刑事と厚生労働省の役人に訪問されるマルリックと七緒
翌日ベン・マルリックを訪ねて刑事と厚生労働省の役人が考明塾を訪れた。
警察手帳を見せる刑事はネクタイの無いワイシャツにスラックスの50代の禿げ上がった無骨そうな男だった。
女性の役人は「厚生労働省健康局恐水病感染課今泉明美」と書いた名刺を提示した。
こちらはビジネスライクなブラウス・スラックスというスタイルの良い30代の女だった。
「ベン・マルリックだ。微妙なタイミングでの訪問だな。逮捕か?聴取か?」
「今は聴取ですね」
口を開いたのは女性役人の方だった。
「任意出頭か?」
「この場で結構なのですが」
「ふむ、私の住居ではないのでプリ-ズとは言えないのだが」
『教室で良ければどうぞ』
吸血鬼の耳で聞いていた七緒が先回りして承諾した。
「こちらなら大丈夫らしい」
マルリックが中に入って案内しようとして振り返れば、刑事と役人の今泉は顔を見合わせていた。
「ふむ、用心に越したことはないな。吸血鬼に誘われて逃走経路の長くなりそうなエリアや密閉空間には入るべきではない。しかし、ここは廊下も短いし、部屋は一階で大きな窓がある」
マルリックは古い学習机が20以上ある教室に入って行った。
訪問者もあたりを見回しながら入ってきた。
「ここには応接室はないようだ。私が言うのもなんだが、どこにでも腰掛けてくれたまえ」
言いながらマルリックは一部木製のスチール椅子に腰掛けた。
「ギリシャ正教会から外務省にメールが来まして、その経由で私達がこちらに参りました」
マルリックに話しかけたのは今泉の方だった。
「この『おそれみずびょう』とは何の病気なのだ?」
「狂犬病の古い名称です。人間に感染した場合は『きょうすいびょう』と呼んでいました。元吸血鬼対策室にあたります」
「なるほど、犬扱いにしてしまえば吸血鬼の処分も容易というわけだな?」
「そこまで法整備されておりません。日本で吸血鬼の対策が検討されたのは今回が初めてになります」
「そうでもなかろう。江戸幕府は島原の乱で吸血鬼問題を見事に処理してみせている。情報隠蔽も含めてな」
「そんな史実はありません。海外にはそんなデマがまかり通っているのですか?」
「ふむ、この国にはそんな伝聞はないのか?我々吸血鬼の間では有名な話だぞ。人間側でも少なくともバチカン、ギリシャとロシアの正教会では情報共有されている。ただし、正教、旧教、新教いずれにしても吸血鬼を使って布教をしようとしたなどという疑惑をもたれてはたまらんから隠匿するだろうが」
「どちらにしてもそんな昔話を元に起案は出来ません」
「ふむ、お前たちには昔話かも知れんが、その当事者が再びこの日本に来ているとしたらどうする?」
「あなたはお年が400歳以上だとでもおっしゃるの?」
「私は300歳そこそこだ。ただ、700歳以上の化け物がこの日本、しかもこの近隣で目撃されている」
「待ってくれ。そんな話の信憑性より我々がここに来た理由の方を優先させてくれ」
刑事が堪らず口をはさんだ。
「よかろう。例の地下のバーの件なのか?」
「まずはあなたの身元確認からだ」
「失礼、パスポートを持ってこさせよう」
と言ってマルリックが立ち上がり、教室から半身を出してハンナニーナという年上の方のシスターをギリシャ語で呼んだ。
[パスポートを出してくれ]
ハンナニーナはショルダー掛の旅行カバンを教室に持ってきて刑事達の目の前で取り出した。
刑事がパスポートを受け取り、手元の手帳と何かを照らし合わせてマルリックの方に視線を向けて言った。
「あなたの職業は吸血鬼ハンタ-ということで間違いはないか?」
「吸血鬼ハンターである前にギリシャ正教会の司祭のつもりだが、実は先日からのトラブルでその身分が抹消されている可能性がある。ギリシャ正教会が私の身分を否定しているのならば現在の私は無職だ」
「ギリシャ正教会は、まだあなたを司祭でありヴァンパイアハンターであると認めていましたよ」
今泉が補足をした。
「ありがたい情報だな」
そう言ったマルリックがまったくありがたそうではないことに刑事も今泉も気づいた。
「話を戻すが、パスポートではあなたは1972年生まれということになっているが、先の300歳というのは冗談かね」
「そのパスポートがよく出来た冗談だと思ってくれればありがたい。その生年月日は私の直属の上司のものなのだ。300年前の生年月日では発行機関が中々OKしないし、入国審査でもめるのは目に見えているのでな」
「他の国ではその回答で納得してもらえるのかね?」
「実は普通国外での私は外交特権が行使できるのだ。今回はかなり私用に近い理由で来日したので通常のパスポートでビザを取った。確認はギリシャ大使館にしてみてくれ」
「つまり来日理由は観光ということかね?」
「いや、布教活動だ」
刑事は今泉の方をちらりと見た。
「それでは例のバーの件を聴取する前に彼女の質問に答えてもらおうか?」
「ギリシャ正教会から吸血鬼についてのレポートを受け取って外務省が翻訳したのですが、ギリシャ語ですのでうまく翻訳できているのか疑問な点が多いのです。というよりもこれがフィクションだと言って信じない者も多いのです。ですから私はその表現や信憑性の確認をしに参りました」
今泉はビジネスバッグからA4版のレジ目を数冊取り出してマルリックの前の机に置いた。
「シスターマルギナータ! シスターハンナニーナ!」
先ほどのシスターと一緒にマルリックの若い方の信徒が現れて部屋の入り口で一礼して入いり、マルリックの正面に座った。
[この2冊を同時にページを捲ってくれ]
マルギナータは隣のハンナニーナとマルリックを見比べながらページを捲り始めた。
[もっと早く!]
二人は流すように捲り始めたがある部分でマルリックがハンナニーナの紙を義手で押さえた。
その時になって初めてマルリックの義手に気付いて訪問者の二人は驚きの表情を隠せなかった。
[マルギナータ、十海を呼んできてくれ]
マルギナータは室外に出て、すぐに七緒が一緒に入ってきた。
「はじめまして、この塾の塾長の十海七緒です」
すでに諸事情を吸血鬼の聴力で把握していた七緒はレジ目を手にとって見比べた。
「そこから医学的所見が多い。たとえば上大動脈という部分だが頚動脈で良いと私は思うのだが?」
「その方がよろしいかと。それとこの血友病というのは訳がストレートすぎますね。血友病的副作用にでもしておかないと。常に発症しているわけでも恒常的なものでもないのだし・・・代筆は私がしましょうか?」
「よろしいか?ミス今泉」
「あ、はい、どうぞ・・・あ、あの、あなたも吸血鬼なのですか?」
未婚者であることを否定しなかった今泉は恐る恐る七緒に質問した。
「ええ、先週より人間を止めております」
「いいのか? この国ではなんと言ったかな。そう、ぶっちゃけて?」
「どうせ、この後、血液検査でもするつもりなのでしょう? 隠しても無駄ですよ。このレポートに血液検査の心得も載っていることだし、出来れば守秘義務を守っていただくと助かりますが」
[シスターハンナニーナ! お茶を用意しているの。どうかこちらに運んでもらえませんか?]
七緒はたどたどしいギリシャ語でハンナニーナに指示した。
[はい、ィユトーシュ]
ハンナニーナが部屋の外に出てから、また今泉は問いかけた。
「今、あなたのことを医者と?」
「ええ、元は医師です。ここも経営破綻する前は病院でした」
そう言いながら七緒はページを捲りながらチェックを入れていった。
「しかし、こうして見てみると確かに夢物語に見えますね。コープスにデスライム? 実在するの?」
「ふむ、あのバーの死体もどきは今冷凍しているのだろう?」
「そのとおりです」
刑事は答えた。
「冷凍する前にまだ動く状態であったのなら解凍すればコープスという状態になるだろうな。食欲だけの植物人間というべきか。触るかゼロ距離に近寄らなければ反応しない。出歩いてくれないので駆除に困る代物だ。そんな物が何かのきっかけで集合すればデスライムとなり人間を丸呑みするようになる。巨大化すれば爆破しながら焼却せねばならんから、これも厄介だ」




