第3話『熊だな』
午前九時過ぎ。
対策本部の朝は、いつもより静かだった。
山の天気は安定している。
風も弱く、雨の気配もない。
それでも、室内には微妙な緊張が漂っていた。
固定電話が鳴る。
芽生は、反射的に受話器を取る。
「はい。指定有害生物対策部です」
『グンマー県警です。情報共有をお願いします』
その一言で、空気が変わった。
声は落ち着いている。
落ち着きすぎている、とも言えた。
『市内の女子高生が、昨日の下校後から行方不明です』
芽生のペンが止まる。
「昨日から……ですか」
『はい。帰宅していません』
部屋の隅で、比屋根が視線を上げた。
何も言わない。
だが、周囲の動きが一斉に止まる。
『通学路は、山際の生活道です』
その瞬間、芽生ははっきりと感じた。
これは、ただの行方不明じゃない。
「山際……」
『今朝、保護者から正式に捜索願が出ました。現在、警察が捜索中です』
芽生は、確認するように聞く。
「事件性は……?」
『現時点では不明です』
その“現時点では”という言い方が、重かった。
『家出の可能性は低いと見ています。成績良好。素行不良なし。家庭環境も安定で失踪理由が見当たりません』
芽生は、窓の外を見る。
山は、いつも通り静かだ。
『念のため、御部署にも共有しました』
念のため。
芽生は、その言葉を反芻する。
念のため、指定有害生物対策部に?
通話が切れる。
受話器を置いた瞬間、比屋根が、間を置かずに言った。
「……熊だな」
芽生は、思わず顔を上げる。
「え……?」
比屋根は、淡々と続ける。
「行方不明の段階で、ここに連絡が来る理由は一つだ」
原部長が、低く補足する。
「警察は、もう答えを見てる。公表前に、こっちも準備しろってことだ。すでに猟友会も、警察側で動いてるだろう」
芽生の胸が、きゅっと縮む。
「……それって……」
原は、首を横に振る。
「断定はしない。だが、覚悟はする」
山は、今日も変わらない。
だが、芽生には分かる。
これは、始まりだ。
まだ誰も口にしていないだけで、
全員が同じ結論に辿り着いている。
*
正午を少し回った頃。
対策本部は、妙な静けさに包まれていた。
警察からの電話は鳴らない。
無線も沈黙している。
だが、それは「何も起きていない」という意味ではなかった。
芽生は、机の上に広げられた地図を見つめていた。
赤いピンで示された学校。
そこから、山際の生活道へと延びる細い線。
昨日、その道を通って下校した少女は、戻ってきていない。
「……続報は、まだですか」
芽生の声は、自然と小さくなる。
比屋根は、地図から目を離さずに答えた。
「すでに警察は動いてる」
原部長も、窓の外を見たまま言う。
「猟友会もな」
芽生は、思わず顔を上げる。
「……女子高生が見つかっていないのに?」
比屋根が、低く息を吐いた。
「行方不明の段階で、ここに連絡が来た理由を考えろ」
芽生は、言葉に詰まる。
「それは……念のため、じゃ……」
比屋根は、首を横に振った。
「違う。警察は、もう見つけている」
芽生の指が、止まる。
「……見つけている、って?」
比屋根は、淡々と続けた。
「遺体。もしくはそれに近い何かだ。だから熊を疑った。そうじゃなきゃ、猟友会には話が行かない」
芽生は、思わず息を呑む。
「ええ……」
原部長は、否定しない。
「まだ公表前だ。確定前でも、動く時は動く」
比屋根は、視線を地図に落としたまま続ける。
「朝の時点で、警察はもう“答え”に近いものを持ってたんだろう。だから、俺たちに連絡を入れた。俺たちにも準備させるためだ」
芽生は、何も言えなかった。
午後一時過ぎ。
固定電話が鳴る。
芽生が受話器を取る。
「指定有害生物対策部です」
『警察です』
声のトーンは、朝よりも低い。
『……若い女性の遺体を発見しました』
芽生の胸が、強く打つ。
「場所は……」
『山際の生活道から、少し入った斜面です』
比屋根が、短く息を吐く。
「ほらな」
『遺体の損傷が激しく、身元の特定は困難です。ですが、着衣や持ち物から行方不明の女子生徒と一致しているので本人とみています』
「あの……猟友会への正式要請は?」
『すでに行っています。警察立ち会いで』
その返答に、誰も驚かなかった。
『大型獣の足跡を確認しています。足跡から子連れの可能性もあります』
比屋根が、舌打ちする。
「最初から、その線で動いてたな」
原の声が沈む。
「最悪の条件だ」
芽生は、かすれた声で聞く。
「……熊の親子ですか」
原は、即答した。
「子熊も残さない」
比屋根も、淡々と続ける。
「人を襲ったら終わりだからな」
*
午後三時過ぎ。
無線が短く鳴る。
原が受信機を取る。
数秒、無言で聞いたあと、低く答える。
「……了解」
通信が切れる。
原は、はっきりと言った。
「付近を捜索中に熊の親子を確認。警察立ち会いのもと、猟友会が駆除したとのことだ」
「……!」
芽生は席を外していた。
戻った瞬間、室内の空気が凍っているのが分かった。
「母グマと子グマ、両方だ」
室内が、静まり返る。
「逃げた個体はなし。発砲も複数。確実に仕留めてる」
芽生は、ゆっくりと息を吐いた。
熊は、もういない。
だが、胸の奥が冷える。
比屋根が、ぽつりと言った。
「最初から、終わってた案件かもしれんな」
芽生は、言葉を失った。
「……」
原部長も、それ以上言わない。
否定もしない沈黙が、その言葉を裏付けていた。
原部長が、静かに言う。
「ここからが、俺たちの仕事だ」
芽生は、理解する。
自分たちは、 “これから起きる事件”ではなく、“もう起きてしまったこと”の後始末をしている。
芽生は、ただ頷くことしかできなかった。
*
午後四時過ぎ。
対策本部を出た一行は、無言でスーツに袖を通した。
黒ではない。
だが、私服でもない。
仕事の色だった。
「行ってきます」
という言葉も、
「お疲れさま」
という言葉も、誰の口からも出なかった。
比屋根が運転する車に乗り込む原部長と芽生。
胸元には農林水産省のプラカード。
庁舎の前には、すでに地元役場の責任者と顧問弁護士、警察が揃っていた。
形式的な会釈。
短い確認。
誰も、事件の話はしない。
「……じゃあ、行きましょう」
それぞれの車は、静かな住宅地へ向かう。
芽生は後部座席で、窓の外を見つめていた。
住宅街の向こうに、山の稜線が見える。
ただ、そこに熊がいただけ。
比屋根の言葉が、頭の中で何度も反響する。
芽生の地元には、
「熊注意」
の張り紙なんてなかった。
通学路にも、駅前にも、そんな警告は一枚もなかった。
熊は、ニュースの中の存在だった。
遠い山奥の話で、自分の生活とは切り離された存在だった。
「……昔はな」
前の席から、比屋根の声が落ちてくる。
「熊が人里に出てくるなんて、そうそうなかった」
誰に向けた言葉でもない。
感情のない、事実の列挙。
「人が増えて、道を作って、山を削って……。境目が、なくなった」
芽生は、何も言えなかった。
それが理由だとしても、それでこの現実が正当化されるわけがない。
車は、一軒の家の前で止まる。
静かな住宅地だった。
洗濯物が揺れ、夕飯の支度をする匂いが漂っている。
その中に、 “今日、時間が止まった家”があった。
そこに役場の責任者、顧問弁護士、農水省の職員が揃った。
玄関の前で、原部長が一度だけ深く息を吸う。
「……行くぞ」
チャイムを押す。
しばらくして、扉が開く。
中から現れた母親は、一枚の写真を胸に抱えていた。
高校の入学式。
校門の前で撮られた一枚。
真新しい制服に身を包み、少し照れたような、かわいらしい笑顔の少女。
芽生の胸が、強く締め付けられる。
まだ、こんなに子どもなのに。
自分より、ずっと若い。
これからの時間のほうが、圧倒的に長いはずだった女の子。
父親も、少し遅れて玄関に姿を現す。
背筋は伸びているが、目の焦点が合っていない。
原部長が、一歩前に出る。
「……この度は、心よりお悔やみ申し上げます」
その言葉が、やけに重く、空間に落ちた。
母親は、何度も小さく頷いた。
父親は、深く頭を下げる。
誰も、すぐには次の言葉を続けられない。
沈黙が、長く伸びる。
芽生は、ただ立っていた。
写真の中の少女は、これから始まる高校生活を疑いもしない顔で笑っている。
その未来が、もう存在しないという事実を、芽生の頭は理解している。
それでも、心が追いつかなかった。
父親が、低い声で口を開く。
「……娘は」
それだけだった。
それ以上の言葉が、どうしても続かない。
原部長が、ゆっくりと頷く。
「本日は、まずお話だけさせてください」
芽生は、両親の前に立ちながら、自分が“国家の側”にいることを、初めて強く意識していた。
*
居間に通されると、すでに空気が少し変わっていた。
母親は、先ほどの写真をそっと机の上に伏せ、父親は、背筋を伸ばしたまま椅子に座っている。
原部長が、静かに口を開く。
「現場については、すでに警察からご説明があったかと思います」
父親が、小さく頷く。
「……現場写真で顔は、確認しました。娘はいつ帰ってくるのでしょうか。」
声は落ち着いていた。
だが、指先はわずかに震えている。
母親は、何も言わなかった。
ただ、娘の写真が入ったフォトフレームを握りしめる。
原部長は、続ける。
「損傷が激しいため、ご遺体は、直接お見せしない方向で警察が判断しています。遺族の精神的なご負担を考慮しての配慮です」
芽生は、その言葉を聞きながら、
胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。
遺族に遺体を見せない、という選択。
それは優しさでもあり、同時に、現実から目を逸らすための装置でもあった。
原部長が、視線を落とす。
「熊による損壊は、確認されています」
母親が、わずかに身を強張らせる。
「ただし……お嬢さんが滑落した後に熊が損壊したのか、あるいは熊に直接襲われたのか。現時点では、断定できません」
父親が、低く息を吐いた。
「ご遺体は検死に回し、直接の死因を確認します。その後、速やかに警察側で火葬の手続きを取ります。」
「……」
「警察で、ご遺体を長くお預かりすることはありません。なるべく早くご家族の元へお嬢様が帰宅できるようにいたします」
母親の唇が、かすかに動く。
「……もう、十分です」
その言葉は、拒否ではなかった。
受け入れだった。
その場に、行政の顧問弁護士が一歩前に出る。
声は穏やかで、感情の起伏を一切含まない。
「ここからは、今後の扱いについてご説明します」
遺族が目線を落としたまま頷く。
「結論から申し上げますと、この件は不慮の事故として扱う形が、ご遺族にとって最も負担の少ない選択になります」
父親が、静かに顔を上げる。
「……事故、ですか」
「はい」
弁護士は、資料を広げる。
「熊による被害が出ていることは事実です。しかし、死因が熊によるものかどうかは、検死結果が出るまで分かりません」
芽生も黙って聞く。
「一方で、通学中の事故という扱いにすることで、学校保険、自治体の見舞金、各種共済からの給付が受けられます。金銭的な補償が、熊被害として扱われるより大きくなります」
芽生は、思わず目を伏せた。
“金額”という言葉が、この場にあまりにも生々しく響いたからだ。
弁護士は、淡々と続ける。
「熊は、支払い能力がないため損害賠償の対象になりません。それを誰かの責任として問うこともできません。一方で通学中の事故として扱うことで、行政として最大限の支援が可能になります」
沈黙が落ちる。
母親が、小さく口を開いた。
「……熊被害、ということになるとお金以外も大変でしょうか?」
声は、かすれていた。
弁護士は、否定しなかった。
「まずマスコミが動きます。地域も混乱しますし、駆除をしたことで『なんで熊を殺したんだ』、という声が上がる可能性もあります」
「……そんな」
「残念ですが、そうした中で、お嬢さんの行動が心ない言葉で扱われることもあり得ます」
母親は、ぎゅっと目を閉じる。
「……あの子が、何か悪いことをしたみたいに言われるのは……」
父親が、静かに言った。
「それは、耐えられない……」
弁護士は、うなずく。
「事故として扱えば、そうした混乱は最小限で済みます。被害者も遺族の名誉も守られて、地域も、学校も、静かにお見送りができます」
原部長が、補足する。
「現場付近には、子猫の足跡も確認されているそうです」
母親が、はっと顔を上げる。
「……猫、ですか」
「おそらく、お嬢さんは、その子猫を助けようとしたのではないかと」
「滑落の可能性としても、十分に考えられます」
母親の目から、涙がこぼれ落ちる。
「……あの子らしい」
父親も、目を伏せる。
「……そういう子でした」
芽生の胸が、強く締め付けられる。
心優しい行動が、こんな結末を招いた。
それでも、その“物語”は、この場にいる全員にとって、あまりにも都合が良かった。
沈黙の中で、書類が差し出される。
母親の手は、震えていた。
誰も、急かさない。
だが、誰も止めない。
芽生は、その光景を、ただ黙って見ていた。
正義かどうかは分からない。
けれど、この選択が遺族にとっても、行政にとっても、警察にとっても、
“一番傷が少ない”ことだけは、はっきりと分かってしまった。
それが、この仕事の答えだった。
*
数日後。
対策本部に、警察の車が止まった。
すでに捜査は終わっている。
事件性なし。
事故扱い。
検死は最低限で打ち切られ、遺体は警察の判断で速やかに火葬された。
それで、この件は終わったはずだった。
刑事は、原部長の前に立ち、一呼吸置いてから口を開いた。
「……追加の報告です」
声に感情はない。
だが、その場の空気だけが、わずかに張りつめる。
「駆除した子グマの体内から、被害者の所持品が見つかりました」
芽生は、無意識に背筋を正していた。
「胃の内容物です」
机の上に、小さなビニール袋が置かれる。
中に入っていたのは、一本のヘアピンだった。
歪み、噛まれた痕が残り、金属部分には消えない傷が刻まれている。
比屋根が、低く言った。
「……親の行動を見て、同じものを口にしたな」
誰に向けた言葉でもない。
「人間の味を覚えた個体は、成獣でも、子供でも関係ない。放置すれば、次は別の誰かがやられる」
原部長は、ヘアピンから視線を外さず、短く言った。
「駆除は、正しかったんだ」
比屋根が芽生に言う。
それは正当化ではない。
業務としての結論だった。
刑事は続ける。
「事件扱いではありません。遺族への返却については、農水省指定有害生物対策部の判断に委ねます」
それが、この案件の最終線引きだった。
*
さらに数日後。
事故扱いで進めることに、遺族が正式に同意したという。
芽生は、再びその家を訪れた。
玄関を開けた母親は、以前よりもさらにやつれていた。
父親は、深く頭を下げる。
居間に通された芽生は、深く息を吸ってから言った。
「……警察から対策部でお預かりしていたものです」
差し出したビニール袋の中を見て、母親は、ほんの一瞬で理解した。
「あ……」
声にならない音が漏れる。
「それ……いつも娘がつけてた……」
母親は、震える指でヘアピンを取り出し、胸に押し当てた。
次の瞬間、その場に崩れ落ちる。
「……痛かったね……」
嗚咽混じりの声。
「熊のいる場所で暮らしてて……ごめんね……」
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返す。
父親は、しばらく何も言わずに俯いていた。
やがて、絞り出すように口を開いた。
「……うちは、元々、東亰に暮らしていました」
芽生は、顔を上げる。
「娘が、小学校に入学する直前に……自然のある場所で、子供をのびのび育てたいと思って……ここに移住しました」
父親の声は、静かだった。
だが、深く沈んでいた。
「こんなことになるなら……。ずっと、都会で暮らしていればよかったのかもしれません」
その言葉に、誰も返す言葉を持たなかった。
芽生は、遺族の顔を、その光景を一生忘れないだろうと思った。
忘れてはいけないのだと、はっきり分かってしまった。
*
帰りの車内。
比屋根が、前を向いたまま言う。
「これも指定有害生物対策部の仕事だ。命を奪う判断も……こうして、渡す判断もな」
芽生は、静かに頷いた。
この仕事は、人を守る仕事であり、同時に人の人生の“最後”に立ち会う仕事でもある。
山は、今日も変わらずそこにある。
熊も、人も、何も語らない。
ただ、選ばれた判断だけが残る。
芽生は、国家公務員としての仕事の重さを、頭ではなく身体で覚えてしまった。
その感覚は、これから先、どんな案件を処理しても消えることはないだろう。




