5.黒髪の女
黒髪の女性が涙を流している。
こんな場所にいる理由を聞くと、魔物が発生した原因と思われ、迫害されそうなので村から逃げてきたとのこと。たった一人で森の中を抜け、そして、魔物と出会ってしまったのだ。それはとても辛かったのに違いない。泣き出すのも無理もない。
彼女が村から逃げ出さなければならかった原因は俺にある。俺がこの地に来たから魔物が生まれたのだ。
町から離れた場所だと安心していたが、森の向こうに小さな村があるとは知らなかった。
「とりあえず、今夜は俺の幌馬車に泊まらないか? 食うものもあるし。ここから町までかなりの距離がある。夜に一人で歩いて向かっても、無事にたどり着くことができると思えない」
俺が近くにいると、夜中に魔王へと変身して彼女を襲う心配があるが、それでもこのまま放り出すことができなかった。魔物だけではなく、盗賊や獣に襲われる可能性もある。それくらいなら、俺が一晩眠らずに番をする方が安全かもしれない。
女性はしばらく思案していた。
「ご迷惑をおかけしますが、一晩だけお世話になってもよろしいですか? 私はハルカといいます」
ハルカと名乗った女性はようやく頷いた。
「俺の名はルード。古い幌馬車なので、あまり期待しないでくれよね。外で寝るよりましな程度だぞ」
「はい。十分です。一人でどうやって町まで行こうと悩んでいたので、本当に助かります」
ずっと不安そうにしていたハルカが笑顔を見せる。心から感謝してくれているみたいだ。俺はハルカをこのような境遇にしてしまったことに罪悪感を覚えながら、それでも彼女を安心させたくて微笑みを返した。
ハルカを馬の前に乗せて幌馬車を停めている場所まで急ぐ。
幌馬車の所に着いた時、辺りはすっかり暗くなっていた。
「何か食うものを作るか」
俺は荷台に載せていた薪でいくつか積み上げて魔法で火をつけた。
「凄い! これが魔法なのね。ルードさんは貴族なの?」
ハルカは魔法を使えるのは貴族だけだということを知っているみたいだった。
「いや、俺は平民だ。ちょっと訳ありでな」
「そうなんだ。でも、魔法って本当に便利よね。私も使えたらいいのに。ファイヤー」
謎の呪文を口にしながら、ハルカは右手の人差し指を突き出した。当然魔法が放たれることはない。何も変化がない指先を見つめて恥ずかしそうに俯くハルカ。その仕草が可愛いなと思いながら、俺が魔法を使えることにそれ以上言及されなかったので安堵していた。
干し肉と根菜類でスープを作り、森で採取した果物を魔法で冷やす。
「これ、義母が持たせてくれたパンです。良かったら食べてください」
ハルカは素朴なパンを差し出した。最近は狩猟と採取で生活していたので、調理したものを食えるのは嬉しい。ハルカにとって貴重な食糧だと思うが、あまり遠慮していると気を使わせそうなので、有難く貰うことにした。
「温かい。このスープ、美味しいですね」
ふうふうとスープを冷ましながらスプーンを口に運ぶハルカ。こうして誰かと一緒に食事をしたのはいつ以来だろうか? 自然と口元が緩む。
「この果物は甘くて冷たくて、信じられないくらい美味しいです」
果物を手に持ったハルカが美味しそうに齧り付いている。確かにいつもより旨いような気がする。
「このパンも旨い」
素朴な見た目だけれど、町で売っているパンより柔らかくて味が良い。
「そうなんです。義母のパンは最高ですよね」
ハルカがふわっと笑った。俺もつい笑みがこぼれる。生を繋ぐ作業に過ぎなかった食事が、こんなにも楽しいと感じる。それは裏切られるとは露にも思っていなかった魔王討伐前以来だった。
「ここから一番近い町は、西の方角にあるブロムステットだな。伝手はあるのか?」
食事を終えた俺はハルカに今後のことを確認することにした。
「いいえ、私は村から出たことがないから」
「金は持っているか?」
こう聞いてもハルカは首を横に振る。
「村ではほとんど物々交換だったので、お金は必要なかったの。義父母は薬師で、薬は何にでも交換してもらえたから」
かなり絶望的な状況だった。知り合いもいない町で無一文の女が無事に生きていけるとは思えない。しかも目立つ黒髪だ。
「さっきから義父母と言っているが、実の親は頼れないのか?」
もしかして実の親がどこかにいるのではないかと聞いてみると、ハルカは辛そうに唇を噛んだ。
「この森に倒れているところを、親切な老夫婦が拾ってくれた。それが義父母なの」
おそらく黒髪だったので実の親に捨てられたのだろう。
俺が困っているように見えたのか、ハルカが明らかに落ち込んでいる。
「とりあえず、今夜はもう寝ろ。これからのことは明日の朝に考えよう」
俺はハルカを幌馬車の所へ連れて行った。そして、座席を倒して簡易なベッドにする。
「このベッドを使ってくれ。毛布はあの棚に置いている。必要なだけ使えばいい。俺は火の番がてら外で寝るから。それじゃ、ゆっくり眠れ」
俺は外で寝るために、毛布を一枚抜き取った。
「ちょっと待ってください。私は後ろの荷台でいいので、ルードさんがベッドを使ってください」
荷台には生活に必要な物資を乱脱に置いてある。それらを片付けても、横になる空間は確保できそうにない。せいぜい足を伸ばして座るくらいだ。
「暗いから一人で怖いんだな。それならこれを置いておいてやる。明るさは朝まで持つはずだ」
俺は魔力で光球を作り、幌馬車の天井付近に浮かべた。眩しすぎない大きさなので眠るのに邪魔にならないだろう。
「優しい明るさだわ。魔法は本当に便利なのね。これで一人でも怖くないわ。って、違うのよ。持ち主を追い出して一人でベッドを使うなんてありえないから」
「そんなこと気にするな。明日は早いぞ。さっさと寝ろ」
申し訳なさそうにしているハルカを残して、俺は焚き火の近くで毛布にくるまった。何とか一晩眠らずにいようと思いながら。