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21/21

21話 始まる

 十二月も半ばに入った。

 連日積もり続ける雪のせいで、今では街中が白一色だ。


 ここ最近の俺は、今までよりずっと早い時間帯に登校している。

 まだ薄暗さが残る早朝に一夜で積もった足跡一つない雪道を漕ぎ、学校の昇降口に入るのだ。

 まだ暖房の効いておらず冷たく、そして人も誰もいない廊下。

 そこを歩くのは早く来た俺だけの特権に思えて心が弾んだ。

 生徒が誰もいない教室は、ヒーターのこんこんという音だけが響く。あとは時間が止まったような静寂さだ。


「ふう」

 僅かな温かみを感じながら、ヒーター横の自分の席についた。

 時刻は七時を回っているのに、見上げた空はもどかしいほど暗い。

 朝日を遮る分厚い曇天からは今この瞬間も雪が際限なく降り続けていた。

 いくら雪かきしてもたった一晩で雪に埋もれる街。どこか憂鬱な気分にさせるこの街の冬。

 東京にいた頃にはけして見る事の無かった光景は俺の中では当たり前のようになりつつある。


「ん?」

 不意に遠くからぱたぱたという乾いた音がする事に気づいた。

 開けっ放しのドアから入ってきたのは渡瀬奏音だった。


「あっ。一之瀬君もう来てたんだ」

 隣の席に鞄を置いたかと思うと、渡瀬さんは軽い足取りでヒーターのすぐ横にやってくる。


「今日も寒いね」

 カンカンと一際勢いを増すヒーターの横で渡瀬さんは手のひらを広げ暖を取る。

 俺もそれに合わせて動く。


「あ、マフラー乾かすんだ?」

「うん」

 行きがけの雪と寒さで凍り付いていたマフラー。教室内の熱で今ではぐっしょり濡れていた。


「ね、一之瀬君。この雪でもチャリで通ってるの?」

 渡瀬さんはちょこんとヒーターの上に腰かけながら、面白そうに笑った。


「何で?」

「車から見えたし。私、お母さんの車で送ってもらってるんだよね」

「あっ、あの車か」

 通学途中、学校に向かう道を一台の車が追い越していったのは覚えていたけど渡瀬さん家の車だったなんて。


「道も凍りまくりなのに、よく怖くないね」

 渡瀬さんは曇りガラスを擦りながら雪景色を見る。


「それにチャリ通って冬は禁止じゃない?」

「そういう決まりは言われてないし。ならセーフだって」

 渡瀬さんはこちらを見ると、短いツインテールの片割れを撫でながら笑った。


「なにその理論。そんな人いないから学校側もいちいち言わないだけじゃない?」

 渡瀬さんの言う通り、雪が積もれば自ずと自転車で通学をする奴はいなくなる。

 本当なら冬場の自転車は危険だから禁止だとか、はっきり通達するべきなんだろう。でも、ここの先生たちは割と適当で勉強さえできていればいいというスタンスだ。その辺の分別も生徒達に任せているのかもしれない。


「徒歩だと四十分もかかるし」

「いやいや、危なくない? って話。怖くて私には無理」

「渡瀬さんは毎日車で送り迎えしてもらっていいなあ」

「何それ。うらやましい? 乗せてあげるようにお母さんに頼んでみようか?」

 目を細めて俺を見る渡瀬さんはあからさまにからかいに来ている。

 ここまでのやり取りからして、俺がイエスと答えれば本当に頼んでくれそうな雰囲気。

 でも、俺はあくまでも首を横に振る。


「いいよ。流石にそれは俺も抵抗がある」

「じゃあこれからも雪の上で自転車通学するんだ」

 彼女はヒーターに乗っけていた手袋をひっくり返した。


「……でも、危ないよ」

「だいじょうぶだって」

 慣れているしそんなに危険な事ではない。そう言おうとしたのだが、顔を上げた瞬間に俺は言葉を失ってしまった。

 渡瀬さんは割と本気な顔で心配そうにしていたからだ。

 これまでの冗談のような顔つきではない。その真剣な雰囲気に俺も自然と身構えてしまった。


「気をつけてね? ほんとだよ?」

「う、うん……」

 可愛らしく念を押され、俺は思わずしどろもどろに頷いた。


「ね、一之瀬君」

「どうしたの?」

 渡瀬さんはようやく安心したようにヒーターからストンと降りた。


「私、最近学校楽しいと思えるようになったんだ」

 そういって、にっこり口角を上げて微笑む。天真爛漫な彼女の表情に俺はいちいち過敏に反応してしまう。


「渡瀬さん、結構変わったよな」

「そう?」

 きょとんとした彼女の丸い瞳。


「前はキャラ作ってた可愛い感じだったけど、今は普通に可愛くて明るい感じ」

「もう……なにそれ」

 いじらしく顔を背ける渡瀬さん。何故か俺は彼女に勝った気になる。


「人の事からかってるでしょ?」

 不満げ、だけどそれが楽しいという顔で渡瀬さんは言った。


「私がこうなれたのは一之瀬君のおかげだよ」

「そう?」

「絶対そうだよ。あ、一之瀬君照れてる? 顔赤いよ?」

 俺が思わず自分の手を触ると渡瀬さんが指をさして笑ってくる。


「ヒーターがすぐ近くにあるせいだって。ここ暑いし!」

 言い返すけど説得力なさすぎだ。


「えい」

 渡瀬さんが俺の肩を指先で小突いてくる。


「なに……?」

「えい、えい」

 反応に困る。渡瀬さんは何度も肩を小突き続け、そしてぎゅっと二の腕を握ってきた。


「どうした?」

「やっぱ暖かいなあって」

 そう言ったまま彼女は俺の腕を握ったまま、頬をもう一度緩めた。

 自然といつか渡瀬さんと手を繋いだ日の事を思い出していた。

 手のぬくもり。それが今、学ランの生地越しに伝わってくる。


「「……」」

 目と目が合う。彼女の明るい鳶色の虹彩は薄暗さの中で俺を映し出していた。

 拒むこともなく、しばらくそんな風にしていたら渡瀬さんは何かに気づいたウサギみたいに俺から離れた。


「どうしたの?」

 渡瀬さんが廊下を見るのと同時に、足音がゆっくりと近づいている事に気づいた。

 がらりとドアが開く寸前。そんなタイミングで渡瀬さんが勢いよく動き出す。


「おー。美央。おはよー!」

「おはよ、奏音」

 眠そうな顔であくびをしながらやってきたのは山吹美央だった。

 渡瀬さんは山吹の方に駆け寄っていく。

 去っていくその小さな背中をぼんやりと見ていた。

 渡瀬さんと俺は席が隣同士だけど、普段はこんなに深く話しこんだりはしない。

 こうやって、朝の誰もいない教室での数分間だけ、ヒーターの前のこの席で言葉を交わしている。


「奏音さ。最近学校来るの早すぎない? あっ」

 言いかけた所で山吹が俺の方を見るのだが、


「あ、おはよー!」

 それよりも先に渡瀬さんが新たに登校してきたもう一人の女子に反応した。更に、その背後からは野宮、そして数人の男子が現れる。バス通学の連中だろうか。


「美央。どうしたの?」

「いや、こっちの話って話」 

 山吹が顔を俺から逸らし、野宮に注意を向かせる。

 楽しそうな会話が教室をあっという間に彩っていく。朝から元気な女子の笑い声に、廊下側では男子同士で何かの話で盛り上がり始める。

 そんなやり取りを聞いていたら、急速に教室の温度が上がっている気がして登校時の寒さなんてとっくに吹き飛んでいる事に気が付いた。

 俺はふと、窓辺に目をやる。

 暗かった空も今ではすっかり朝の明るさだ。だけど、雪は収まる気配がない。


「これ、また積もるかなあ。だるいな」

 帰り道の事を考え、俺は憂鬱になっていた。



 ♦  ♦  ♦



 下校時間。俺は雪で埋もれた駐輪場に向かった。

 足跡は既に積もった雪によってかき消されてしまっている。

 おそらくは俺以外誰も足を運ばない場所だから仕方がない事なのかもしれない。


「うわ」

 俺の自転車もまた、足跡と同じように新雪に埋もれてしまっていた。

 振り返り校門の向こうを見るが、積もった雪は未だ残っている。雪の中を自転車で漕いで進むのは難しい。

 仕方ない、今日は歩いて帰るか。そう決めて俺は自分の自転車を置いたまま、駐輪場を後にした。

 四十分の道を自転車を牽いて歩くよりはマシだ。

 駐輪場には同じように放置された何台かの自転車が停まっている。いつから放置されているのか分からない。もしかしたら俺以外にも自転車で来ている奴がいるのかもしれない。


「帰ろ帰ろ」 

 今はこんなに積もってるけど、少し落ち着けば量も減るだろう。そういう時に自転車は持ち帰ればいい。


「めんどくさいなあ」

 行きは自転車だったから良かった。だけど、ここから雪の中を歩く時間を考えると少し億劫になる。

 校門に向かう途中、俺は足を止めた。


「一之瀬君」

 校舎の角に隠れるように立っていたのは渡瀬さんだった。

 ふわふわの白いファーコートを着込んでマフラーまで装備している。上半身は暖かな格好なのにその下、短いスカートとタイツ無しの足。寒くないんだろうかと毎回思う。

 渡瀬さんは何か気づいたのか、俺の背後を見るように背伸びする。


「あっ、自転車おいてく感じ?」

「この雪だからね。仕方ないから歩いて帰る」

「そ、そっか。ならいいんだけどさ……」

 やっぱり寒いみたいで、渡瀬さんは袖にひっこめたままの手をしきりに擦っていた。

 白い息が吹かれ、彼女は俺を見上げる。


「あ、あのさ。一緒に帰らない?」

「いいよ」

 答えると、渡瀬さんは嬉しそうに肩を竦める。俺もマフラーで口元を隠す。自然と出来上がる口元の笑みを隠し切れない。

 校門を出るとかちかちに凍り付いた道が俺達の前に広がっていた。


「ツルツルする!」

 その道をはしゃぎながら歩く渡瀬さん。


「あ――」

「渡瀬さん!」

 転びかけて宙を掴もうとする小さな手。気づけば俺は彼女の手を掴み身体を支えていた。

 小さな体の重みが俺にぐっとかかってくる。


「気を付けないと」

「ありがと」

 そう言って今度は慎重に歩き出す。滑らないように、そんな気構えで。

 周りを見れば同じように雪道に苦労している同級生の姿が見えた。

 まだ夕方の四時を過ぎたばかりなのに空は既に暗くなりかけている。


「一之瀬君。あのさ」

「なに?」

「今度から夏生くんって呼んでいい?」

 じっとこちらを見つめる甘い琥珀色の瞳。

 俺は小さく白い息を吐く。


「いいよ」  

「よしっ」

 答えると軽くガッツポーズする渡瀬さん。何か癒される一方、照れ臭くなる。


「夏生くん」

「なに?」

「名前で呼んでくれないんだ?」

「渡瀬さん」

「もうっ!」

 渡瀬さんは楽しそうに怒った。

 それを俺もつられて笑う。


「こういう時は私の事を名前で呼ぶんだよ?」

「奏音……ってなんか恥ずかしいなあ」

「あ。それじゃやっぱいいよ」

「なんだそれ」

 渡瀬さんがくすくすと笑う。


「ねえ、さっき美央から聞いたんだけどさ――」

 そう言って教室であった出来事を話し出す。

 会話スキルの無い俺と違って渡瀬さんは自分の事を話すのが大好きな女子だ。

 そんな彼女の聞き役をするだけでこの帰り道がだいぶ楽しいものになる。


「あっ今、奏音って呼んだ?」

「聞き間違いじゃないか?」

「ほんといじわるだね、一之瀬君は」

 歩きにくい上に油断すると滑って転ぶ雪道。寒い風も鬱陶しいったらない。

 うんざりするこの街の冬。

 だけど――心は不思議と弾んでいた。(了)


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