒が点々と残り、電柱の影が朝焼けの角度で長く伸びている。
小さな運河を渡ると、鉛色の水面の下からうっすらと潮の匂いが上がってきた。船溜まりのロープがゆっくり軋み、背後のカラスが間延びした声で鳴く。ビルの壁をヘッドライトが走り、窓ガラスに黒ジャンパーと白シャツ、ジーンズ姿の自分がぼんやりと映った。頬に触れる髪を耳へ払う。ふいに、空腹の音を遠くに感じた。
二十分歩いて『平和島駅』に辿り着いた。改札の電光掲示板が淡く瞬き、数字の点滅がアサコの目の奥に小さく映る。改札に入ろうとしたその時、視界の端に古い灯りがともった。
くたびれたテント、色の抜けた暖簾、〝お食事処 そば・うどん〟の文字。店先から甘くてしょっぱい湯気が朝の冷気を割って漂い、さっきより近くでお腹が鳴るのが聴こえた。外食というものにほとんど縁がないけれど、躊躇いは図らずも一瞬だった。暖簾を持ち上げると、布に染み込んだ時間がふわりとアサコのか細い手の甲に触れた。
店内は煤けた細長い空間。緑色の丸イスがカウンターに並び、奥にはテーブル席がいくつかある。床のわずかな傾きに合わせてサラダ油缶が置かれ、セロハンテープで何度も補修されたポスターの端がゆるく浮いている。金属のレードルが鍋肌に当たる音、出汁の湯が弾ける音、新聞紙がめくれる擦過音。小学校の給食室の記憶──混ざった匂い、立ち上る湯気、三角巾のおばちゃんが自然と蘇る。
「お姉ちゃん、ひとりかい? 奥のカウンター空いてるよ」
案内された一番奥の席は、クッションが薄く、座ると小さいお尻にひやりとした板の感触が返ってくる。カウンターの角は指先に柔らかく、長年の手脂で木目が丸く光っていた。無表情ながらも、どこか高揚感が否めないアサコだった。
「何にします? お酒もあるよ」
……朝からお酒という問いかけに、一瞬だけ疑問がよぎる。けれど、このあとに予定はない。そもそも、いつだってない。ただ、自分は酒に強いという感覚だけは、根拠もなく身体に染みついている。それが本当かどうか確かめたこともないのに、高揚感が静かに背中を押した。
「ビールを」
「瓶でいいかしら?」
「ええ、はい」
瓶がいいのか悪いのかなんて、アサコには分かるはずもない。栓抜きの乾いた音が鳴り、瓶とグラスが置かれる。琥珀色の液体を注ぐと泡がふわりと盛り上がり、ひと筋がグラスの外を伝った。指の腹に冷気が集まり、掌の中心が目を覚ます感じがする。
「……」
珍しく感情が漏れた。グラスの縁を口に当てると、喉を通る冷たさが胸のあたりを静かに広げ、乾いた朝の空気に小さな輪が描かれる。その輪の先には、壁いっぱいの短冊メニュー。〝忘れないで〟と言わんばかりに胃のあたりが「きゅう」と小さく鳴いた。油染みのメニューの文字をしばらく眺め、アサコは決心した。
「肉じゃがと、チャーシューを」
肉と肉だったことに、しばらくして気付いた。厨房の奥でコンロの火が点く音が鳴り、漂う出汁の匂いに胃がまた小さく訴え、静かな期待だけが席の周りを温めていった。
やがて「熱いから、気を付けてね」と肉じゃがが届いた。湯気がほわっと立ち上がり、甘じょっぱい香りが食欲を揺らした。アサコは黒ジャンパーを脱いで白いシャツになり、手首のヘアゴムで髪を後ろに束ねる。襟足に触れる空気が少し涼しく感じられる。
「いただきます」
じゃがいもを割ると芯から湯気が上がり、口に運ぶと、ほくほくの食感に出汁醤油がじんわり染みた。噛むたびに柔らかい角が舌先で溶け、やはり幼い頃の給食時間が薄い色で蘇った。
その時、背後で大きな声が店内を響かせた。
「ねぇ、おばちゃーん! ここ、空いてる?」
品の悪い恰好をしたオジサンと、年配の小柄な男性が入ってくる。客の何人かがちらりと視線を上げ、またすぐに戻した。「めんどくさそうなのが来た」という心の声が、客席からも厨房からも聴こえてくるようだ。オジサンは五十代後半くらいで声は異常に大きく、わざと音量を上げているのが分かる。小柄な男性──「金子」は、肩をすぼめ、店内の視線から逃げるように暖簾の影に立っていた。
「ほら金子サン、座った座った。誘ったのはアンタなんだからさぁ」
「……はぁ、すみません」
金子の声は、湯気に紛れて消えそうだった。二人はアサコの後ろのテーブル席に腰を下ろした。オジサンは椅子にドスンと座り、金子はその衝撃で肩が少し跳ねた。その反応の仕方が、初めてではないことを物語っていた。まるで、何十回も同じ場面を繰り返してきたかのように。
「で? なんの話? こんなに朝早くにさぁ。俺、あんまり寝てないんだけど。ほら、話したいことあるんでしょ?」
「い、いえ……その……」
金子はメニューを持つ手を震わせ、文字を追うふりをしたが、言葉が喉の奥で固まっているようだ。
「おばちゃーん! とりあえず瓶ビール二本! あと俺はカツ丼! 金子サンは? あ、どうせまた蕎麦でしょ? いつも安い蕎麦だもんなぁ!」
「ええ……じゃあ、蕎麦で」
「ほら見ろ! 俺、部下の好み全部覚えてんのよ。な? こういうの大事だろ? 社長としてさぁ!」
金子は苦笑いを浮かべたが、目は完全に死んでいた。おばちゃんがそっと横から瓶ビールとふたつのグラスを置き、少し不機嫌そうに立ち去った。
「で、話って?」
「……いえ、あの……いや、また今度で……」
「はぁ? せっかく来たのに? まあ、酒でも飲んでさぁ~。俺、聞く気満々なんだから!」
オジサンの声がまた一段階大きくなる。金子は椅子から立ち上がりかけた。
「す、すみません……やっぱり今日は……」
「おいおい、何言ってるの? まだビールしか来てないじゃん!」
二人をよそに、アサコの元へチャーシューがやってきた。キャベツの上に大ぶりが四枚、さらに白ねぎ。箸で持ち上げるとずっしり重く、噛んだ瞬間、肉汁が溢れて舌の上でとろりとほどける。脂の甘さをビールで流すと香りが鼻に戻り、胸の中の輪がもう一回り大きくなった。
「おばちゃん、便所借りるよ!」
という宣言は、店内の空気をますます白けさせたが、アサコはまるで風鈴の音でも聞いたかのように微動だにしなかった。やがてオジサンがトイレから戻る途中でアサコの横顔に「オッ」とした表情で気づき、洗った手をズボンで拭きながらジロジロ見る。
「俺もチャーシュー頼もっかなぁ~?」
わざとこちらへ投げる声。ただ、アサコは姿勢正しくグラスにビールを足し、泡の高さを揃えるだけである。
「おねーちゃんさ、ここら辺の人?」
アサコのグラスが一瞬口元で止まり、湯の沸く音、皿の重なる音、伝票を切る音、隣の客が喉で息を押し込む音が層のように重なって聞こえた。
「俺、この店けっこう来るけどさぁ、初めて見るねぇ? こっち来れば? 好きなもん頼んで……」
「結構です」
食い気味のアサコの返事は短く、声は低く穏やかだった。空気がいったん縮み、チャーシューの湯気がその異変を捉える。アサコの背中には、自然と店中の視線が集まっていた。
「だってさ、ほら、せっかく──」
「その人、困っています」
アサコは顎だけ、金子の方へ小さく示した。金子の肩がぴくりとすくむ。十分な答えだった。
「はあ? なに言ってんの? 俺たち仲間だよ? ずっと同じ釜の飯、食ってんだよ? なぁ金子サン!」
厨房の鍋がトン、と置く音が店内に響いた。アサコはグラスを静かに置き、輪郭のはっきりした小さな声を落とす。
「じゃあその火が強い。釜が焦げる前に、離したほうがいい」
沈黙──が、店内を包んだ。金子の持つグラスの水面が、わずかに揺れた。オジサンは笑い直そうとして、口角がうまく上がらない。
「……な、なんだよ? 俺は、ただ相談に──」
アサコは首を少し後ろに回して、金子に目を向けた。逃げ道を用意しないが、刺さらない眼差し。
「言えますか」
小さく、ゆっくりとした頷きが返ってくる。
「会社を辞めます。今すぐに。アンタには、もうウンザリだ」
「は……」
オジサンは動揺を隠そうと口を開いたが、出てきたのは取り繕いとも言えない、どこか空回りした声だった。
「か、会社……辞める? またまた~、会社だけに──かいしゃん(解散)! ……なんちゃって」
ダジャレは見事に滑り、それは誰にも拾われなかった。おばちゃんはもちろん、店内の誰もくすりとも笑わず、箸を淡々と進める。そんな無反応が一番効く。
「ごちそうさまでした」
アサコが沈黙を破り、会計皿を自分の方へ寄せ、端数をすっと揃えた。静かな所作が、場の終わりを決める合図になる。オジサンは口を開きかけ、閉じて、そそくさと自分のテーブルにお札を数枚置いた。耳を真っ赤にしたオジサンが逃げる様に店を去ると、静けさは元の形に戻った。
金子はグラスのビールを一気に飲み干すと、アサコに深く頭を下げた。アサコも、わずかに会釈する。おばちゃんはどこか誇らしげに笑い、「ありがとね……うるさくて、ごめんよ」と言った。
レシートの端には丸い店の印があり、中央のかすれがアサガオのように見える。アサコはそれをそっと財布にしまい、髪留めのゴムを外した。暖簾を押すと、外はもう夜ではない。ビルの外壁に薄い桃色が乗り、自販機の前でハチワレの猫が伸びをした。駅の方から発車チャイムが鳴り、線路の向こうから風がひと筋、ジャンパーの襟へ潜り込む。首筋に触れる空気は、さっきより柔らかく感じられた。
大人になっても、趣味ややりたいことは何ひとつ見つからなかったはずなのに、朝焼けの時間に、ずっと独りぼっちだったアサコの中で、静かに踏み出す足の形だけが花開いたような気がした。
それは、朝露を浴びて咲くアサガオのように──。




