15話 冬の海風
数日後の帰り道。
俺は一人、渡瀬さんのマンション近くまで来ていた。
彼女はもう何日も学校に来ていない。これ以上休んだら学校に来るのがもっと気まずくなるだけでなく、学校生活そのものにも響いてくる。
何とかしなくちゃ。会って彼女の力になれないかという一心でここまで来た。
でも、
「これじゃストーカーだな」
俺は自転車を停めて、しばらくマンションを見上げていた。
明かりが点いている部屋はいくつかあるが、山吹と一緒に訪れたのはどの部屋だったか全く思い出せない。
勢いだけで来たものの、渡瀬さんに会うどころか彼女の部屋すら分からず、ただ時間を無駄にしてしまっている状況だ。
「あっ」
ふと、見上げた先の薄墨色の空から何かがひらひらと舞ってくるのに気付いた。
雪だ。
そっと降りてくる白い花びらみたいなそれは、学ランの黒い袖に触れた途端あっという間に溶けてしまった。
今は溶けて終わりの雪。
だけど、夜通し降り続けたら朝には少し積もるかもしれない。
「そろそろ自転車使えるのも終わりかな」
このままここにいてもどうにもならない。俺は自転車に跨る。
ここから俺の自宅までは案外近い。歩きなら二十分くらい、自転車なら半分の時間もかからない距離だ。
暗くなりかけた道路沿いを歩く者はいない。一応『市』が付くけど流石は田舎といった風景だった。
脚先で蹴てtライトをつけると途端に北風が吹き付け始めた。
すぐ傍が海辺のせいもあるけど、氷のように冷たかった。
「寒っ……」
風圧を避けようと前かがみになる。そして冷たい風から顔を背けるように真横を見た時の事だ。
「あれ」
すぐ横の海浜公園。そこに小さな人影が見えたのだ。
しかもとっくに日が落ちて辺りは真っ暗。
「なんでこんなところに……?」
海沿いに張り巡らされたウッドデッキの上。一人手すりにもたれる後ろ姿は渡瀬さんによく似ていた。
「間違いない、あれは渡瀬さんだ」
そう確信する。小柄な背丈と脱色されたピンキーブラウンのツインテールはもう間違えようがない。
自転車を止めて様子を窺うがが、分厚いパーカーに身を包んだ彼女は海を眺めたまま、こちらに気づく様子もない。
「寒くないのかな」
手すりのすぐ向こうは海だ。
冷たそうな銀の手すりを掴んだ渡瀬さんの手は何度も離れ、そのたびに彼女は何か決心したように身をこわばらせている。
その動きはまるで、手すりを超えようとしているようにも見えて。
「やめろ、早まるなッ!!」
気づけば俺は自転車を捨て走り出していた。
くそ、あの掲示板のせいかよ。ここまでやる必要なんてないのに!
「え!? 一之瀬君!?」
驚いた渡瀬さんが振り向く。やはり人違いなんかじゃなかった!
「まだ間に合う! 死んじゃだめだ渡瀬さん!」
「え……何言ってるの?」
駆けつけると、渡瀬さんは思ってもいないほどに冷めた表情で俺を見ていた。
俺の足の動きもそれにつれてゆっくりしたものになっていき、やがて歩が止まる。
「一之瀬君なんでこんなとこに?」
まだ収まらない心臓の鼓動。俺は息を落ち着かせ顔を上げた。
「だって、思いつめたような顔してたから」
「別に。そういうわけじゃないよ」
渡瀬さんは言ったきり口ごもってしまった。
心なしか、学校で見るよりも俺に対する目つきが険しい。
その間も渡瀬さんは怪訝な目を向けたまま。そうやって二人、黙ったままでいると波の音が聞こえてくる事に今更気づいた。
ウッドデッキの床板の隙間からはそのすぐ下に敷き詰められたテトラポッドが見えた。打ち寄せる波濤の音が寒々しい。
「ていうか、何?」
その間隙を縫うように彼女の方から口を開く。
「心配だから様子を見に来た」
「心配だからって何。私の事誰かに聞いたんだ?」
「ああ」
警戒するように細められていた目が驚きで丸くなる。
そして、こちらにぐっと詰め寄ってくる。
「美央? 美央が言ったんでしょ」
「いや、西崎に言われた」
「え……マジ? 西崎さんが」
「直接呼び出し喰らって掲示板の事から渡瀬さんの事まで、全部聞いた」
そして、西崎から聞いたこと全て話した。
あの掲示板に書かれた渡瀬さんへの悪口は彼女自身による自演だったということ、西崎がそれを突き止めた理由まで。一通り話した所で、俺は改めて問う。
「西崎はああ言ってたけど、本当なの?」
渡瀬さんはもう諦めたのだろうか。なんの弁解もせずにはっきりと頷いた。
「うん。全部ほんと。私がやったの」
びゅう、と。北風が俺達を打ち付ける。
「でも、西崎さんが一之瀬君にそこまでストレートに言うなんて、おかしいんじゃないの」
不満そうに呟く。吹き付ける風にかき消されてしまいそうなほどに力の無い声だった。
「多分、俺が渡瀬さんとよく関わってるのをあいつは知ってたんだろうな。んで、見かねて呼んだんだ」
「私と一之瀬君を切り崩すために? もしかして、西崎さんって一之瀬君の事好きなの?」
「いや、それはない」
俺は自信をもって即答する。
この子は何を言っているのか。
単に西崎は諫矢と仲のいい俺が気に入らないだけだ。それで過去にもいろいろちょっかいを掛けて来ている。
渡瀬さんの事で呼び出したのも俺が諫矢と仲が良いからその当てつけだろう。
「きっと、あいつは俺の事も気に入らないんだろうな」
たまらず言い返した。
「そんな本気にしなくても。今の冗談だし、西崎さんが一之瀬君の事好きなわけないよ」
俺に対するフォローでも、俺を肯定するわけでもない。本当に女子から見た事実を客観的に述べただけって言い方だ。
「そ、そうか……」
俺は安心したけれど、なんか男子としてとても情けないことになっているなと思った。
そんな俺を見ながら渡瀬さんは自嘲するように息を漏らした。
「一之瀬君。私に引いた?」
「いや、別に」
「嘘。本当の事言ってよ。私の本性みてドン引きしたでしょ?」
尚も詰め寄ってくる彼女に俺は言い返す。
「それでも俺は渡瀬さんを助けたい」
聞いた瞬間、彼女の口元が引き締められる。
そして、次いで出てきたのはこの北風を霧散させるような大声だった。
「何で!? 気を遣わなくていいのに!」
激情のまま渡瀬さんは叫び続けた。しかし、それは俺に対しての怒りではないらしい。
「何で、何でよ。私、ほんと最低な事したのに……!」
やるせない自分に対する怒りだろうか。渡瀬さんは悲しそうな声で嘆く。
へなへなと小柄な身体が沈んでいく。
「……」
積もりかけていたみぞれをぐっしょり散らしながらウッドデッキに座り込む少女を俺は見下ろしていた。
「いいんじゃね」
見下ろせば、涙で目を赤く腫らしながらこちらを見上げる渡瀬奏音の姿。
学校で見る華やかさとは似ても似つかわない。それは敢えて酷く言い表すなら「みじめ」という言葉が似合う。
これが学校で密かに男子から人気を集めていた女子と同一人物だと思えない。
「ああいうサイトに書き込むのは賢い事とは思えない。けど、いろいろ渡瀬さんはストレス抱えてそうなのは傍目から見てて何となくわかるから」
だから、と俺は手を伸ばした。
「違う方法でこれからは発散すればいいんじゃね」
「……」
「風邪ひくから、早く立ちなよ」
「ぐすん」
渡瀬さんは手で鼻をかむと、俺の学ランの裾を掴みおもいきり拭った。
「は、え!?」
「あっ、ごめん……」
演技なのか、今更気づいたように驚く。
「つい……ね?」
そして、手を袖に引っ込めると、こちらをまじまじと見つめるのだ。
「ついやっちゃって良い事じゃないよ。今のは流石に酷い」
「ほんとごめん! クリーニングする?」
目を覚ましたように渡瀬さんが立ち上がる。
本当に勢いで鼻をかんでしまったとでもいうのだろうか。その表情には明らかな動揺が見られた。もう天然なのか狙ってやってるのか俺には分からない。
「いいよ別に。どうせ雪で濡れてるんだ。乾かして消毒でもする」
渡瀬さんが尻についた雪を払いながらそれを黙って聞いていた。
「あっ」
不意に、渡瀬さんの体勢が崩れる。みぞれで濡れているせいか靴底がずるりと滑ったのだ。
「おっと」
「ごめ!」
思わず渡瀬さんが俺に抱きついている事に気づいた。
「いや、いいけど。というか渡瀬さんは大丈夫?」
「一之瀬君っ」
不意に渡瀬さんがぎゅっと俺に抱き着いてくる。
吹きすさぶ北風。その中で消え入りそうな小さな声がした。
「ありがと、ありがとね一之瀬君」
「渡瀬さん……」
服の生地越しに伝わってくる彼女の暖かさ。
邪険にすることもできず、俺は渡瀬さんに抱き着かれたまま、しばらく立ち尽くしていた。
肩には濡れた雪。
これは本格的に乾かさないと。明日学校に着ていけなくなる。そんな事を思い始めた矢先。
「ありがとう。もう大丈夫」
そっと離れた渡瀬さん。
そこで初めて身体を濡らしている雪に気づいたのか。はっとしたような顔になる。
「あっ。いけない。服乾かさないと」
「大丈夫だよ。俺の家、ストーブもう出してるし」
だが、渡瀬さんはふるふると首を横に振った。
「私の家、来てほしい」
「はあっ!?」
思わず大声が飛び出した。
それを見て渡瀬さんは口元をパーカーの袖で隠して笑っている。
「乾かすだけじゃなくていろいろ聞いてほしい話もあるから」
「愚痴かな?」
「言い方ヒドイ」
さっきまで弱気全開でいたと思ったら、わがままになる。
こうも感情の起伏が激しい性格だとは思わなかった。
「ねえ、一之瀬君。私の性格ってめんどくさいでしょ?」
「俺は別にいいと思うけど。つーか、今みたいな方がとっつきやすく自然でいいと思うよ」
それに俺はパズルとか、めんどくさい事が嫌いではなかった。
「実はさっき、渡瀬さんの家行こうとしてた」
「え」
「この前は山吹とプリント届けに来たからまた行けると思って。でも部屋を忘れちゃって。外から見てたけどどうしても部屋が分からなくて帰るところだった」
まさかここで彼女に会うとは思ってもいなかったけど。
「す、ストーカーだぁ」
渡瀬さんはしかし、俺を見て若干引いたような顔をしていた。
「そういうつもりじゃ……ほら今度家庭科で調理実習することになってさ。そういう話も伝えるつもりで」
「冗談だよ」
「こ、この女……」
渡瀬さんはすっかりいつもの調子に戻りながら先立って歩き出す。
「じゃ、行こっか」
寒くなった手をパーカーの袖口に引っ込め歩いていく。
俺も倒れていた自転車を起こしそのあとを追う。
「一之瀬君」
不意に、先を歩いていた渡瀬さんが俺の方を振り返った。
「私、嬉しかったよ。ありがと」
何故か照れたような口調で。渡瀬さんはそれだけ言ってまた歩きだした。




