5話 彼女を知る人物
俺は誰もいなくなった教室で帰り支度をしていた。
いつもならさっさと鞄を持って出ていくが、ぼんやりしていたら気づけば俺一人になっていたのだ。
こうやって一人だとこの空間がとても快適に思えてくる。
それは自分だけに与えられた特権のような感覚だった。
差し込み始めた夕日を浴びながらがらんどうの教室を見渡す。
「ふう、帰るか」
帰ろうと立ち上がった矢先、廊下の先からぱたぱたと足音がした。
段々と大きくなり、こちらへと近づいているようだ。
まさか、諫矢が忘れ物でもして戻ってきたのか、一瞬そう思ったが違うらしい。
軽やかな足取りはどこか浮ついていて、男子のそれとは明らかに異なる。
足音が教室前で止まると、ドアの陰から人影が現れた。
「あれー、まだ誰かいるー?」
案の定、女子生徒だ。しかも、西崎率いる陽キャグループに属する山吹美央だ。
「てか一之瀬君じゃん。なんでまだ残ってるの?」
「山吹さんか」
「って何その反応。相変わらずテンション低いねー」
山吹は長い前髪をかったるそうにどけながら、考えの読めない妖艶な笑みを浮かべる。
「どうしたー? 一人で黄昏てた系?」
山吹は馴れ馴れしい口調で普段全く話さない俺に構ってくる。元々、この女子が誰彼構わずちょっかいを掛けるのは見てきたが、いざ話しかけられてみると距離感が異様に近くて戸惑う。
内輪で固まり、他者には敵対的な西崎とは少し違うタイプの女子だと思った。
まあ、どちらにしてもギャル系なのは変わらないけれど。
「ん?」
間延びした声で俺の返答を待っている。
このクラスになってまともに顔を合わせたのも会話をしたのも初めてだった。どう答えていいか分からず沈黙してしまう。
まさか、君たちのグループと渡瀬さんが仲悪いっていう話を諫矢としてた、なんて打ち明けよう物なら西崎に告げ口され俺がクラスから排斥される恐れがある。
「……」
そんな俺を余所に山吹は教卓を通り過ぎ回り込むようにこちらへと歩み寄ってくる。
「あはは。黙ってると暗そうに見えるよ。せっかく可愛い顔してるのにそんなんじゃ女子にモテないよ?」
「かわいい……だって?」
「そうそう。何か癒し系だよね、一之瀬君って」
声を出した俺に満足したように山吹が小首をかしげた。長い前髪の束が揺れて目にかかる。その名の如く山吹色に煌めく髪。奥にうっすら透けて見える瞳が嬉しそうに細まった。
「諫矢から聞いたけどさ。君って結構面白いんだって?」
そのまま山吹は自分の席を通り越し、すぐ近くまでやってくる。俺の隣、渡瀬さんの席だ。
「そこ、渡瀬さんの席だけど」
「うん、知ってる」
何の躊躇もなく椅子に腰かける。山吹は長い脚を遊ばせながらこちらを見ている。
「どうしたどうした? なにかキョドってない?」
山吹は俺を見てからかってくる。ゆらゆら揺れず長い前髪の束が頬に触れる距離まで来たところで俺は身を引いた。
「ていうか、山吹さんこそ何の用だよ。忘れ物とか?」
「んー、気分?」
「気分って」
そんな事で帰らないで教室に戻ってくるのか。
いや、もしかすると毎日こうやって、皆がいなくなった頃に西崎グループの女子は集まっているのかもしれない。そして誰々が好きとか嫌いとか、そういう話をして盛り上がっているのかも
「あはは、別にこれから皆で集まって女子会するとかじゃないよ? 心配した?」
そんな考えが表情に現れていたのだろうか。山吹は心を読んだような言い方をする。
だが、それを聞いて俺が安心したのも事実。
もし、この後どんどんギャル連中が来たら気まずさが限界突破して奇行に走る自信がある。
「ほんとは瑛璃奈たちと遊ぶ予定だったんだけどさ。さっき校門で諫矢が一之瀬君と会ってたって聞いたら興味湧いて抜けてきちゃった」
小さく舌を出す山吹。俺は放心状態でそれを見ていた。
「てかさ、一之瀬君って奏音と仲いいの?」
「は?」
出てきたのは渡瀬さんの下の名前だ。山吹はまるで友達を呼ぶような気軽さでそれを口にする
「たまに隣同士仲良さげに話してるじゃん? 一之瀬君が女子と会話してるのってあんま見たことないし。割と打ち解けてるなーって」
探るように山吹は付け加える。特に他意はないらしい。
「そうかな。向こうが話しかけてくるだけだよ」
「うわ、なんか冷たいね~。ま、そういう事にしといてあげるよ」
本当は恥ずかしくてそう言うしか無かった。
だが、多分山吹は俺の照れ隠しの強がりすらも把握済みなんだろう。どこか姉が弟をあやすような言い方で茶化してくる。
「というか、山吹さんこそ。渡瀬さんとまるで仲良いみたいな言い方するね」
「なになに、あたしら仲悪く見えてた?」
「いや、そういう意味で言ったんじゃ……」
「あははははは!」
誰もいない教室に山吹の甲高い笑い声が大きく反響した。
「いやでも一之瀬君知ってんじゃん。あたしら……ていうか、瑛璃奈が奏音の事嫌ってんの」
見透かしたような山吹の一声。俺は驚きで喉が固まる。
そのあと、かろうじて出てきたのは自分でも間抜けすぎる一言だった。
「やっぱそうなのか……」
「いや、うちは違うよ? あくまでも瑛璃奈が、ね」
山吹さんは西崎の事を敢えて強調して言う。何故か寂しそうな声音で。
「あー、紫穂もか」
「……」
「ほら、あたしらのグループの野宮紫穂。瑛璃奈といっつもいるのわかるっしょ? バレー部の」
「ああ、あの黒髪ショートカットか」
「ちょ、髪型だけであたしら判別してるみたいだな」
男口調でツッコミを入れる山吹。何かもう遠慮しないギャルだ。
だが、それよりも。
「悪い。クラスの女子の事はまだあまり知らないんだ」
西崎グループの女子のフルネームまでまだ良く知っていない。そんな自分の無知さにドン引きする。
一応、四月からずっとクラスメートだったんだぞ……
「あの二人は特に奏音の事嫌ってるけどさ。あたしは違うから」
山吹は念を押すように長い人差し指をぴっと立てる
「そうなの?」
ふふん、と。指先をそのまま唇の端に持っていき、得意げな顔をする山吹。また前髪の束がはらりと彼女の頬を滑るように動く。
「だって奏音とは同中だったし。何なら一年の時も同じクラスだったし?」
「初耳だ」
山吹ははっきりと渡瀬さんの事を友達だと言った。俺は自分の耳を疑う。
「友達なの? 違うグループなのに?」
「あはは、それ敢えて言うか?」
俺の空気の読めなさを指摘しながらも、山吹は機嫌良さそうだ。
「何なら瑛璃奈も一年の時から同じクラスだったけど? しかも、うちら三人とも一年のクラスの時は同じグループだって知ったらビビるだろ?」
「はえ?」
「何その顔、一之瀬マジウケるな」
驚く俺を見て山吹がうきゃきゃと笑う。
「てゆーか、瑛璃奈と奏音が仲悪いのは知ってるとか一之瀬無駄に気が回るな?」
「このクラスでは周知の事実だよ」
最早取り繕う必要もない。はっきり言うと山吹はもう一度大きく笑った。
「元々仲良かったからさ、今の関係がマジヤバなの。わかる?」
「喧嘩でもしたの?」
思いつくのはそれくらいだった。女子同士の争いは一度拗れるとめんどくさくなるイメージがある。
河川敷で殴り合って仲直りするのは男子だけ、それも漫画の中だけの話だろう。
山吹は一息ついたように体を起こすと、長い脚を組み替えて椅子にもたれた。
「まあ、そんな感じかな。はあ、二人が仲直りしてくれたらなあ……」
気だるげなため息。そのまま渡瀬さんの机をそっと撫でる。こまやかに動く指先はそれぞれ違う色のネイルだ。深い赤、ピンク、ペールブルー、ラメの入った緑色、じっと見ていたらすっとその手が引かれる。
「とりあえず、一之瀬君にそれだけ教えてあげたくてさ。心配してるって風晴君が言ってたし」
「ちょっと待ってくれ。別に俺は心配なんか……」
立ち上がろうとする山吹に俺は必死になって言い返した。
「ああいいよ隠さなくて。普通に奏音可愛いし庇いたくなるのわかるし」
何とも軽いノリで山吹は俺をフォローする。
ひらひらと手を振りながら軽やかに立ち上がる。
「普段こうやって話す機会ないからさ。一之瀬君に教えてあげたくって」
「俺が知った所で解決に向かう話なのか、これ」
仏頂面で言う俺を見て、山吹は肩を竦めてみせる。
「じゃあ、先帰るね? 一緒に帰るの恥ずかしいっしょ?」
「一緒に帰るつもりだったの?」
「あはは。期待した?」
「してねーよ」
男子同士話すときのような、割と素の口調で言い返してしまう。だが、それを聞いた山吹は悪い顔一つしない。
「でも意外。一之瀬君も奏音の事心配してるんだ」
どこまでも俺をからかうような口調で、山吹は長い前髪の束を耳元へとかき寄せる。
「奏音を知る者同士さ、仲良くやってこーよ。今度ご飯でも行こっか」
「……」
「え何。うちじゃ嫌? 結構落ち込むなそれ」
山吹がわざとらしい口調でおどけてみせる。
「機会があれば行くかもな」
「それ、絶対行かないやつ!」
もう一度楽しそうに笑う山吹の声が二人きりの教室に響いた。
「んじゃ、そーゆーことで。じゃね」
そう言って山吹はぱたぱたと教室を出ていった。
そのまま遠くなっていく落ち着きのない足音を一人聞く。
どうにも心の読めない駆け引きをするギャルだ。油断ならない。
俺はそう思いながら、山吹の気配が完全になくなるのを待ってから下校した。




