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猿の見た夢

作者: 埴輪庭

 ◆


 熱い。


 腹の底に鉛を溶かしたような、どろりとした熱が渦巻いている。

 体が内側から燃え滓となって音もなく崩れていくようだ。


 だがこの熱は若き日に戦場いくさばを駆けたあの魂の昂揚とは違う。腐りかけた薪が湿ったまま燻り、黒い煙と不快な臭いばかりを吐き出すような、救いのない、粘りつくような熱だ。


 伏見城の豪奢な寝所もこの衰えきった体には何の慰めにもならぬ。金襴緞子の布団に包まれていようと、儂の内側から滲み出る脂汗と、薬湯の匂い、そして何よりも隠しようのない死の腐臭は刻一刻と濃くなるばかりであった。


「……殿下」


 誰かが呼んでいる。ああ、三成か。それとも、あの狸か。


 声が遠い。まるで深い水底から聞いているかのように、くぐもって判別がつかぬ。目を開けているのか閉じているのかも定かではなかった。ただ、重い瞼の裏の闇に、時折きらびやかな光の粒が浮かんでは消える。


 あれは儂が築いた大坂城の天守閣か。聚楽第で催した北野大茶会か。いや、あるいは賤ヶ岳で見た、一番槍の煌めきか──。


 ああ、何もかもが遠い。夢のようだ。


 儂は天下を取った。日輪の子と呼ばれ、関白太政大臣にまで上り詰めた。この日本の六十余州、儂に従わぬ者はいなかった。そう、信じていた。


 だがこの様は何だ。天下人とは斯くも無様に、汚物に塗れて孤独に死んでいくものだったか。


 儂は何かを間違えたのだ。そのことだけはこの朦朧とした意識の中でも確かだった。どこで。いつから。そもそも何を──。


 鶴松が死んだ時か。あの子の小さな体が腕の中で冷たくなっていく、あの絶望か。いや、もっと後だ。茶々がひろい、後の秀頼を産んだ時か。それとも、甥の秀次を疑い始めた、あの頃か。


 あの頃の儂はどうかしていた。まるで狐狸にでも憑かれたかのように、猜疑心の塊になっていた。誰も信じられず、誰もが儂の築いたものを音もなく奪おうとしているように見えた。


 だから、殺した。


 秀次だけではない。その妻や幼い子に至るまで女子供の区別なく根絶やしにした。


 三条河原に流されたあの血の川を儂は今でも夢に見る。


 そして思い出す──あの時の儂の浅ましさを。


 鉄錆びた血の臭いを嗅ぎながら、心の底で安堵していた儂の魔を。


 これで儂のものを脅かす者は消えた、と。


 老いとはこれほどまでに人を醜く変えるものか。体が衰えるだけではない。心が腐るのだ。


 判断力が鈍り、猜疑心ばかりが毒茸のように心を蝕む。


 若い頃のあの冴えわたった頭脳はどこへ消えた。信長公の下で働いていた頃、儂は誰よりも機転が利き、人の心の機微を読み解いた。「人たらし」と呼ばれ、その才覚一つでただの足軽からここまで駆け上がってきたのだ。


 それがどうだ。晩年の儂はただの耄碌もうろくした老人だった。それにしても残酷なものよ……なぜ、今になってそれが分かる。このまま何も気づかぬ耄碌爺として死なせてくれれば良かったものを。今わの際になって、長年心を覆っていた深い霧が晴れるとは。


 あの時ああすればよかった、こうすればよかった──そんな慙愧ざんきの念で胸が張り裂けそうだ。これではとても成仏などできそうにもない。


 ああ、そうだ。あれも大失敗だった。なぜ、あんな無謀な夢を見たのか。海の向こうの大国を攻め取るなど、正気の沙汰ではなかった。幾万もの兵を異国の地で無駄死にさせ、この国を疲弊させただけだった。あれもまた、老いが見せた狂った幻だったのか。


「……秀頼を、くれぐれも、頼み、まする……」


 掠れた声が虫の音のように漏れた。これが儂の最期の言葉になるのか。なんと情けない。


 だが秀頼のことだけが気がかりだった。あの子はまだ幼い。愛しい我が子よ。儂が死ねば、この豊臣の天下はどうなる。家康が黙っているはずがない。あの男は狸だ。儂の前では忠臣の仮面を被りながらも、その腹の底では常に天下を狙っていた。儂には分かる。同類の匂いがするのだ。


 儂は失敗したのだ。天下を取ることには成功したがそれを守り、治めることには失敗したのだ。


 ああ、もう一度。


 もう一度だけ機会が与えられるなら。


 この耄碌した頭ではなく、あの日の本の隅々まで見通せた、冴えわたった頭脳でもう一度やり直せるなら。


 そうすれば、もっと上手くやれる。仲間を信じ、敵を見極め、愛する者たちを、今度こそ守り抜いてみせるのに。


 涙が溢れた。熱を失った目から、ただ冷たい雫が頬を伝う。これは後悔の涙だ。儂が必死で積み上げてきたものが他ならぬ儂自身の手によって崩れ去っていく。その無念さが涙となって溢れ出るのだ。


 闇が深くなる。あれほど儂を焼いた熱がすうっと引いていく。代わりに、凍えるような寒さが足の指先から這い上がってきた。


 これが死か。


 冷たく、暗く、そしてどこまでも孤独な──。


 深い、深い闇の底へと、儂は落ちていった。


 ・

 ・

 ・


 どれほどの時が経ったのか。儂は夢を見ていた。それは儂が死んだ後のこの国の夢だった。


 夢の中で儂は声も姿も持たぬ幽鬼のように、変わり果てた日の本を彷徨っていた。


 慶長五年、関ヶ原。天下分け目の大戦。


 石田三成が率いる西軍と、家康が率いる東軍が激突した。

 儂が残した豊臣の家臣団は見る影もなく真っ二つに割れていた。加藤清正、福島正則……儂が子飼いにしてきた、我が子同然に思っていた武将たちがこともあろうに家康の側に付いていた。


 なぜだ、とはもはや思うまい。

 それは全て、儂が撒いた種なのだから。三成の才を愛するあまり、武骨な者たちの不満を軽んじた。その歪みが儂の死と共に噴出したのだ。


 戦はたった一日で決着がついた。


 西軍は敗れ、三成は捕らえられ、六条河原で無残に斬首された。家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。


 そして慶長二十年、大坂夏の陣。


 燃え盛る大坂城。儂が生涯を賭して築いた城が天守閣が紅蓮の炎に包まれて崩れ落ちていく。茶々の悲痛な絶叫が聞こえる。そして秀頼の最期。儂の血は儂の夢はここで完全に途絶えた。


 夢の中で儂は泣き叫んだ。

 声にならない声で許しを乞うた。守ると誓った者たちに、儂が殺した者たちに、そして儂が裏切った者たちに。


 これが報いか。

 儂が犯した罪の代償か。


 あまりの無念さと絶望に、儂は闇の中で身悶えした。


 その時──強烈な光が儂を包み込んだ。


 ◆


「……殿下! お気づきになられましたか!」


 鋭く、張りのある声が鼓膜を打った。聞き覚えがあるどころではない。三成の声だ。だが儂が死の間際に聞いたあの憔悴しきった声とはまるで違う。若々しく、力に満ちている。


 儂はゆっくりと目を開けた。


 眩しい。夏の強い陽光が陣幕の隙間から鋭く差し込んでいる。


 ここはどこだ。あの陰鬱な伏見城の寝所ではない。むせるような土の匂い。男たちの汗の匂い。そして遠くから聞こえる、地鳴りのような勝ち鬨の声──ここは戦場だ。


 体を起こそうとして、儂は驚愕した。


 体が信じられぬほど軽い。あの死の淵でまとわりついていた鉛のような倦怠感がない。不快な熱もない。むしろ、体の芯から力が漲ってくるようだ。


 そして何よりも、頭が冴えわたっている。長年かかっていた深い霧が完全に晴れたように、思考がどこまでも明瞭だ。まるで若い頃に戻ったかのような……。いや、それだけではない。あの地獄のような夢の記憶も、鮮明に残っている。


 あれは単なる夢だったのか。それ以前に、儂はなぜ生きている。


「三成……今、何と申した」


「はっ。北条方がついに降伏を受け入れるとの由。間もなく、小田原城は開城いたしまする!」


 三成の言葉に、儂は息を呑んだ。


 これは……小田原開城。天正十八年、七月。儂が天下統一を成し遂げた、まさにその輝きの絶頂の瞬間だ。


 儂は三成の顔を見た。若い。儂の記憶にある晩年の苦悩にやつれた三成ではない。希望に満ちた、涼やかな目をした男がそこにいる。


「鏡を。鏡を持て」


 震える声で命じた。

 鏡に映った儂の顔。猿と呼ばれたこの顔は相変わらず醜かったがそこには死の影はなかった。皺は深く刻まれているものの肌には艶があり、何よりもその両の目には紛れもない生命の力が宿っている。


 儂はこの時、幾つだったか──五十四か。

 そうだ、この頃の儂の頭はまだ耄碌してはいなかった。天下の全てをその手に掴んだと信じていた、傲慢でしかし自信に満ち溢れていた頃だ。


 戻ってきたというのか? あの地獄のような未来から、この輝かしい過去へと。


 それともこれは死の間際に見る、都合の良い長い夢なのか。


 判然とせぬ。だがどちらでも良い。だがもしこれが天が儂に与えた最後の機会であるならば。


 儂はこの機会を絶対に無駄にはせぬ。


 いや、夢でも良い。


 夢の中であっても、今度こそ上手くやってみせる。愛する者たちを守り、儂が築いたこの天下を、磐石のものとしてみせる。


 儂は立ち上がった。足元がふらつくこともない。裸足の裏に、大地をしっかりと踏みしめる感触が力強く伝わってきた。


「よし、諸将を集めよ。これからのことを、話し合う」


 その声は我ながら若々しく、力に満ちていた。



 ◆


 天正十八年、夏。小田原城を見下ろす石垣山一夜城の本陣にて、儂は諸大名を集めた。


 天下統一。かつてはその甘美な響きに酔いしれたものよ。だが今の儂に浮かれている暇はない。この瞬間こそが豊臣の未来を決める最大の分岐点なのだから。


 広間には徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といった、錚々たる面々が居並ぶ。彼らの顔を一人一人眺めながら、儂はあの悪夢の記憶を反芻していた。


 中でも家康──この男の処遇こそが全ての鍵を握る。


 家康は儂の前に平伏し、恭しく祝辞を述べた。


「この度のご勝利、誠に祝着至極に存じます。殿下の御威光、もはや日の本に届かぬところはございませぬ」


 この男も若い。四十九歳か。脂が乗り切っているがその伏せた顔の奥に潜む底知れぬ野心を、今の儂は見逃さなかった。


「家康殿、面を上げられよ。この勝利はそなたたちの働きあってのこと。礼を言うぞ」


 儂は鷹揚に答えた。そして本題を切り出した。


「さて、家康殿。此度の論功行賞だがな。そなたには北条の旧領、関八州に移ってもらいたいと思うておる」


「関八州……でございますか」


 家康は驚いた様子を見せた。二百四十万石という破格の加増だが同時にそれは先祖代々の三河、遠江、駿河の地を離れることを意味する。


 かつての記憶でも、儂は同じことをした。家康を畿内から遠ざけ、その力を削ぐためだ。だが結果として、家康は広大な関東平野を手に入れ、江戸という新たな拠点で着々と力を蓄え、ついには儂の天下を奪った。


 同じ轍は二度と踏まぬ。


「うむ。関東は広大だがまだ荒れ果てた土地も多い。治めるのは容易ではあるまい」


 儂はそう言って、家康の顔を覗き込んだ。


「特に武蔵の江戸という地は湿地が多く、骨が折れると聞く。そこで儂は考えたのだ」


 儂は地図を広げた。


「関八州のうち、武蔵、相模、伊豆、下総、上総の五カ国をそなたに与える。これで百五十万石ほどになろうか」


 家康の表情が僅かに強張った。二百四十万石から百五十万石への大幅な減封だ。


「そして残りの上野、下野、常陸の三国は他の者に任せる」


 儂は続けた。


「上野には真田昌幸、下野には佐竹義重を移そう。常陸は……そうさな、蒲生氏郷に与える」


 広間にどよめきが起こった。真田、佐竹、蒲生。いずれも家康と折り合いが悪いか、あるいは家康に匹敵する実力を持つ者たちだ。彼らが家康の領地をぐるりと取り囲む形になる。家康にとってはまさに四面楚歌の状態だ。


「その代わりと言っては何だがそなたには別の重要な役目を任せたい」


 儂は畳み掛けた。


「奥州の伊達政宗、そして越後の上杉景勝。この二人を監視し、彼らが不穏な動きを見せぬよう、目を光らせてほしいのだ。関東探題としてな」


 関東探題。古くからある役職だが実権は伴わない名誉職だ。だがこれを家康に与えることで彼の面子を立てつつ、奥州と越後という厄介な者たちの抑えという任務を押し付ける。家康の力は分散され、京に目を向ける余裕はなくなるはずだ。


 家康はしばらく黙考していた。彼の額にはじわりと汗が滲んでいる。この場で拒否すれば、儂に逆らうことになる。だが受け入れれば、その野望に大きなかせめられることになる。


 やがて、家康は深く、深く頭を下げた。


「……謹んでお受けいたします。関白殿下の御心の深さ、感服いたしました」


 この狸め。腹の中では煮えくり返っているだろうが今は従うしかない。儂は満足げに頷いた。


 家康が去った後、儂は前田利家を呼んだ。利家は儂の古くからの友であり、最も信頼できる男だ。


「又左、少し良いか」


「殿下、何でございましょう」


 利家は実直な顔で儂を見た。この男は儂の死後すぐに病に倒れる。それが豊臣政権の崩壊を決定的に早めた。あの夢の中で儂は利家の死をどれほど嘆いたことか。


「家康のことだがな。関東に移したがやはりあの男は油断ならぬ」


「左様でございますな。内府殿は才覚のあるお方ですが同時に野心家でもあります」


「そこで又左。そなたには家康の監視役をお願いしたいのだ。そなたの加賀百万石は関東にも近い。何かあれば、すぐに儂に知らせてほしい」


「承知いたしました」


 利家は力強く答えた。その変わらぬ忠誠心が儂の胸を熱くする。


「だがな、又左。あまり根を詰めすぎるなよ」


 儂は付け加えた。その手を、そっと握って。


「体にはくれぐれも気をつけるのだぞ。そなたに倒れられては儂が困る。儂はもう、友を失いたくないのだ。 定期的に京に戻り、名医の診察を受けるのだ。よいな、これは命令だ」


 利家は驚いたように儂を見つめ、そして深く頷いた。この男が健在である限り、家康も好き勝手はできぬはずだ。


 小田原での戦後処理を終え、儂は京に戻った。聚楽第にて儂は次なる課題に取り組んだ。それはあの狂気の沙汰であった無謀な外征の回避だ。


 儂は石田三成、増田長盛ら奉行衆を集めた。


「皆の者、よく聞け。儂は唐入りは行わぬと決めた」


 奉行衆は水を打ったように静まり返り、そして驚きの表情を隠せなかった。儂が唐入りを計画していることは公然の秘密だったからだ。


「殿下、今更何を仰せられますか。すでに九州の名護屋城の築城も始まっております」


 三成が問いかけた。


「名護屋城は戦の拠点ではない。交易の拠点として使うのだ」


 儂はきっぱりと言った。


「戦はもう飽きた。多くの血が流れすぎた。これからは武力ではなく、交易によってこの国を富ませる。明国とは対等な立場で国交を結び、その文化と富を我が国にもたらす。それが儂の新たな望みだ」


 老いた儂は誇大妄想に取り憑かれていた。だが今の儂は現実を見据えている。無用な戦で国力を疲弊させる愚は決して犯さぬ。


「三成、そなたには明国との交渉役を任せる。朝鮮にも使者を送り、仲介を頼むのだ。容易なことではないが必ず成し遂げよ」


「はっ。承知いたしました」


 三成は儂の真意を理解したようだった。


 だが唐入り中止は諸大名、特に血気盛んな武断派の不満を買うことになるだろう。彼らの有り余る力を、どこかへ向けねばならぬ。


 儂は国内の開発に目を向けた。新田開発、治水工事、鉱山開発。そして新たな挑戦として、蝦夷地(北海道)の開拓を命じた。未開の地を開拓し、新たな領土とする。それは彼らの功名心を満たすに足る、壮大な大事業だ。


 そしてもう一つ、儂が解決せねばならぬ過去の過ちがあった。千利休のことだ。


 かつての記憶では儂は利休の増長を憎み、切腹させた。だがそれは儂の狭量さと猜疑心が生んだ悲劇だった。利休は儂の良き相談相手であり、豊臣政権の精神的な支柱でもあった。彼を失ったことは計り知れない損失だった。


 儂は利休を茶会に招いた。きらびやかな黄金の茶室ではなく、利休好みの質素な草庵で。


「利休、久しぶりだな」


「お久しゅうございます、殿下」


 利休は静かに頭を下げた。その佇まいは以前と何も変わらない。


「近頃、儂は思うのだ。天下を統一したとはいえ、人々の心はまだ荒んでおる。この荒んだ心を鎮めるにはそなたの侘び茶の心が必要ではないかとな」


 利休は驚いたように目を見開いた。


「儂は派手好きだ。そなたの美意識はようわからぬこともある。だがな、利休。儂はそなたの才を必要としておる。 これからも、儂の相談相手になってくれ。ただし、政治に口を出すことは控えよ。そなたは文化の面でこの儂を、この国を支えてほしいのだ」


 儂は天下人としてではなく、一人の男として、利休に深く頭を下げた。利休は息を呑み、そして感動した様子で震える声で深く平伏した。


「この利休、殿下のために粉骨砕身、尽くす所存でございます」


 これで一つの大きな懸念は消えた。だが最も困難で、そして最も悲しい問題がすぐそこまで迫っていた。


 ◆


 天正十九年。儂は運命の時を迎えていた。愛息・鶴松のことだ。


 鶴松は儂と茶々の間に生まれた待望の嫡男だ。だがかつての記憶ではこの年、わずか三歳で夭折する。それが後の後継者争いと、儂の心の闇の全ての始まりとなった。


 儂は鶴松の命を救うために全力を尽くした。京中の名医を集め、南蛮や明からもあらゆる薬を取り寄せた。儂自身も、夜も寝ずに看病に当たった。


「鶴松、死ぬな。父を一人にするな」


 祈るような気持ちで鶴松の熱い小さな手を握りしめた。その温もりが消えてしまわぬように。


 だが運命はあまりにも残酷だった。鶴松は高熱に苦しみ続け、そしてある朝、静かに息を引き取った。


 儂は絶望した。未来を知っていても、変えられぬ運命があるというのか。天はなぜこれほどの試練を儂に与え続けるのか。


 茶々は半狂乱になり、髪を振り乱して泣き叫んだ。その姿を見るのが何よりも辛かった。


 だが儂には立ち止まっている時間はない。鶴松の死によって、後継者問題が再び火を噴いたのだ。


 儂は甥の秀次を養子とし、関白職を譲ることを決意した。これはかつての記憶通りの流れだ。だが今回はその意味合いが全く違う。儂は本気で秀次を育てる。かつて己の猜疑心で殺めてしまったこの甥を、今度こそ守り、導くのだ。


 儂は秀次を呼び出し、二人きりで話をした。


「秀次、関白職を継ぐことになったが心して務めよ」


「はっ。微力ながら、全身全霊をもって務める所存にございます」


 秀次は緊張した面持ちで答えた。この男は決して無能ではない。儂が道を誤らせなければ、良き後継者となっていたはずなのだ。


「儂はな、そなたを信頼しておる」


 儂は秀次の目をまっすぐ見て言った。その言葉に、偽りはない。


「だがそなたには足りぬものがある。それは経験だ。そして人望だ。これからは諸大名の意見によく耳を傾け、決して独断専行するな。そしてこの儂にも、決して隠し事をするな」


 儂は秀次に帝王学を徹底的に叩き込むことにした。そして彼の暴走を防ぐため、補佐役として前田利家や徳川家康といった宿老たちを付けた。


 秀次は儂の期待によく応えてくれた。彼は慎重に政務をこなし、諸大名との関係も良好だった。豊臣政権はようやく安定期を迎えつつあった。


 だが運命は再び儂を試そうとしていた。


 文禄二年、夏。茶々が再び懐妊した。そして男子を出産した。拾、後の秀頼である。


 儂の喜びは大きかった。腕に抱いた赤子の温もりは何物にも代えがたい。だが同時に、冷たい不安の影が胸をよぎった。


 秀頼の誕生は再び後継者問題を引き起こす火種となりかねない。かつての儂はこの秀頼可愛さのあまり、秀次を疎んじ、疑い、そしてあの取り返しのつかない悲劇を引き起こした。


 同じ過ちを繰り返すものか。


 儂はすぐに秀次を呼んだ。


「秀次、喜べ。そなたに弟ができたぞ」


「はっ。誠にめでたきことでございます」


 秀次は笑顔で答えたがその表情には隠しようのない微かな翳りが見えた。


「秀次よ。何か心配しておるな」


「……いえ、そのようなことは」


「隠すな。儂には分かっておる。秀頼の誕生によって、己の立場が危うくなるのではないかと、案じているのだろう」


 秀次は言葉に詰まり、俯いた。


「安心せよ。お前は儂の後継者だ。それは決して変わらぬ」


 儂は力強く言った。


「秀頼はまだ赤子だ。彼が成人するまでお前が関白としてこの天下を治めるのだ。そして秀頼が成人した暁にはお前が彼を補佐し、兄弟二人で豊臣の天下を支えていくのだ」


 儂は秀次の肩に手を置いた。


「秀次よ。お前と秀頼は兄弟なのだ。力を合わせ、豊臣の天下を守ってくれ。それがこの儂の心からの願いだ」


 秀次は涙を浮かべながら、深く頭を下げた。


「太閤殿下……。この秀次、感激の極みにございます。必ずや、ご期待に応えてみせまする」


 その涙を見て、儂の心も救われる思いだった。


 儂は秀次を守るために、先手を打つことにした。

 諸大名を集め、秀次への忠誠を改めて誓わせた。そして秀次の娘と秀頼を婚約させることを発表した。これで両家の絆を深め、将来の対立を防ぐ。


 だが最大の問題は淀殿、茶々のことだ。

 彼女は秀頼を溺愛している。そして彼女の野心は時に政を狂わせる。


 儂は北政所の寧々に頼んだ。寧々は儂の正室であり、秀次を実の子のように可愛がっていた、儂が最も信頼する女だ。


「寧々よ。すまぬが拾(秀頼)をそなたの養子として育ててくれぬか」


 寧々は驚いたがすぐに儂の意図を理解してくれた。


「あなた。それは良いお考えです。拾をわらわの子とすれば、秀次とも本当の兄弟になります。そして茶々の口出しも防げましょう」


 寧々の協力により、秀頼は北政所の養子となった。これで秀頼の地位は安定し、淀殿の暴走も抑えられるはずだ。


 儂は茶々にも厳しく言い渡した。


「茶々よ。秀頼は北政所の子となった。そなたは生母として、彼を見守るがよい。だが政治に口を出すことはこの儂が許さぬ。もし、そなたが余計な気を起こし、秀次を陥れようとするならば、そなたが誰であろうと、儂は容赦せぬぞ」


 茶々は不満そうだったが儂と寧々の前では従うしかなかった。


 こうして、儂は後継者問題を解決した。少なくとも、表向きは。だが人の心は移ろいやすい。油断はできぬ。


 儂は内政の改革にも引き続き力を入れた。特に、石田三成と武断派の対立を解消することが急務だった。

 唐入りを中止したことで彼らの対立は一時的に収まっていた。だが政務を巡って、再び些細なことから衝突するようになっていた。


 儂は三成を呼び寄せた。


「三成よ。お前の才覚は認める。だがお前はあまりにも融通が利かぬ。そして敵を作りすぎる」


「恐れながら、申し上げます。私はただ、殿下のために、己の信じる道を歩んでいるだけでございます」


 三成はきっぱりと言い切った。その真っ直ぐさが彼の美点であり、同時に危うさでもあった。


「その道が他の者たちの反感を買うとしてもか。三成よ。清濁併せ呑むことも、時には必要なのだ。お前には人望が足りぬ」


 儂は三成に、武断派との融和を図るよう命じた。

 同時に、清正や正則といった武断派の者たちも呼び寄せた。


「お前たちは三成のことを小役人上がりと馬鹿にしておるようだが彼の行政手腕がなければ、この国は立ち行かぬ。お前たちも三成の能力を認め、協力せねばならぬ」


 儂は彼らの間に婚姻関係を結ばせることにした。三成の娘を清正の嫡男に嫁がせたのだ。これは両者の関係を深めるための政略結婚だった。


 これらの政策によって、豊臣政権内部の対立は徐々に解消されていった。だが最大の脅威は依然として、関東の地で静かに牙を研いでいた。徳川家康である。


 ◆


 家康は関東で着実に力を蓄えていた。儂が与えた領地はかつての記憶よりも狭いがそれでも百五十万石の大大名だ。そして彼はその経済力を背景に、多くの大名たちと誼を通じていた。


 儂は家康を警戒していた。だが彼を排除する術はなかった。もし、彼を露骨に潰そうとすれば、天下は再び大乱に陥ってしまうだろう。


 ならば、どうすれば良いのか。儂は考え続けた。そして一つの結論に達した。


 毒は薬として使う。 家康を、豊臣政権の中枢に取り込み、その力を利用する。そして彼が野心を抱く隙を与えない。


 儂は五大老・五奉行制度を正式に発足させた。これはかつての記憶でも行ったことだが今回はその運用を根本から変える。


 儂は家康を五大老の筆頭として、政権運営の中心に据えた。


「家康殿。そなたの力が必要だ。関白秀次を補佐し、この国を治めるために、その知恵を貸してほしい」


 儂は家康に、深く頭を下げた。天下人としてではなく、この国の未来を思う一人の老人として。


 家康は心底驚いた様子だったがすぐに承諾した。


「太閤殿下にそこまで言われては断るわけには参りませぬ。微力ながら、この家康、尽力させていただきまする」


 これで家康を京に呼び寄せ、その動向を常に監視することができる。そして彼が関東で自由に力を蓄えるのを防ぐこともできる。


 だが家康はそれで黙っているような男ではない。彼は巧みに諸大名との関係を深めていった。特に、伊達政宗や細川忠興といった、野心的な大名たちと親密になった。


 そして彼は儂の腹心である三成を標的にした。


「太閤殿下、折り入って申し上げたいことがございます」


 ある日、家康が儂を訪ねてきた。


「石田三成のことでございますが彼は近頃、増長が過ぎるように思われます。諸大名からの不満の声も高まっております。このままでは豊臣政権に亀裂が入りかねませぬ」


 これは家康の罠だ。彼は三成を失脚させ、政権内部に混乱を引き起こそうとしているのだ。


「家康殿、心配は無用だ。三成は儂の忠実な家臣だ。彼が増長しているとは思えぬ」


 儂はきっぱりと言った。


「むしろ、三成に対する不満を、陰で煽っている者がいるのではないか。儂はそう疑っておる」


 儂は家康の目を、射抜くように睨みつけた。家康は顔色一つ変えなかった。


「滅相もない。私はただ、豊臣家の未来を憂慮しているだけでございます」


 家康はあっさりと引き下がった。だがその目の奥の光は何も諦めてはいない。


 儂と家康の静かな腹の探り合いは続いた。儂は家康を警戒しながらも、彼の比類なき能力を高く買っていた。この男を敵に回すのはやはり得策ではない。


 儂は家康との間に、もはや断ち切ることのできない関係を築くことにした。


「家康殿、秀頼もいずれは成人する。その際には正室を迎えねばならぬ。ついてはそなたの孫娘を、秀頼の正室として迎えたいのだがどうだろうか」


 家康の孫娘、千姫を秀頼に嫁がせる。これもかつての記憶通りだ。だが今回はその意味合いが全く違う。家康を秀頼の外戚とすることで彼自身に豊臣家を守るという当事者意識を持たせる。家康が豊臣家を滅ぼすことは自らの孫娘の家を滅ぼすことにも繋がるのだ。


 家康は少し考え込んだが最終的には承諾した。


「それは光栄なことでございます。喜んでお受けいたします」


 これで家康を豊臣家という大きな船に、否応なく乗り込ませることができた。だが油断はできぬ。


 儂は己の老いを自覚していた。二度目の人生も、また終わりに近づいていることを感じていた。残された時間で儂は豊臣の未来を、この国の未来を、確固たるものにしなければならない。


 儂は一つの大胆な構想を抱いていた。それはこの国の在り方、天下の体制そのものを変革することだ。


 儂は関白秀次、そして五大老・五奉行を集め、宣言した。


「皆の者、よく聞け。儂はこの国に永続的な平和をもたらすため、新たな体制を築こうと思う」


 儂が提示したのは「公武合体政権」だった。


「豊臣家はこれからも関白として天皇家を補佐し、まつりごとを司る。そして武家の棟梁として、征夷大将軍を復活させる」


 広間に再びどよめきが起こった。征夷大将軍は足利幕府が滅亡して以来、空位となっていた武家の頂点だ。


「征夷大将軍には徳川家康殿を推挙する」


 家康は驚きのあまり目を見開いた。他の大名たちも、信じられないといった表情を浮かべている。


「豊臣家は京にあって朝廷を守護し、内政と外交を担う。徳川家はそうだな……鎌倉を本拠とし、全国の大名を統率し、軍事と治安維持を担う。この両輪で天下を治めるのだ」


 これは権力を二分する構想だった。公家(豊臣)と武家(徳川)が並び立ち、互いに牽制し合いながら、協力して天下を治める。家康に天下人としての名誉と実権を与える代わりに、豊臣家と同格とすることでその権力を完全に掌握させない。


「しかし、太閤殿下。それでは天下は二つに割れてしまいます」


 三成が懸念を示した。


「心配はいらぬ。最終的な決定権は関白秀次が持つ。だが重要な事項については征夷大将軍の意見も最大限尊重する。両者で話し合いながら、この国を導いていくのだ」


 これは儂が考えうる、最善にして最後の策だった。家康の野心を満たしつつ、豊臣家の存続を図る。危うい均衡の上に成り立つ体制だがこれしか道はない。


 家康はしばらく黙考していたがやがて深く、深く頭を下げた。


「……太閤殿下の深謀遠慮、感服いたしました。謹んで征夷大将軍の職をお受けいたします」


 儂は心の底から安堵の息を吐いた。最大の賭けに、勝ったのだ。


 こうして、新たな体制がスタートした。豊臣家と徳川家による二頭政治。前代未聞の試みだったが儂はこれが未来への確かな希望となると信じていた。


 ◆


 慶長三年(一五九八年)。儂は六十二歳になった。


 伏見城の床に伏せる儂の体は再びあの懐かしい死の臭いを纏い始めていた。だが不思議なことに、今回はあの時のような絶望も孤独もなかった。心は澄み切った秋の空のように、不思議なほど穏やかだった。


 儂はこの八年間で多くのことを成し遂げた。


 秀次との悲劇を回避し、彼を立派な後継者として育て上げた。無謀な朝鮮出兵を中止し、民の命と国の富を守った。そして公武合体という新たな体制を築き、豊臣政権の未来への大きな布石を打った。


 もちろん、すべてが完璧だったわけではない。家康の野心は依然として燻っており、豊臣の未来には一抹の不安が残っている。だがそれで良いのだ。歴史とは常に揺れ動くものなのだから。


 儂はやるべきことをすべてやった。後は儂が愛した者たちが儂の遺志を継いでくれることを信じるだけだ。


 死期を悟った儂は五大老・五奉行を枕元に呼び寄せた。


「皆の者、よく聞け。儂の命も、もう長くない」


 儂は掠れた声で言った。


「儂が死んだ後も、関白秀次殿を盛り立て、豊臣家を支えていってほしい」


 儂は家康の手をそっと握った。その手は儂と同じように皺深く、そして力強かった。


「将軍殿。そなたには秀次殿の後見役を頼みたい。そなたの力で秀次殿を助けてやってくれ。そしてこの公武合体の体制を、何としても守り抜いてほしい」


 家康は静かに頭を下げた。


「承知いたしました。この家康、命に代えても、太閤殿下の御遺志を継ぎ、この国の平和を守りまする」


 その言葉が真実かどうかはもはやどうでもよかった。儂はそれを信じることにした。


 そして儂は利家の手を握った。


「又左、後は頼んだぞ。秀頼のこと、そして寧々のこと……お前だけが頼りだ」


 利家は声を殺して泣きながら、何度も頷いた。

 儂が健康に気を配ったおかげでこの親友はかつての記憶よりも幾分長生きしてくれた。それだけでも、儂が戻ってきた意味はあった。


 儂は秀次と秀頼を呼んだ。立派な青年になった二人を見て、胸が熱くなる。


「秀次、秀頼。お前たちは本当の兄弟だ。力を合わせ、この国を治めていけ。決して、決して争うことのないようにな」


「「はい」」


 二人は声を揃えて、力強く答えた。


 儂は満足だった。これでもう思い残すことはない。


 安堵したのもつかの間──意識がゆっくりと遠のいていく。


 闇が儂を優しく包み込む。だが今回は後悔も無念もない。


 やり遂げたのだ。 やれるだけの事はすべて。


 ・

 ・

 ・


 儂は再び、夢を見ていた。それは儂が作り変えた、新しい未来の夢だった。


 儂の死後、天下は秀次と家康によって巧みに治められた。二人の間には常に緊張があったが互いに牽制し合いながらも、決定的な対立は最後まで避けていた。


 秀次は関白として内政にその手腕を発揮し、国を豊かにした。家康は征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、武家社会を力強く統率した。


 秀頼が成人して後継者問題が再燃した時も、秀次は冷静だった。寧々の助けを借りて淀殿を説得し、秀頼を自らの養子として迎えた。そして秀頼がさらに成長した暁には関白職を譲ることを天下に約束した。


 天下取りの夢を事実上絶たれた家康はやがて徳川家の安泰と、この公武合体という奇妙な体制を維持することに専念するようになった。


 豊臣家と徳川家による二頭政治は百年近く続いた。その間、天下は泰平を謳歌し、文化は爛熟の時を迎えた。


 だが永遠に続くものはない。時代の流れと共に、両家の力関係は変化していった。そして遥か海の向こうから新たな脅威が迫る中、この国はより強力な一つの政府を必要とした。


 それは血で血を洗う戦ではなかった。豊臣と徳川が手を取り、平和裏に一つの新たなる国家を誕生させたのだ。


 豊臣家はその後も日本有数の名家として存続し、歴史にその名を刻み続けた。


 夢の中で儂はそれらをすべて見届けた。

 ああ、満足だ。儂は未来を変えることができたのだ。


 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢


 どこからともなく、懐かしい辞世の句が聞こえてくる。

 かつては無念と共に詠んだこの句が今はなんと心地よく響くことか。


 うむ、悪くない。


 悪くない人生だった──。


 ・

 ・

 ・


 慶長五年、冬。


 秀吉が世を去って、二年余りの歳月が流れた。

 儂、徳川家康は征夷大将軍として任じられた鎌倉の屋敷で一人静かに雪見酒を嗜んでいた。


 京では関白秀次殿があの石田三成や前田利家殿に支えられ、そつなく政をこなしている。そしてこの鎌倉では儂が東国の武士たちを束ねている。

 豊臣と徳川による二頭政治。あの人が遺した奇妙な天下の形は危うい均衡を保ちながらも、今のところ穏やかに動いていた。


「……太閤殿下」


 盃に映る己の顔を見つめながら、儂は無意識にその名を呟いていた。

 あの男はいったい何者だったのか。


 儂の知る豊臣秀吉はまさに日輪の子。人を惹きつけ、焼き尽くさんばかりの苛烈な上昇志向の塊であった。目的のためには手段を選ばず、敵対する者は容赦なく根絶やしにする。その一方で驚くほどの人懐こさで人の心に滑り込む。底が知れぬ、まさに化け物のような男。


 儂は生涯、あの男を警戒し、そしていつか必ず取って代わってやろうと、その野心を心の底に燃やし続けてきた。


 だがあの小田原の一件から、あの人は変わった。

 いや、まるで別人にでもなったかのようだった。


 儂を関東に移封しながらも、その力を巧みに削ぎ、枷を嵌めたあの深謀遠慮。狂気の沙汰としか思えなかった唐入りを、あっさりと中止した現実主義。そして何より、儂を征夷大将軍に任じ、あろうことか天下の権力を二分するなどという前代未聞の策。


 全てが儂の計算の上を行っていた。あの人は儂が何を考え、どう動くかを、全て見通していたかのようだった。


 最後まで分からなかった。

 かつてあれほど猜疑心の塊であった人がなぜ秀次殿をあれほどまでに信頼し、後継者として育て上げたのか。儂や他の大名たちに、なぜあれほどまでに頭を下げ、協力を請うたのか。


 まるで一度死んで地獄を見てきたかのような……。

 馬鹿なことを。


 だがあの人の最期の顔は不思議なほど穏やかであったことだけは確かだ。天下への執着も、死への恐怖も感じられぬ、全てをやり遂げた者の顔だった。


「……あなたの築いたこの奇妙な天下、もう少しだけ、見届けてやりましょうぞ」


 雪の舞う庭を見ながら、儂は盃を干した。

 天下取りの野心が完全に消え去ったわけではない。

 だがあの人が命を賭して遺したこの「泰平」というものの重みを、今はこの儂が誰よりも感じている。


 あの太陽のような男が沈んだ後の世を、この儂がどう治めていくか。

 答えはまだ見えぬ。

 だが今はただ、この静かな雪景色を眺めているのも悪くはない。


 儂は空になった盃に、静かに酒を注いだ。まるで今は亡き好敵手に献杯するかのように。


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  『ある歴史家の覚書より』


 歴史に「もし」は禁句であると、我々は最初に学ぶ。だが豊臣秀吉という人物の治世、とりわけ天正十八年(一五九〇年)の小田原征伐を境にした後半生を研究する時、歴史家たちはこの禁句の誘惑と戦わねばならなくなる。彼の劇的な変化、後世に「太閤の回心」と呼ばれる謎に満ちた転換点が、その後の日本の形を決定づけたからである。


 言うまでもなく、一個人の内面的な変化がこれほどまでに国家の体制に影響を与えた例は稀有である。豊臣家が京の関白としてまつりごとを、徳川家が鎌倉の将軍としてもののふを統べるという、奇妙で、しかし驚くほど安定した両御所時代。この未曾有の泰平を百数十年にもわたって享受した我々にとって、その礎を築いた太閤秀吉とはいったい何者だったのだろうか。


 両御所時代が百年ほど過ぎた頃、京の町角にある寺子屋ではこんな手鞠歌が子供たちの間で流行っていたそうな。


 ──「ひょうたん太閤、夢を見て、から入りやめて、国開き。狸の親分、鎌倉で、ふたりで治める日の本は、今日も豊年、ええじゃないか」


 子供たちにとって太閤さんとは、貧しい足軽から天下人になった夢のような立身出世を成し遂げた英雄である。大きな瓢箪の馬印を掲げ、機転ひとつで信長公の窮地を救い、墨俣に一夜で城を築く。そんな絵本の中の英雄譚が子供たちの心を掴んで離さないのだ。


 面白いことに、この時代の庶民が語る太閤像には二つの顔がある。

 ひとつは、信長公もかくやという苛烈さと、底なしの野望を持って天下を駆け上がった前半生の「日輪の秀吉」。そしてもうひとつが、小田原での天下統一を成し遂げた後、まるで人が変わったかのように慈悲深く、賢明になった後半生の「観音様の太閤」。


「うちのおばあちゃんが言うてたけどな」

 と、江戸の講釈師は扇子でパンと膝を叩いて語る。


「小田原の陣の最中、太閤さんは三日三晩、誰にも会わず陣幕に籠ったそうじゃ。その時に、未来の世まで見通す不思議な夢を見た、とな。夢から覚めた太閤さんは、それまでの燃えるような顔やのうて、まるで仏様みたいに穏やかな顔になっていた。そして、それまで躍起になっていた唐入りをぴたりと止め、国内の治水や新田開発に力を入れ始めたんやと」


 もちろん歴史書にそのような記述はない。しかし民衆とは常に、無味乾燥な事実よりも血の通った物語を求めるものである。彼らは秀吉の劇的な政策転換を何か人知を超えた出来事として理解しようとした。鶴松君の死を嘆くあまり、一度魂が抜けて、そこに国を思う大きな何かが宿ったのだとか、千利休が点てた一服の茶に悟りを開く何かがあったのだとか。そういった尾ひれのついた噂話がまるで真実であるかのように、人々の間で囁かれ、愛されてきたのである。


 無論、学者の間ではこのような民衆の幻想を一笑に付す者が大半である。彼らは「太閤の回心」を、より現実的な視点から分析しようと試みてきた。


 曰く、天下統一という大事業を成し遂げたことによる、燃え尽き症候群にも似た精神的変化であった、と。あるいは前田利家や千利休といった、彼の周囲にいた賢人たちの長年にわたる諫言が老境に至ってついに彼の心に届いたのだ、という説も根強い。


 しかし最も興味深いのは、徳川幕府初代将軍、徳川家康が遺したとされる回顧録の一節である。


 ──「太閤という人は、まるで一度死んで、己の死後の世を見てきたかのようであった。あの人の晩年の政策は、ことごとく、我らが動き出す一歩先、二手先を読んで打たれていた。まるで、未来に起こるべき戦乱を知り、その芽をひとつひとつ、根気よく摘み取っているかのようであった。あれは、人の知恵の及ぶところではない」


 この記述は家康の秀吉に対する畏敬の念の表れと解釈されているが、一部の好事家たちはやはり太閤は何かを超自然的な力で未来を知ったのだと主張してやまない。


 結局のところ、真実は歴史の闇の中である。


 人間という存在はひとつの人格の中に矛盾した複数の顔を持つものであり、豊臣秀吉という巨人もまたその例外ではなかったに過ぎないのかもしれない。


 確かなことは、彼が遺したものは戦乱の根絶と、長く続く泰平であったという事実だけだ。


 苛烈な野心家であったのか、稀代の人たらしであったのか、それとも未来を憂う賢君であったのか。


 その評価は、時代と共に揺れ動き続けるだろう。


 歴史上の人物の評価とは所詮、後世の人間が自らの都合の良いように投影する幻影に過ぎないのだから。


 それでも人々は語り継ぐ。


 ある夏の日、天下人が見たという一つの夢がこの国の形を変え、多くの人々の運命を変えたのかもしれない、と。


 (了)

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