予定変更を迫られる十海七緒
ラブホテルを出た佐紀波若生と本庄蓮夏の二人は、しばし黙ったまま歩いていた。
「大丈夫か?」
先に声をかけたのは蓮夏だった。
「確かに納まった」
歯や舌・喉の切羽詰まった衝動的欲求は今はない。
「暗くなったな」
「つーのはやっぱ見えちゃうわけ? 血管とか血の流れとか?」
「ああ、これが吸血鬼目線ってやつかな?今も蓮夏の頚動脈なんて無防備に脈打ってるのが見え見えだよ」
「ひえー!」
と言って蓮夏は自分の顎の下を押さえた。
「あはは、違うよ。この辺のほうが外に出てるんだ」
と言って若生は蓮夏の鎖骨のすぐ上あたりの首を触った。
蓮夏が足を止めた。
若生も足を止めた。
「塾に戻ろか」
考明塾に戻ると既に十海七緒とエディー・フランソワーゼは帰っていた。
七緒は無言で親指を立てて医務室に入るようにジェスチャーした。
事務イスに腰掛ける七緒の前に若生は蓮夏とともに立った。
戸口にはエディーが松葉杖を支えにし壁にもたれて立ってこちらを見ていた。
若生の体の変化は一目瞭然だった。
朝出る前の骨皮状態だった体は細いながらも筋肉を有していたからだ。
しかも右腕の皮膚は白と小麦色のまだらに変色していた。
「蓮夏に納めてもらったよ」
「注射器で? スレイブにしてはいないようだけど」
「・・・言っていいのか?」
と言って蓮夏に確認を取る若生を見て内心七緒は穏やかではいられなかった。
蓮夏はフンフンと首を縦に振って了解の意を示した。
「口づけを20分ほど続けたら良くなった」
「キス? 20分?」
「あ、あまり込み入ったことは話したくないけどぉ、そうなんだ」
七緒は咳払いをひとつして横を向いて白々しい顔をしている蓮夏のほうを見て、再び若生に目を戻した。
「飢えと乾きは無くなって・・・いや、今ぶり返しつつあるかな?でも噛み付き衝動は完全に収まったよ。今ならあの外人さんの前でも平気だと思う」
「そう・・・それで、その右腕はどうしたの?」
袖が半分無くなり血が付着したジャージを見て七緒は訊いた。
「あ、ああ、こっちのほうが大事だった! ロード・フィルに会ったんだ」
がたん!と後ろで物音がした。
エディーが松葉杖を取り落としたのだ。
「な、何ですって?」
「あれは、なんて言ってたんだろうな? つまり決闘を申し込まれたんだと思う」
若生は順を追って話した。
蓮夏との待ち合わせ場所に不意にロード・フィルが現れたこと。
エディーが眷属を作る事を許さないと言っていたこと。
蓮夏に危害を加えようとしたこと。
助けようとして右腕を体の顎で固定されたので仕方なく自分で右腕を切断したこと。
左手のブレードで切りつけたら受け止められ何故か蓮夏と右腕を返してくれたこと。
最後に一対一の戦いを強制されたこと。
「マルリック! 聞いてる?」
七緒は普通なら届くはずの無い大きさの声で2階のマルリックに確認してみた。
『本当にロード・フィルのようだな』
2階にいるマルリックの声が聞こえた。
『そちらへ下りよう』
マルリックが下りてくるまで暫く時間がかかった。
「弥生を寝かしつけていたのでな」
医務室に入ってそう言い訳をした。
「気に入られたようだな若生? お前は実に吸血鬼受けが良いようだ」
「ぜんぜん、うれしくねえよ」
「大きく選択肢を分けるとして、逃げるか戦うかだが、逃げるのなら国外でなくては話にならん」
「フィルが日本国内の地理に詳しいとは思えないけれど?」
七緒は否定されるとは思いつつも反対意見を述べてみた。
「奴の今のスレイブを知っているかエディー?」
「嘘か本当か女魔術師だとか?」
「本当のようだ。世界中の吸血鬼の位置を把握しているらしい。つまりは奴らが自由に動ける日本国内は安全ではない」
「戦って勝てる気はしなかったけど、日時は指定されなかった。時間稼ぎはできるものかな?」
七緒は若生の人事のような口振りが気になった。
「奴は月齢を生活規範にしているらしい。今から半月後に決闘を望んでくるかも知れん。遅くて一月後と考えるのが妥当だろう」
「短いな」
「実は絶対安全な期間がある。お前が吸血鬼として安定するまでの数日間だ。奴はボレアフィリア、つまり食うか食われるかの殺戮フェチなのだ。一度身を引いた以上、すぐに決闘を指定したり、我々を襲ったりするとは考えにくい。その間に逃げる手はずを整え国外に飛ぶのが一番安全か」
「待てよ。あんたやエディーや上のシスター達は高飛び出来るのか?」
「私は恐らく出来んな。シスター達は大丈夫だろう。エディーはほぼ無理だろう。こいつのビザを使えなく手を回したのが私なのだからな」
「とにかく全員で逃げることが出来ないのなら選択肢は一つだ。戦うしかない」
断言した若生を七緒が平手打ちした。
「格好つけるよりも生きる事を優先しなさい!」
若生はあえて七緒の平手打ちをくらったが、「格好をつける」と言われるのは心外だったので不満そうな表情を隠さず自分の頬を撫でた。
「逃亡選択で私は残留、それはかまわんが、エディー貴様はどうなのだ?」
「残留で依存はありません」
「よー、口挟んでいいか?」
吸血鬼一同は蓮夏を見た。
「どうぞ」
と、マルリック。
「話し合いの余地はねーの?」
「何故そう思うのだ?」
「いやー、これ縄張り争いだろ? 少なくともあのフィルってーやつはそのつもりだろ? あいつの配下に入るって条件じゃ話にならねーの?」
「奴の目的は縄張り拡張だが、奴の欲求は戦闘だ。ゾーイを私に売った時点で奴は戦闘相手を人間に変えた筈だ。恐らくあえてこの国を吸血鬼の混乱に陥れて手ごたえのある戦闘部隊や兵士を見繕って狩るつもりなのだろう。我々のような人間に対してフレンドリーな吸血鬼一派は目障りなのだ」
「あんたがフィルと戦うには数十年かかると奴は言ってたけど、どういう意味?」
若生はフィルの言葉で気になっていた部分を質問してみた。
「若生、私の上着を脱がしてくれ」
若生は言われるままにマルリックの上着を脱がした。
その下には黒い甲冑、鎧のようなものを着込んでいた。
「私がゾーイ・ブルー・ウィリアムスに勝てたのは、このカーボン製積層装甲や義手の中のハイテク兵器のおかげだ。開発から実用まで20年以上かかった秘密兵器というわけだが、対ロード・フィルが想定なら、この装甲以外ほとんど役にたたん。奴を倒せる技術開発は早くて10年、遅ければ40年以上かかるということだ。つまりロード・フィルとはそれをわざわざ待って戦いを挑んでくるような性癖の持ち主なのだ」
「逆に私レベルの吸血鬼はフィルの気分次第でいつでも殺される可能性があるわけです」
エディーが自嘲気味に言い加えた。
若生は思案していた。
吸血鬼3人が3人とも逃げることを示唆していたが、実際は逃亡派は七緒だけなのだろう。
七緒が強行に逃亡を主張しているからエディーは七緒を支持しているだけのように見える。
しかし、本当に戦いで勝算はないのだろうか?
若生はなんとかマルリックと二人きりになってフィルのことや有効な戦闘手段について訊ねてみるべきだと思った。




