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新卒エリート国家公務員の指定有害生物対策日誌【じちまか外伝】  作者: shizupia


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第1話『ここは戦場さ』

なぜ私は、ここにいるんだろう。

その疑問は、車が山道に入ってから、何度も頭の中で反芻していた。

窓の外には、見渡す限りの緑が広がっている。

杉、白樺、雑草、山。

人の気配はなく、ところどころに古びたガードレールがあるだけだった。

舗装はされているものの、道幅は狭く、カーブが多い。

道路工事のツギハギと轍で車体が揺れるたび、助手席の身体が小さく浮く。

ハンドルを握っているのは、比屋根課長だった。

沖縄出身だというその中年男性は、色黒で、気さくで、運転がうまい。

山道を走っているというのに、スピードは一定で、無駄なブレーキも踏まない。


「……酔ってない?」

不意に、比屋根がこちらを見ずに言った。


「いえ、大丈夫です」


そう答えながら、私はシートベルトの上から、無意識にスカートを押さえた。

都会では気にする必要のない仕草が、ここでは妙に浮いている気がする。

しばらく、エンジン音とタイヤが砂利を踏む音だけが続いた。


「そういえば……車の免許、持ってる?」


また、唐突だった。


「はい。大学生のときに、合宿で取りました」


「マニュアル?」


一瞬、言葉に詰まる。


「いえ……オートマ限定です」


比屋根は何も言わなかった。

ただ、ほんの一拍だけ、間が空いた。

その沈黙が、なぜか胸に引っかかる。


「そう……ここじゃ、軽トラ使うから」


ようやく口を開いた比屋根は、淡々とそう言った。


「休みの日に、限定解除、行ってきて」


「……はい」


「あと、こっちじゃどこに行くのも車は必要だよ。早く自分の車を買ったほうがいい」


「そんな感じですね……」


「……しばらく地主さんが貸してくれた商用車があるから使っていいよ。オートマだし」


軽い口調だった。

私は小さくうなずいたが、内心では整理が追いついていなかった。


(なんで軽トラ?)


頭の中で、言葉だけが浮く。

国家総合職。

農林水産省。

課長補佐。

内定を受け取ったとき、父は珍しく声を上げて喜んだ。

母は、何度も


「よかったわね」


と言った。

親も自分も霞ヶ関ビルディングの中で都会的に働くことを想像していた。

それなのに。

車窓に流れるのは、山と山。

人の住んでいる気配のない、ザ・山奥。

スマートフォンを見ると、いつの間にか電波が一本になっていた。

私は、もう一度思う。

なぜ私は、ここにいるんだろう。

比屋根の横顔は、変わらず無表情だった。

その背中が、これから向かう場所を、何も語らないまま、車はさらに雪が残る山の奥へと進んでいった。


*


山道を抜けるまで、さらに三十分はかかった。

途中、民家らしきものが一軒だけ見えた。

瓦屋根の平屋で、庭先に軽トラックが止まっている。

それきり、また山しか見えなくなる。


「この先が、拠点だ」


比屋根が、ようやくそう言った。

拠点。

その言葉が、妙に軍事的に聞こえて、私は一瞬だけ背筋を伸ばした。

車は舗装路を外れ、砂利道に入る。

タイヤが小石を弾く音が、やけに大きく感じられた。

視界が開けると、古い建物がいくつか並んでいるのが見えた。

倉庫のような建物と、平屋の事務所。

その奥に、山を背にした一軒家がある。


「あっちが女子寮」


比屋根が顎で示した先の建物を見て、私は思わず言葉を失った。

想像していたのは、都心の公務員官舎か、せめてオートロック付きの集合住宅だった。

現実は、どう見てもセキュリティガバガバな空き家の古民家だった。


「……ここ、ですか?」


「そう」


即答だった。


「元々、地元の人が住んでたらしい。今は空き家で、誰も使ってない」


誰も使っていない家。

それが、私の住む場所。

頭の中で、ようやく何かが噛み合い始める。


「ここは……どんな部署なんですか?」


自分でも驚くほど、声が小さかった。

比屋根はハンドルから手を離し、エンジンを切った。

一拍置いてから、こちらを見ずに答える。


「指定有害生物対策部さ」


聞いたことのない名称だった。


「害獣、害虫、外来種。まあ、簡単に言うと……」


そこで一度、言葉を切る。


「熊とか、そういうのを相手にする」


熊。

その二文字が、遅れて意味を持って頭に落ちてくる。


「……熊、ですか?」


「そう。危険な生物の発見と駆除が主な仕事になる。」


比屋根の声は変わらない。

それが、かえって現実味を増していた。


「猟友会だけじゃ、もう回らないんだ。後継もいないし、会員も高齢化で制度も限界。個体は増える一方で警察も自衛隊も動けない」


私は何も言えなかった。

農林水産省。

害獣。

熊。

頭の中で、ばらばらだった言葉が、ようやく一本の線でつながり始める。


「c」


比屋根が、静かに言った。


「雪も降るし台風も来る。雪崩や土砂崩れもある。自然を舐めたら死ぬぞ」


その言葉は、脅しでも、冗談でもなかった。

ただ、事実を述べているだけの声だった。

山から吹き下ろす風が、車の外で音を立てる。

遠くで野鳥の鳴き声がした。

私は、その音を聞きながら、ようやく理解する。

思っていた場所とは、まったく違うところに来てしまったのだと。

それでもまだ、このときの私は知らなかった。

ここでの戦いが、

銃声も、歓声も、

勝利の記録すら残さない戦争だということを。


*


事務所の中は、外見以上に簡素だった。

無機質な横長の机が四つ。

壁のボードには黄ばんだ地図が貼られ、赤と青のピンが無数に刺さっている。

山の稜線、川、集落の名前。

そのどれもが、私にはまだ意味を持たない記号だった。


「少し待ってて」


比屋根はそう言って、奥の部屋に消えた。

私は、与えられた椅子に腰掛けたまま、膝の上で両手を組む。

部屋の隅にヘルメット、ツルハシ、灯油のポリタンクが並ぶ。

スーツを纏った自分の姿が場違いにすら思えた。

ほどなくして、ドアが開く。


「いらっしゃい。男の子かと思っていたら小柄な女の子か」


低く落ち着いた声だった。

立っていたのは、原部長だった。

年齢は五十前後だろうか。

背筋が伸び、表情は柔らかいが、視線は鋭い。


「遠いところ、ご苦労さま」


そう言って差し出された名刺を受け取る。

農林水産省北関東局グンマー支部地域安全管理課指定有害生物対策部

部長 原 はらいさむ

部長という肩書きを見て、胸の奥が小さく波打った。


「はじめまして。お湯の水女子大学から来ました江村芽生えむらめいです。よろしくお願いいたします」


名乗った瞬間、原の視線がわずかに揺れる。


「東亰の子?」


「はい、雛川区育ちです。」


「そう。今日から、いきなり課長補佐だったね。キャリア採用組の子が配属されるなんて珍しいからびっくりしたよ」


その言葉に、私は一瞬、返事を忘れた。

課長補佐。

頭では分かっていた。

辞令にも、確かにそう書いてあった。

それでも、この場所でその役職を口にされると、現実味が違う。


「……はい。精一杯頑張ります!」


原は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「心配しなくていい。しっかりサポートするから。ここでは、まず生き残ることが大事だからね」


生き残る?

行政の場で聞くには、あまりに直接的な言葉だった。

その瞬間、不意に、両親の顔が浮かぶ。

農林水産省に採用されたと伝えた夜。

父は、普段より饒舌だった。


「農林水産業は、国の根幹だからな。国家公務員として胸を張れ!」


母は、何度も頷いていた。


「 ほんと、省庁に入れてよかったわね」


ただし、誰もこの場所を想像していなかった。

私自身も含めて。

私の希望は文部科学省だったが配属先は完全に外れガチャ。


「……」


原は、私の沈黙を責めることなく、静かに続けた。


「君は、ここに長くいる人間じゃない」


その言葉に、胸が小さく締め付けられる。


「数年後には、もっと大きな場所に戻るだろう」


比屋根が、何も言わずに立っている。


「そのとき、ここで見たものが、判断の基準になる」


原は、そこで一度、言葉を切った。


「だから……ここでは、きれいごとをできるだけ早く捨ててほしい」


窓の外では、山が変わらずそこにあった。

何百年も前から、何も変わらず。

私は、その景色を背にして、ただ小さくうなずく。

このとき、まだ私は知らなかった。

この場所が、未来の私にとって、逃げ場のない原点になることを。


*


事務所を出ると、空はすでに夕方の色に傾いていた。

山の稜線に沿って、橙色の光がゆっくりと沈んでいく。

都会で見る夕焼けよりも、ずっと近くて、逃げ場がない。


「今日は移動と入寮準備だけ。」


比屋根が、そう言って寮や倉庫の鍵束を取り出して渡してきた。


「明日から新人研修を始める。今日はゆっくり休んで」


と説明した。

その言葉の中に、どれほどの現実が詰まっているのか、私はまだ知らない。

女子寮と呼ばれた古民家の戸を開けると、埃の匂いがした。

畳は古いが、掃除はされている。

生活に必要なものは、最低限そろっていた。


「都会生まれの女の子からすれば不便かもしれんな。おっさんばかりの山奥に不審者は来ないだろうけどしっかり施錠しとけよ。熊が入ってきたら大変だから」


「家に熊が入ってくるんですか……」


比屋根は、当たり前のように前置きしてから続ける。


「そう。ここでは、それが普通だから」


私は、曖昧にうなずいた。


*


一人になると、ようやくスマートフォンを手に取る。

電波は不安定だったが、通知が一件だけ届いていた。

父からだった。


『無事に着いたか?農水省勤務って聞いて、みんな喜んでたぞ』


短い文章の向こうに、父の声が浮かぶ。

地域センター所長として、行政の現場に立ち続けてきた人だ。

小学校教師の母からも、ほぼ同時にメッセージが来た。


『体調には気をつけてね。無理しすぎないように』


地方公務員の両親にとっては、娘が国家公務員になったことを心から誇りに思っている。

私は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

ここが、どんな場所なのか。

何をする部署なのか。

どんな戦いが待っているのか。

何一つ、伝えられない。

スマートフォンを伏せ、窓の外を見る。

山は、もう暗くなり始めていた。

昼間は穏やかに見えた斜面が、影に沈み、別の顔を見せている。

原部長の言葉が、遅れて胸に響く。

生き残ることだ。

私は、戦争に来たつもりはなかった。

制度の中で、行政の一端を担うために、ここに来たのだと思っていた。

けれど、この山も、この静けさも、この何もなさも。

すべてが、「戦場」の一部なのだと、今ならなんとなく分かる。

私は、深く息を吸い込む。

逃げる場所は、もうない。

そして、ここで見たものが、いつか誰かを切り捨てる判断の根拠になる。

それでも私は、ここにいる。

その事実だけを胸に刻み、私は静かに、夜の山を見つめ続けていた。


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