17話 オムライス
時刻は夜の七時になろうとしていた。
真新しいダイニングキッチンに俺は立っている。
広い三口のガスコンロの一角ではフライパンが温められていた。
「でも、どうして?」
ばちばち言い始めたフライパンを見ながら、俺は背後の冷蔵庫を漁っている渡瀬さんの背中に問いかけた。
「だって、一之瀬君から聞いた班メンバーだと調理実習失敗するじゃん!」
黒葛原と他人任せの男子コンビか。確かにあいつらが料理作る光景は想像できない。
「裏掲示板を利用しているだけあって、渡瀬さんはクラスの人間を俺よりも知ってる」
「もうっ! 本当いじわる」
そう言うけれど、渡瀬さんの口元は笑っていた。俺にいじられるのはそこまで嫌じゃないらしい。
「あの三人、この前の授業中もずっとスマホ見てたよ。多分何も計画してないだろうな」
やる気も協調性もない孤高ギャルの黒葛原六花。そして、一見人畜無害そうだけど何に対しても消極的な男子二人。この面子に渡瀬さんが入って果たしてうまくいくのかな。
班決めの時から俺は不安でしかない。
「でも、渡瀬さんはやる気なんだよね?」
「だって、もうこれ私が一人で作って皆に食べさせるしかないし。食材も全部自分で用意するよ」
そういうと渡瀬さんが腕まくりしながら手を洗う。
何が彼女をこうも奮い立たせるのか。
流れる水をじっと見ながら俺は語り掛ける。
「それは――罪滅ぼしっていうのもある?」
渡瀬さんからの返答は無かったが、その沈黙が答えだと思った。
渡瀬さん自身が頑張る事で汚名を払拭させたいんだろう。なら、俺がやる事は一つだ。
「俺にできる事なら手伝う」
渡瀬さんの隣に向かい手を洗う。エプロンは無いけれど、まあ問題はない。
「一之瀬君。私がんばるからね」
渡瀬さんの髪型は珍しいポニーテールになっていた。
ツインテールより料理しやすいからとか、そんな理由だろうけど。
だが一方で、普段見ない髪型に少しどきっとしてしまう。
俺は心拍数を気取られないように努めて冷静に振る舞う。
「何作る?」
「オムライス!」
即答だ。卵に牛乳といった台所に並ぶ材料を見てほとんど分かっていたけど。
しかし、かなり強い意志を感じる語気だった。
「オムライスなら無難だしそんなに難しくもないからな」
「あのね、私が作りたいのはオシャレなふわとろの具がとろーっとライスの上にかかるやつ」
あれ、妙に事細かな要求が飛んできたぞ。もじもじしながら渡瀬さんは続ける。
「いつか言ってた、一之瀬君のオムライス。それを作りたいっ」
肩より下にある目線はどこまでも真っ直ぐにこちらを見上げていた。
「ああ。切腹オムライスな」
「せ、切腹っ?」
それを聞いて可笑しそうに笑う渡瀬さん。
――そして、俺達の料理が始まった。
♦ ♦ ♦
「難しいなあ」
はりきって始まったオムライス作りだけど、上手く進んでいるとは言い難かった。
「渡瀬さん。本当に普通のオムライスじゃダメなの?」
「やだ。切ると『とろーん』ってなるやつがいい」
わがままな事を言うけれど仕草がいちいち可愛いので許す。
しっかり焼き上げた卵の生地でライスを包む普通のやつとは違い、切腹オムライスはご飯の上に中身が超半熟のオムレツを乗せる。
そして、オムレツを切り開くと中のとろとろの半熟の具がとろりとご飯全体にかかりオムライスのようになる。
オムレツをぱっくり切り開く様から切腹オムライスとか呼ばれているらしい。名前考えた人エグすぎ。
「テレビとか料理動画だと綺麗にとろーんって出てくるのに……現実は上手くいかないね」
半熟で作ったつもりのオムレツが固くなりすぎたのか、切り開いても既に中身が固まっている。ご飯全体に上手く広がらない。この加減が意外に難しい。
渡瀬さんにレクチャーしながら何度もオムレツばかり作り直していた。
「卵はまだある?」
「お母さんが買いだめしてるからもっかいできる」
「じゃあ、次こそは」
正直、渡瀬さんの料理が下手というわけではない。まだこの料理に慣れていないだけ。
焼き加減のタイミングさえ掴めば作れるようになる。その加減を何としても今日覚えてほしかった。
「よし。一旦火とめて」
渡瀬さんが俺の指示に従って火を消す。
しかし、火を消してもなお、フライパンの余熱で溶き卵は固まっていく最中だ。早く移さなければならない。
「渡瀬さん。卵固まっちゃうよ」
「や、やば!」
慌てた様子で渡瀬さんがフライパンの中、オムレツの具となる半熟卵を一旦ボールに戻した。
「じゃあ今度は皮の方を作ろう」
溶き卵の内2/3の分量がオムレツの具となる。そして、残りの1/3の溶き卵でオムレツの皮を作る。
残りの溶き卵をフライパンに注ぐ。火の強さは調節しやすいように弱火。
「そろそろ」
それを見ながら、俺は渡瀬さんの肩をそっと叩いた。
渡瀬さんがボールに入れていた超半熟状態の具をあける。
フライ返しを差し込み、そのまま三つ折りにするとオムレツは完成した。
「あとはこれをチキンライスにのっけて切腹させるだけだ」
「今度は上手くいくかなあ」
まだ心配そうな渡瀬さん。
だが、失敗した原因は俺も分かっている。
二回とも具になる半熟卵に熱を加えすぎたのだ。
なお、失敗したオムレツは俺が全部食べた。うぷぷ……
「お願い……」
祈るような口調で渡瀬さんがチキンライスにオムレツを乗せる。
もう三度目。泣いても笑ってもこれが最後。
渡瀬さんはゆっくりとオムライスの上に真一文字に走らせるた。
そして、
「お、やった!」
今日一番うれしそうな渡瀬さんの歓声。
開かれたオムレツからとろりとあふれ出した半熟がチキンライスの表面を覆っていく。見事な切腹だ。
渡瀬さんはその上に仕上げとばかりにケチャップで器用なハート型を描いた。かわいい。
「やっぱいいこれ! 滅茶苦茶おしゃれ」
リビングに持っていき、出来上がったオムライスをぱしゃぱしゃスマホで撮りまくる。インスタにでもアップするんだろうか。
「ね。ね、半分こにして食べようよ」
「え、いいの?」
無邪気な童顔がテーブルを挟んだ向かいで微笑んでいる。
「だって、一之瀬君が教えてくれたんだよ? 私一人じゃ無理だったし……はいっ」
そして、スプーンで一口掬いあげ、俺の目の前に近づける。
「あーん」
「ええ」
恥ずかしい。だが、渡瀬さんが急かすようにスプーンを揺らした。
「あーん!!!」
駄々っ子みたいなノリだな。俺は恥ずかしいけれどそれをぺろりと平らげる。
「ふふ」
渡瀬さんが満足気にほほ笑んだ。
「おいしい?」
あつあつの卵に口内はいっぱいいっぱいだった。しばらくした後に水を一口飲んで答える。
「店で食べたやつより全然旨いかも」
「うそだあ」
はしゃぎながら渡瀬さんも自分の分を掬って一口。
思わずその行先に視線が寄せられた。案の定渡瀬さんと目が合う。
「ん? なに? 間接とか気にするタイプ?」
「べ、べつに!」
俺は首を振るけど渡瀬さんは見え透いたように笑うだけ。ああ、これは何をどう弁解しても無理なやつ。
「調理実習大丈夫そう?」
平静を装いながら問いかけると渡瀬さんはまだオムライスを食べながら首だけ頷く。
「つーかさ、本当に手伝わなくていいの? 四人分だと卵結構必要になるよ」
「大丈夫、学校の近くにスーパーあるし、往復すればなんとかなるし」
渡瀬さんはオムライスをもぐもぐさせながら首肯する。
料理中、何度も聞いたのだが渡瀬さんは一人で全部具材まで用意すると言ってきかなかった。
「だって、一之瀬君は美央たちの班だし。それに……」
「それに?」
渡瀬さんはスプーンを一旦皿に置いて目を伏せた。
「今ここで料理教えてもらったから、そういうの全部チャラ」
そしてこちらを再び見上げた笑顔は何故か寂しげだった。
「調理実習でもうこれ以上頼れないし」
消え入りそうな声。彼女なりの矜持があるんだろう。
でも――
「じゃあ! 今度また何か助けてほしい事があったら言ってくれ」
「え、一之瀬君?」
気づけば立ち上がり、強い語気で渡瀬さんに声を掛けていた。
驚いた彼女の目がぱちくりしている。
「俺、渡瀬さんに頼まれたらなんだってするから」
口の中に残ったトマトの甘酸っぱさに気づいた。それでも俺は続ける。
「だからもっと頼ってほしい!」
自分でも何を言っているんだろうと思いながら渡瀬さんに向かって大声で言っていた。
だが、それを見ていた彼女の表情が朗らかに緩む。
「うん」
その言葉に俺も安心してしまう。
「じゃあ、はい。もっかいあーん」
「え……また?」
「あーん!」
渡瀬さんはそれからも俺にオムライスを餌付けしながら食す。
このやり取り、どうしても慣れない。この感情を悟られるのが恥ずかしかった。
でも、渡瀬さんはそんなの気にしないでマイペースに会話を続けるのだ。
「私。一之瀬君みたいなお人好しになれないなあって思うよ」
「お人好し? 俺が?」
「一之瀬君は誰とでも仲良くできるじゃない? そういうのってもう才能だよね」
部屋を満たす温かさ。それはきっと暖房のせいだけでなく彼女の視線のせいだと思った。
残り少ないコップの水を俺は慎重に飲み干す。
「俺だって苦手なやつはいるよ」
「でも、露骨に嫌ったりしないじゃん。嫌々でも相手の事はちゃんと認めてる感じがする。ほら西崎さんとかに対しても」
「そうかなあ?」
「物は言い様ってやつだな。言い返せないだけだよ」
だが、渡瀬さんは首を振って俺の謙遜を否定する。
「でもでも! 私が同じ事やろうとすると全部計算してるとか思われちゃうし。一之瀬君はそういうわざとらしさとか無いし。だから、本当に根っからのお人好しで馬鹿なんだなあって思っちゃうんだ」
「ばかって……」
安心させるように言ったんだろうけど、最後の言葉。ひどいや。
だけど、きっと今の言葉は彼女の本心なんだろうと確信できる。それが嬉しかった。
「渡瀬さんにそう思ってもらえるならそれで良いか」
「ねえ、どうしたらそんな風に生きられる? 私も一之瀬君みたいに優しい人になりたいなあって」
それは懇願だろうか。潤んだ渡瀬さんの瞳を俺はじっと見返す。
「褒めてるの?」
「うん。めっちゃ褒めてる!」
最後のオムライスを食べ終え、渡瀬さんが大きく頷いた。煽りでもなんでもないらしい。
俺は今一度考えた。
「むしろ舐められやすいから俺の性格って損だと思うんだけど」
「そんな事ないよ。風晴君とかもそういう良い人そうなのが分かるから一之瀬君に興味持ったんじゃない?」
「そうなんかなあ」
諫矢には半分舐められてる気がするんだけどな。
だが、渡瀬さんは重ねて続ける。
「風晴君。誰にでも優しいけど一之瀬君の事は特に信頼してる感じする。他の人たちとふざけ合ってる時よりも一之瀬君と馬鹿やってる時は割と素だし?」
「深く考えた事なかったな」
第三者からはそう見えるのか。
「最初は諫矢の方から話しかけてきたんだ。馴れ馴れしいけど気さくだなあって思ってたら自然にこっちからも話しかけたりできるようになってたんだ――最初はチャラいし背も滅茶苦茶高いし怖かったけど」
「分かる」
それを聞いた渡瀬さんが面白そうに笑う。
暖かな室内、俺達は一緒になって肩を小刻みに揺らした。
「渡瀬さんも深く考えず、話しやすそうな人と徐々に仲良くしてればいいんじゃない? そうしてる内に他の人とも仲良くなれるようになると思うよ」
ふと、いつの間にかそんな風になっていた工藤や山吹が脳裏に浮かんだ。
「でもさ。もしその後に後悔したら? ほんとは嫌な人で、そういうところ見えちゃったら?」
裏サイトでの経験故か。渡瀬さんの不安げな顔が俺をじっとみている。
「最初は私、自演なんてしてなかったんだ。本当に悪口書かれてた」
そして彼女自身の口で語られる掲示板の出来事。
「調子乗ってるとか、男子に媚びてるとか、そういうの最初の頃にみつけちゃって。あー、そんな風に思われてるんだあって思って辛くなった」
「それで何で自演なんかになったの?」
一番聞きたかったが聞けなかった事。それをこのタイミングで切り出すと渡瀬さんの表情が曇る。
「わかんない。私の方もおかしくなってたのかも。違うって思いきり否定しても私が書いてるってバレない? だから、妬んだ女子の振りして他の見てる人からの同情ひこうとしたの」
「そうなのか。でも、それって逆効果な気もするけど」
渡瀬さんがぐっと口ごもる。
「うん。たくさんやってから分かった。ほんと、後悔……」
誰が書いているか分からない状況は渡瀬さんを疑心暗鬼にさせ、あのような行動に走らせたのだろうか。
「渡瀬さんはまだあの掲示板を気にしているんだね」
「気にならなくなる方法あったらいいのに」
空っぽになった皿を見て、渡瀬さんが寂しそうに言った。
「別に気にしなくてもいいんじゃないか」
「えっ」
俺の口から出た言葉に、渡瀬さんは呆然とした顔で見上げた。
「俺は渡瀬さんがいくら悪口書かれても信じられる。だからあんな書き込みなんて気にしないよ」
「え……え?」
きょとんとした渡瀬さんと目が合う。
「だって、今話している君はこんなにも素直だし、裏表がない。作りものの偽物の表情だなんて俺には思えない」
「あはは。一之瀬君相手には私、結構表情作ってるよ?」
「えっ……」
冗談と本気が半分ずつといった顔で呟く。
テーブルに立てた肘の上に顔を乗せ、彼女は何を思っているのだろうか。
「渡瀬さんはもうそんなサイト見ちゃだめだよ」
書き込んだという過去はもう覆せない。
だけど、もう一度渡瀬さんがやり直そうとするなら――俺はそれを応援しよう。そう思った。
「でも、もう恨まれちゃったかも。また何か書かれたら……」
拭えない不安はまだ漫然と存在し続ける。渡瀬さんは不安そうな声で首を振った。
テーブルの下、彼女の手がそっと俺の手に触れる。
「えっ」
渡瀬さんの目がこちらを向く。
俺はその手をぎゅっと握り返した。思っていた以上に渡瀬さんの手は温かい。
「その時は俺が守ってやる」
一瞬の沈黙が流れた。
「いい、かな?」
じっと俯く渡瀬さん。ピンキーブラウンの髪が静かに艶めいている。
「はい?」
次いで出た言葉。俺は思わず問い返す。
「じゃあ、ずぅーっと一之瀬君の近くにいてもいいかな?」
渡瀬さんはお願いするような顔で俺を見ていった。
「うざいくらいずっと付きまとうけど頼るからね? それならあーだこーだ他の人に言われても私平気でいられると思うし」
甘えるような口調だが、絶対に俺の否定を許さない。そんな我儘っぷりも秘めた言葉だった。
「いいよ」
俺が頷くと彼女はもう一度涙を拭い、あざとい笑顔を作った。
「一之瀬君っ」
テーブルの下で握られた手を何度もぶんぶんと振られた。
彼女の手が一層強く俺を握り返してきた。
――オムライスを一緒に作った翌日。
渡瀬さんは普通に登校してきた。
山吹など他のクラスメートは腫物に触るように彼女を扱い、会話らしい会話もないまま俺達は調理実習当日を迎える。




