16話 温かな家
数日前に山吹と一緒に乗り込んだエレベーター。
今、隣に立っているのは山吹よりもずっと小柄な渡瀬さんだ。
「きっとみんな、私の事嫌ってるんだ」
動き出したエレベーターの微かな鳴動の中、小さな声がはっきりと聞こえた。
「渡瀬さんが思い込んでいるだけじゃないの? ネットの書き込みなんて――」
そこまで言ったところで俺は口ごもってしまった。
もし自分の悪口が書かれているのを見つけてしまったら――そんな事を考えたのだ。
彼女を諭そうとしたものの、自分が同じ目に遭って渡瀬さんのようにならない自信はない。
フロアを表示するオレンジのランプを見上げながら、しばらく黙りこくる。
「渡瀬さんは自分以外の悪口を書き込んだりしているのか?」
「それは……」
「野宮も書かれた事があるって言ってたんだ」
「え? 野宮さんが?」
渡瀬さんが目を見張る。
「書いたのか?」
「違う、野宮さんの悪口なんて私書いてない」
今度ははっきりとした口調で答えた。
じっと渡瀬さんの瞳を見ていたらエレベーターが止まる。
「信じてくれない……?」
扉が開くが渡瀬さんは立ち止まったまま。縋るような目を向けてくる。
「信じるよ」
閉まりかけたドアを開け、俺は先に出た。
振り返った先、渡瀬さんはまだエレベーターに乗ったままだが、ふと何か目を拭っているようにしているのが見えたのは気のせいだろうか。
「渡瀬さん?」
「ごめん。もう大丈夫」
驚く程素直な声。通路を歩き出すと今度は渡瀬さんが先導する。
「ねえ。私の事、皆何か言ってた?」
「西崎くらいかな。他に掲示板の話をしてるやつは誰もいなかったよ」
少なくとも俺の知ってる範囲では。俺の知ってるとても狭い人間関係の中だけでの話。
もしかしたら他の連中は何か言い合っているかもしれない。
だが、それでも俺は黙っておいた。
驚く程に気休め。
「そっか、うん」
だが、そんな気休めみたいな言葉が渡瀬さんの心を少しだけ軽くしたのか。不思議とその足取りは前より軽くなっている。
しばらく進んだ先に渡瀬さんの家と思われる部屋はあった。
「一之瀬君」
ドアの前で立ち止まった渡瀬さんは鍵をそっと差し込みながら、俺の方を振り返る。
「私、明日学校行くよ」
そう言って扉を開いた。
♦ ♦ ♦
渡瀬さんの家。これまでは玄関先までだったので分からなかったが、室内は驚く程広かった。
俺が以前この街に暮らしていたのは小学校低学年の頃だ。しかし、その頃はまだこのマンションは建っていなかったと思う。
内装は新築のいい匂いがする。リビング以外の部屋の数も多そうだ。羨ましいなあと思ってしまう。
「散らかってるけど」
そう言って部屋の灯りを点ける。
窓に広がっていた夜景は消え去り、体中濡れた俺と渡瀬さんの二人が鮮明に映り込む。
「ここに干したらすぐ乾くよー」
渡瀬さんはエアコンの下に洗濯スタンドを引っ張っていくと、俺の学ランを掛ける。
程なくして冷えていた室内があっという間に暖かくなっていく。
「悪いな。でもこれ結構時間かかると思うんだけど」
「うん、大丈夫。お母さん帰ってくるの遅いから」
「そうなんだ……」
何か引っかかるような言い方だと思った。それが表情に出ていたのだろうか。
「あっ。うち、お母さんしかいない家なんだよね」
そう言って部屋を出ていく。
「複雑な家なんだな……」
まずい事を言ってしまった。そう思いながら、俺は部屋を見渡した。
渡瀬さんの部屋はいかにも女子って感じの、ピンクや黄色の可愛らしい色彩に溢れていた。
俺には妹がいるけれど四つも歳が離れている。
ぬいぐるみがいくつかあるのは同じだけど、机や家具にこだわりが見えた。
上手くセッティングされている、というんだろうか。親に買い与えてもらったものを片っ端から置いている妹の部屋より大人っぽく見える。
同年代の女子の部屋はこんな感じなのかと、新鮮な感覚になる。
「ココアだけど良かったら飲んで」
「ありがとう」
案内されるまま、俺はローテーブルの前に座った。
向かいあった先に渡瀬さんが座る。
湯気に乗って彼女の甘い香りが仄かに届く気がした。どこか落ち着かない手つきで俺はカップを口に運ぶ。
「一之瀬君ココア好きなんだ」
「ま、まあね」
じっと観察するような彼女の丸い瞳。向けられ続けられる視線に耐えられない。
何か……何か話題を作らなきゃ。
「そういえば、家庭科の授業で調理実習することになったんだ」
ついて出たのはこの前の授業の話。渡瀬さんが欠席している中、調理実習の班決めが行われた事を言おうとしたのだ。
しかし、それに重ねるように渡瀬さんが口を開いた。
「もしかして、休んでる間に班も決まっちゃった?」
不安そうな顔がこちらを窺っている。
「渡瀬さんのとこは黒葛原さん……だっけ? 一応女子も一人いる班だよ。ほんとは俺と山吹で入れようとしたんだけどさ」
だが、野宮が途中で入ってきて五人フルメンバー揃ってしまった。
その話を伝える。
「そっかあ……私休んじゃったし、それは仕方ないね」
「ごめん。今思えば俺が抜けて渡瀬の班に合流すれば良かったんだけど」
今になって思うけどもう遅い。一度決めた班を変更するのは難しいだろう。
俺を見て渡瀬さんは首をゆっくりと振った。
「大丈夫だよ。今から一之瀬君だけ移るとかなったら逆に目立っちゃうし」
「あはは。まあ、確かに」
渡瀬さんもティーカップをゆっくりと口に運ぶ。
「渡瀬さんって黒葛原と仲いいの? 気まずくない?」
「大丈夫、上手くやれるよ」
取り繕っている様子はない。渡瀬さんは普段からいろんな女子と接している。その話しぶりからすると黒葛原六花がそれなりに仲のいい相手なのは本当らしい。
「少なくとも西崎さんと組むよりマシ。無口だけど六花って意外といい子なんだよ?」
「そうなんか。俺女子の事ほとんど知らないんだ」
それを聞いた渡瀬さんがくすりと笑う。
「一之瀬君女子苦手っぽそうにしてるもんね。もっと話しかけてくれればいいのに」
「渡瀬さんとはようやくこんな風に話せるようになった」
いうと、何故か渡瀬さんがテーブルに置いたばかりのティーカップをまた持ち上げる。
「そ、そうなんだ。私、話しやすいんだ。まあ自信はあるけど」
「うん。まあ、そんな感じ」
何故か会話がぎこちなくなる。その雰囲気を何とかしようと俺もココアを飲もうとする。
だけど、中は既に空になっていた。あれ?
「でも、どうして一之瀬君は私にそこまで優しくしてくれるの?」
不思議そうな顔で渡瀬さんは尋ねた。
「私、教室でいつも上手く立ち回ろうとしてて、そういうところがずるいって嫌われるんだ。一之瀬君も見てるから何となく分かるよね?」
同じ女子に嫌われている。渡瀬さんは自覚しているらしい。男子からの勝手な憶測だけど、それは多分、渡瀬さんのあざとい振る舞いが原因だ。渡瀬さんはかわいいけれど、そういうのが気に入らない女子もいるのだ。
「渡瀬さんが言いたい事は分かるよ」
そんなクラス模様を見ている傍観者視点だった俺だからこそ頷ける。
結果的に掲示板に陰口を書かれる理由はその辺りだろう。
だが、しかし。
「でもさ。俺からしたらそんな事どうでもいいよ」
「ええっ」
「俺に優しくしてくれたから。だから力になりたかった」
意を決して言うと、渡瀬さんがじっとこちらを見て耳を傾けている。
俺はなお一層強く言う。
「俺に優しくしてくれる奴なんて男子でも女子でも今まであんまりいなかったんだ。きっと魅力がないんだろうな。だから、そんな俺に優しくしてくれる渡瀬さんが悪い奴だとは思えないんだ」
彼女からの返事は無い。
我ながら気持ち悪い事を口走ったものだと後悔した。
「あまり男子がこういう事いうのもキモいよな……」
一度優しくしてくれたのに気を良くして渡瀬さんを信じてしまった。彼女を肯定し続けるこれは独りよがりの善意だ。
そう思っていたのだが……
「全然いいっ!」
「えっ」
ばんとテーブルに手を打ち付ける音。
渡瀬さんは満面の笑みで身を乗り出していた。
目の前いっぱいに広がる渡瀬さんの同い年にしては少し幼く見える顔。ツインテールが揺れ、猫みたいに愛くるしい瞳が弾むようにぱちくりしている。
「私は全然いい。寧ろ一之瀬君なら――」
「え? 今何て?」
そして、言いかけていた言葉を何故か引っ込めてしまう。
急にしおらしくなる彼女を見て、俺は問い返そうとする。
「……だと思ってたのに。こんなに優しい人だなんて思わなかった」
小さすぎる声のせいで最初を聞き逃してしまった。
でも、褒められているらしい。
尚も怪訝そうにしているのがバレたのか、渡瀬さんはもじもじさせながら続けた。
「あの、一応ごめんって言っとくね?」
――は?
お礼の直後にいきなり謝られたぞ。訳が分からない。
「どうしたんだよ、突然」
「不良って書き込んでごめん」
「へ?」
何を言ってる。
「だから、一之瀬君の事不良って! 私が書いてたの、一之瀬君の悪口」
「あっ」
そこで、ようやく。カラオケで野宮から聞いた言葉を思い出した。
『いつも教室で一人でいるけどあいつ不良なのか、って。ウケるっしょ?』
「全然ウケないよ」
「ごめん、怒っていい!」
ぎゅっと目をつぶる。怒られるのを極端に恐れているようだった。
だが、そんな渡瀬さんに俺はそっと語り掛ける。
「別にいい」
「え」
いつの間にか俺は渡瀬さんの頭におそるおそる手を伸ばした。
「えっ、一之瀬君?」
言いながらも、彼女はそっと頭を傾けて俺の手を許容しようとする。
俺は渡瀬さんの頭を優しく撫でていた。
言葉だけ伝えても取り繕っていると感じるだろうか。そんな風に思ったのだ。
口で上手く言ったところで心の中で渡瀬さんを許していないと思われるのは嫌だったから。
だから、恥ずかしいけどこんな行動に出ていた。嫌がられるかもという、いつもの俺なら感じていた不安は無かった。
気づけば渡瀬さんに手を差し伸べて、彼女の髪を撫でていた。
「一之瀬くん」
「ごめん」
そっと手を離そうとする。しかし、今度は渡瀬さんが俺の手を掴む。
「ううん」
彼女は身を縮こませながら、俺の手を掴んだままそれだけ言った。
そして、不意にその顔を上げる。
「なら一之瀬君も」
「は……」
何故か大きく体を伸ばし、俺の頭を撫でてくる。
これは、さっきのお返しだろうか。
「何で俺が撫でられてる」
「いいからいいから」
柔らかな手のひらが俺の髪を撫でる。
その感覚がくすぐったくて、恥ずかしくて。でも、心地よかった。
「一之瀬君、ありがとう」
暫くの間、俺達はこんなしょうもない事をしてお互いの誤解を解こうと必死になっていた。




