20話 冬間近
調理実習から数日が過ぎた。
渡瀬さんの誤解は解けた訳ではない。それでも彼女なりに着地点を見つけたらしく、最近は黒葛原と一緒にいるのをよく見かける。
また、西崎グループとの関係も若干の改善が見られている。
これまであからさまに互いの接近を避けていた節があった渡瀬さん。
だが、最近は西崎グループの女子――特に竹浪と山吹と仲良く談笑するようになった。
劇的な問題解決には至っていない。だが、解決への糸口はまだ残されている。
「工藤。またそれ見てんの?」
「ああ。まあな一之瀬」
前席の工藤は半身だけこちらに向け、熱心にスマホをいじっていた。
朝のHR前の僅かな時間もこの男は掲示板にどっぷり浸かっている。
「何か書かれてんの?」
「いや、特に大したことは書いてねえな」
そう言ってこちらにスマホの画面を見せる工藤。
そこにはこう書いてあった。
『二年の一之瀬夏生は元不良』
ふざけるな。俺は思わず画面を二度見した。
「なんだよ。反応薄いぜ一之瀬」
「他人事かよ。結構気にしてるんだけど」
ショックで声が出なかっただけだ。それを言うと工藤はやれやれと笑う。
「まあまあ気にするなよ。たかが根拠のない掲示板の書き込みだろ?」
「うるせえ。つーかこれ、お前が書いてるんだろ?」
「いやいや、そんなわけねえって」
そういって工藤はガハハと笑う。
じゃあ、野宮か? 俺はそんな風に疑心暗鬼になってみたのだが、
「ふう……」
こんな事を考えて悩むだなんて。
もう渡瀬さんの事を酷く言う悪口も書かれなくなったというのに。
俺はなんて時間の無駄で馬鹿らしい事を考えているんだろうか。そう思いって深呼吸した。
「ほんとあほくさい。工藤もいちいち真に受けるなよ」
そう言って工藤にも言い聞かす。
「俺は信じてねえからな」
「えっ?」
思わず問い返すと工藤は真剣な目をこちらに向けていた。
「だーから。俺は一之瀬の事、良い奴だって思ってるって。言わせんなよ」
何故か不機嫌そうな顔をしていた。俺が工藤を疑ったのがよほど気に障ったのか。
「諌矢も言ってたぜ。一之瀬はお人好しの馬鹿だって」
「ほんと? てか、馬鹿って……」
褒められているのか貶されているのか分からない。
だが、こうやって面と向かって言い合える関係っていうのはある意味マシなのかもしれない。
「大して話したこともない連中が好き勝手一之瀬の事を言ってるだけさ。気にすんな」
そう言って愛想良く笑う工藤。
「そもそも工藤が言い出さなければこの問題を知る事は無かったのにな……」
だが、俺はこの気さく過ぎる男子生徒を憎めずにいた。一人でいた俺に工藤はいつも構ってくれる。
たまに腹の立つ事もあるけれど、こいつのこういう所は嫌いじゃない。
「きっと一之瀬が渡瀬と仲いいから嫉妬してんだよ」
「な――」
工藤が何か聞き捨てならない事を口走ったぞ。
俺は反論しようとしたのだが……
「やっほ。何してんのあんたら」
言いかけたところで俺は椅子に座りなおした。
すらりとした体躯を揺らし、山吹が現れたのだ。
「ゲッ、山吹」
露骨に狼狽する駆動から、山吹はスマホを掠め取る。前触れ無しの動きすぎて工藤は抵抗する間もなかった。
「あは。何これ一之瀬が不良って。今はこんな噂が流行ってるんだ?」
そう言って俺の反応を窺うように山吹が長い前髪を頬に寄せる。
「工藤が書いてるんだとばかり思ってたけどさ。これもしかして野宮とか西崎辺りが書いてたりする?」
「ないない」
山吹が言うならそれなりに信じられる。俺はほっと胸を撫でおろす。
一方、すぐ傍でそれを聞いていた工藤はやけに食い気味に身を乗り出していた。
「俺は違うからな一之瀬」
「わかった。わかったから落ち着けって工藤……」
そんな俺と工藤のやり取りを見ながら、山吹は涼し気な顔だ。
「でもさ、一之瀬。全然気にしてない風だよ?」
「気にしたところでどうにもならないし」
言い返すと山吹は何故か満足そうに頷いた。まるでその言葉が聞きたかったとでもいうように。
「奏音も同じようにしょうもない悪口とかいちいち気にしなくなったみたいだね?」
「ああ、そんな感じっぽいな」
二人して視線を向けた先、教室前側のドア周辺に渡瀬さんがいた。
彼女はだるそうに椅子に腰かけている黒葛原に話しかけていた。
スマホの動画を見て楽しそうにはしゃぐ渡瀬さんを見ながら控えめに笑って反応している。尊い。
「渡瀬さん、最近黒葛原と仲いいよな」
「あの二人、結構似た者同士だからなあ。結構馬あってそうだよね」
その様子を見ていたのは山吹もらしい。保護者のような眼差しで渡瀬さんを見守るその横顔は安堵感に満ちていた。
「なんなんだよ、お前ら。最近仲良いみたいだけど」
そんな俺達に工藤が怪訝そうにしている。
渡瀬さんの事を含め、俺達が話している内容の全部までこいつは知らない。
「ねえ。これってさ」
「な、なんだよ。山吹」
山吹が不意に俺に顔を近づけ耳打ちする。
「なんかさあ。私と一之瀬だけの秘密って感じして、良くない?」
「意味深な言い方やめろ」
とうとう耐えられなくなった俺は山吹から逃げるように椅子を引いた。
「あはは」
からかうように山吹は声を出して笑う。
そして、すっかり置いてけぼりの工藤の方を見てもう一度薄く微笑む。
「何工藤、私と一之瀬が付き合ってるとでも? そう言いたいの?」
「い、いや。俺はさぁ……うーん」
はっきりと物言いする山吹にさしもの工藤も口ごもる。
だが、そんな言い方をされて気が気じゃないのは俺も同じだった。
「山吹、誤解を招く言い方はマジでやめてくれ」
「ああごめんごめん。うちら何もないし、ね?」
山吹はどこか呆れたように、大きな溜息をつく。
何故か髪に隠れた彼女の表情が見えない事に俺は違和感を覚えた。
「まあいいや、奏音と一之瀬のやり取りも観察させてもらうから。奏音って六花と話してる時よりも一之瀬と話してる時の方が良い顔してる時あるし」
「茶化してるのか、それ。どういう事だよ?」
俺は言い返すのだが山吹はその問いに直接答える事は無かった。
「むきになるとこが怪しい。ほんと一之瀬ってかわいいね」
「はあ?」
どこか知性を感じさせるこのギャルは相変わらず何を考えているのか心が読めない。
意味の分からない駆け引きばかりしたがる。
山吹はその後もしばらく俺と工藤、特に俺の方をやたら茶化した発言を繰り返した後、西崎達のグループへと戻っていった。
よくわからない事だらけの日常。深く考えたらいろいろ悩みそうな学校生活は続く。
――そうこうしている内に、季節は完全な冬となった。




