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新卒エリート国家公務員の指定有害生物対策日誌【じちまか外伝】  作者: shizupia


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第2話『これは戦争だ』

入省二日目。

山の朝は、静かすぎて落ち着かなかった。

目覚まし時計が鳴る前に、芽生は目を覚ましていた。

鳥の鳴き声。

風が木々を揺らす音。

遠くで、何かが枝を踏み折るような、鈍い物音。

女子寮として生活を始めた古民家には他に誰もいない。

木目模様の天井を見つめながら、芽生は息を整える。

畳の匂い。

夜の冷えがまだ残る空気。

夢じゃない。

昨日、比屋根の運転する車で山奥に連れてこられた。

比屋根課長に「戦場だ」と言われた。

原部長から「生き残れ」とも言われた。

それでも、どこかで思っていた。

今日はまだ、何も起きないだろう、と。


前日のうちに麓のスーパーで買っておいた食材で、簡単に朝食を済ませる。

ネットスーパーは配達エリア外。

地主から借りている商用車を部の職員が運転して、店まで案内してくれた。

その時、田舎は店が閉まるのが早いと聞いていたが、想像以上だった。

夜の21時を過ぎれば市街地も深夜のような静けさ。

新卒で入省したばかりの芽生にとって、仕事終わりに暗くなった山道を上り下りする気には、どうしてもなれない。

休日の昼間ににまとめて買い物をしようと心に決めた。

そんなことを考えつつ、歯を磨きながらスマートフォンを見る。

電波は相変わらず不安定だが、生活に必要な設備や家具だけは一通り揃っていたのが救いだった。

ニュースアプリに、短い通知が表示されている。


《グンマーで熊出没 猟友会が緊急対応》


写真はない。

詳細もない。

文字だけの記事。

芽生は画面を伏せ、深く息を吐いた。

対策本部と呼ばれる小屋に向かうと、すでに比屋根がいた。

作業着姿で、コーヒーを飲みながら書類に目を通している。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


感情の起伏が見えない声だった。


「今日から何を……」


言い終わる前に、比屋根が口を開く。


「今日は電話番」


一瞬、意味が分からなかった。


「……電話番、ですか?」


「そう。コールセンター」


コールセンター。

指定有害生物対策部。

農林水産省。

言葉が、頭の中でうまく噛み合わない。


「猟友会への挨拶回りとか、資格の話とかは……」


「それも順番にやる。まず今日はこれだ」


比屋根は、机の上にメモ帳を置いた。


・通報受付


・問い合わせ対応


・苦情対応


・謝罪対応


最後の二文字が、やけに太く書かれている。


「こっちから余計なことは言うな」


コーヒーを一口飲んでから、淡々と続ける。


「説明もしない。反論もしない。ただ謝るだけ」


「……それで、いいんですか?」


比屋根は、ようやく芽生を見る。


「いいんだ」


即答だった。


「理解してもらおうとするな。理解なんてされないから」


声には、迷いも怒りもない。

ただ、長く現場にいた人間だけが持つ断定だった。


「『ご不安をおかけして申し訳ありません』『ご意見は上に伝えます』それだけでいい」


「熊の駆除について、ですよね……」


「そう。テレビを見て電話してくる連中が相手だ」


芽生は、喉の奥が少し乾くのを感じた。


「ここが受けるのは、現場の通報だけじゃない」


比屋根は続ける。


「本来、役所に行くはずの電話も、全部ここに来る」


「……どうしてですか?」


「役所が潰れるからだ」


事もなげに言われて、言葉を失う。


「地元の役所は人が少ない。苦情電話が一日中鳴ったら、もう仕事にならん」


だから、ここで受ける。

ここが盾になる。

芽生は、ようやく理解し始める。

この部署は、熊と戦う前に、人と戦わされる場所なのだ。

机の上の電話は、まだ鳴っていない。

それなのに、胸の奥がじわじわと重くなる。

山は、今日も静かだ。

だが、この静けさの裏で、何かが確実に動いている。

電話は、まだ鳴らない。

それが、ひどく不気味だった。



電話は、前触れもなく鳴った。

山の静けさを切り裂くような、古い固定電話のベル音。

電子音ではない、どこか時代遅れな響きが、やけに耳に残る。

芽生は、反射的に背筋を伸ばした。


「じゃあ出てみて」


比屋根は書類から目を離さずに言う。

受話器を取る指先が、わずかに冷たい。


「はい、指定有害生物対策部です」


一拍。

次の瞬間、耳元で声が弾けた。


『あんたたち、何考えてるの!?』


思わず受話器を持つ手に力が入る。

だが、芽生は息を吸い、声のトーンを落とした。


「ご意見承ります」


『テレビ見たわよ!熊を撃ち殺したって!あれ、殺処分でしょ!?』


比屋根の言葉が、頭の中で反復される。

最後まで聞け。

反論するな。

とにかく謝れ。


「はい。大変申し訳ありません」


『熊だって生きてるのよ!?人間の都合で勝手に殺して!』


「おっしゃる通りです」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


『山に入ってきたのは人間でしょう!?』


「ご意見、確かに承ります」


怒号は、止まらない。

感情だけが、次々と投げつけられる。

芽生は、相槌を打ち続ける。

声を荒げず、言葉を挟まず、ただ受け止める。

二十分ほど経ったころ、相手の声が少し疲れた。


『……もういいわ』


ガチャリ、と電話が切れる。

芽生は、しばらく受話器を置けずにいた。


「……上手いな」


比屋根が、初めてこちらを見る。


「反論しなかった。説明もしなかった」


「……はい」


喉が少し渇いていた。


「前に、こういう仕事してた?」


「いえ……アルバイトは家庭教師でした」


比屋根が、少し意外そうな顔をする。


「電話対応は、特に……」


芽生は、一瞬だけ言葉を探してから答えた。


「ただ両親が、よくこういう電話を受けていたので」


「ご両親が?」


「はい。父は地域センターの所長で、母は小学校の教師です」


比屋根は、ふっと息を吐く。


「なるほどな……」


芽生は、少しだけ視線を落とした。


「休日でも、急に電話がかかってきて……ひたすら謝ってる姿を、子どもの頃から見ていました」


苦情。

理不尽な怒り。

説明が通じない相手。

それらを、家庭の中で見て育ってきた。

比屋根は、静かに言う。


「つまり……公務員家庭か」


次の電話は、間を置かずに鳴った。

今度は、男性の声だった。


『熊の駆除は、どこの判断だ?』


冷静だが、圧がある。


「詳細につきましては……」


『責任の所在をはっきりさせろ』


芽生は、一瞬だけ唇を噛みそうになる。

だが、声は揺れない。


「ご不安をおかけしてしまい、申し訳ありません」


『不安じゃない。怒っているんだ』


低い声が、耳に残る。


『そうやって自然を管理してるつもりか?』


芽生は、何も言わない。


「ご意見、確かに承りました」


電話は、短く切れた。

午前中だけで、十件以上。

ほとんどが、自然の少ない都会からだった。

安全な場所から、山を知らないまま、声だけを投げてくる人間たち。



昼過ぎ。

電話が一段落した頃、外で車の音がした。

芽生が顔を上げると、比屋根がちらりと時計を見る。


「来たな」


「……何がですか?」


返事の代わりに、ドアがノックされる。

入ってきたのは、スーツ姿の中年男性たちだった。

地元役場の所長と環境整備課の部長たちだった。

いずれもネームプレートをぶら下げて、場違いなくらいきちんとした身なりをしている。


「本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」


先頭の男が、そう言って深く頭を下げた。

芽生は、思わず立ち上がった。


「え、あ、いえ……」


だが、男たちは芽生に向かって、もう一度、揃って頭を下げる。


「本日は、江村課長補佐にご挨拶に参りました」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

課長補佐。

それは、確かに自分の辞令に書いてあった肩書きだ。

けれど。


「あの……私、まだ何も……」


思わず出た言葉を、比屋根が咳払いで止める。


「君が農水省から来た官僚だからだよ」


耳元で、低く囁かれた。

芽生は、ようやく状況を理解する。

地方公務員のトップ層。

地域の実務を担う人間たち。

その人たちが、新卒国家公務員二日目の自分に頭を下げている。


「日頃より、対策部の皆様には大変お世話になっております」


「いえ、こちらこそ。何かありましたらいつでもご連絡ください」


比屋根が色黒の健康的な笑顔を見せる。


「指定有害生物の対応は、役所も頭を悩ませているところで……本当に助かっています」


男たちは、丁寧に言葉を選びながら話す。

その視線は、一貫して芽生にも向けられていた。

芽生は、背筋が凍るのを感じた。

ああ、なるほど。

これは、個人としてではない。

国家公務員。

省庁。

キャリア組。

その“看板”に、彼らは頭を下げている。


「こちらこそ、ご協力ありがとうございます」


芽生は、教科書通りの言葉を口にした。

声が、少しだけ震えた。

男たちは、安堵したように頷き、再び頭を下げる。


「今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」


彼らが帰ったあと、芽生は椅子に座り込んだ。


「……すごいですね」


ぽつりと漏れた言葉に、比屋根は肩をすくめる。


「自分の置かれた立場がどれだけのものか理解できたかな」


芽生は、膝の上で手を握りしめる。

まだ、電話を取っただけだ。

熊も見ていない。

山にも入っていない。

それでも、この場所にいるだけで誰かの立場を左右してしまう。

その事実が、胸の奥に重く沈んだ。


「覚えとくといい」


比屋根が、淡々と言う。


「ここはな、下手なこと言うと現場も役所も全部燃える」


芽生は、静かに頷いた。

これは、責任だ。

誇りでも、特権でもない。

逃げられない、重さだ。


「……肝に銘じます」


思わず漏れた言葉だった。

比屋根が、苦笑する。


「俺たちはキャリア組じゃないからな」


軽く肩をすくめる。


「この年で、このポジションだ」


そして、冗談めかして言った。


「数年後には、君が霞が関に戻って、俺たちの部署を管轄する上司になってるだろう」


芽生は、言葉を失う。


「そのときはさ」


比屋根は、少し笑って続けた。


「俺たちも君に、同じことをするよ」


「……?」


「『おつかれさまです。いつもお世話になっています』って、丁寧な言葉で頭を下げてな」


冗談のようで、冗談ではない響きだった。

芽生は、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じる。

行政という仕組みの中で、自分がどれほど重い場所に立たされているのか。

それだけは、はっきりと分かり始めていた。

電話は、また鳴る。

芽生は、静かに受話器を取った。



夕方近くなり、外からエンジン音が聞こえた。

対策本部の前に、古い軽トラックが止まる。

比屋根が立ち上がり、窓の外を一瞥する。


「戻ってきたな」


原部長と、数名の隊員が降りてくる。

作業着は泥で汚れ、ブーツには水が跳ねた跡が残っていた。

荷台に、青いシートがかけられている。

芽生は、視線を逸らそうとして、逆に目が離せなくなる。


「……あれは」


「猪とハクビシンだ。子鹿もいる」


比屋根が、淡々と答える。


「数だけは熊より多い」


原が近づいてきて、シートの端を持ち上げた。

濡れている。

毛並みが、水を吸って重そうに垂れていた。


「……雨、降ってましたっけ?」


芽生が、思わず聞く。

原は、首を横に振った。


「川だ」


その一言で、理解が追いつかない。


「川……?」


「捕獲して、檻ごと沈めた。1時間くらいで引き揚げる」


原の声は、驚くほど事務的だった。


「溺死が、一番早くて衛生的で安全なんだよ」


芽生は、言葉を失う。


「銃を使わない。発砲音もない。跳弾もない。誤射もない」


原は、指折り数えるように続ける。


「何より職員が怪我をする確率が、最も低い」


「……でも」


芽生の口から、思わず言葉が漏れた。


「それって……かなり、可哀想じゃ……」


原は、芽生を見た。

責めるでもなく、笑うでもなく。


「君は、まだ見なくていい」


そう言って、短く続ける。


「我々国家公務員は、大がかりな道具を使わずに駆除をするのが基本だ」


比屋根が、横から補足する。


「そこに感情を挟むと、仕事ができなくなる」


芽生は、何も言えなかった。

隊員の一人が、慣れた手つきでシートを畳む。


「ただし、血抜きはここでやる」


「……ここで?」


「全部はやらない。専門施設じゃないとマズいから」


原が説明する。


「猪は解体して、ジビエ料理や犬の餌になる。毛皮も使う」


「ハクビシンは?」


「肉は臭みが強いから毛皮利用だ。溺死だと特にな。爪ごと取引してもらえる。」


原は、少しだけ言葉を選んだ。


「動物園や毛皮工房に、安く卸す。しっかり火を通せば食用でも問題ない」


芽生は、喉が詰まるのを感じる。


「……お金に、なるんですか?」


原は、即答した。


「なる」


比屋根が補足するように


「そうしないと、納税者から叩かれるんだよ」


と口にした。

その言葉は、重かった。


「命を奪ったなら、最大限使う。それが行政だ」


原がそういうと、ナイフを手にした隊員が血抜きを始めた。

金属音。

水の音。

地面に落ちる、赤黒い液体。

芽生は、視線を逸らしながらも、耳を塞がなかった。


「江村君」


原が、不意に声をかける。


「君にも、いずれやってもらう」


「……え?」


「加工に必要な食品衛生管理者。狩猟免許。必要な資格は全部取ってもらうから」


芽生は、目を見開く。


「私も……解体を?」


「そう。鮮度が大事だから。人手が足りないから血抜きくらいはやってもらわないと」


原は、当然のように言う。


「管理職も、ここでは例外はない。運搬だって必要だ」


芽生の頭の中で、昨日までの人生が一瞬で遠のく。

大学。

講義。

霞が関。

それらが、現実味を失っていく。

比屋根が、軽く笑った。


「だから言っただろ。マニュアル免許は必須だって」


隊員も笑う。


「そうそう。冬の雪道は、パワーを引き出せるほうがいい」


「ワゴンも使うぞ。スタッドレス履いてな」


芽生は、小さく息を吸う。


「……ここ、猟銃は使わないんですね」


思わず出た言葉だった。

原が、静かに首を振る。


「撃ったら終わりだ。あくまで撃たせるのは民間の猟友会。行政は発砲に責任を持てない。だから手元の猟銃は命を守る最後の手段でしかない」


隊員達も同調して口にする。


「そうそう。許可なく発砲したら懲戒。出世コースから外れる。そのまま窓際コースだ。ここにいるのはみんなそういう出世を外れた連中なんだよ」


その現実が、芽生の胸に落ちる。

戦場なのに、銃を撃てない。

派手な戦果もない。

ただ、静かに、確実に、命を処理していく。

原は、最後に言った。


「これは戦争だ。俺たちは丸腰で敵と戦わなきゃいけないんだよ。」


芽生は、濡れた獣の身体を、もう一度だけ見る。

そして、はっきりと理解する。

ここでは、正しさよりも生き残ることが最優先なのだと。



夜、古民家に戻る。

鍵を閉め、窓を確認する。

比屋根の言葉が、ふと蘇る。


『熊が入ってきたら大変だから。』


冗談ではない。

スマートフォンを見ると、父からメッセージが届いていた。


『仕事はどうだ?忙しそうか?』


芽生は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

今日一日で見たもの。

一般人から聞いた声。

目の前で奪われた命。

何一つ、うまく説明できない。


『元気にやってるよ』


短く、そうだけ返す。

送信して、スマートフォンを伏せる。

山の夜は深い。

暗くて、静かで、何が潜んでいるのか分からない。

芽生は、布団に入りながら思う。

私は、どっち側に立つのだろう。

電話の向こうの人間か。

現場で命を処理する側か。

答えは、まだ出ない。

ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

ここは、誰かが正義を語れる場所じゃない。

これは、銃声のない戦争だ。

そして本当の敵は、まだ姿を見せていない。




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