2.殺された聖女(聖女視点)
五年前、私は母に殺されかけた。いや、本当に殺されたのだろう。
私が中学に入学する前に、父は家に帰って来なくなった。
母は離婚を了承しなかったので、父は書類だけの結婚を継続したまま、愛人の所に行ってしまった。
母に残されたのは、ローンが終わっていた小さなマンションと、中学生の私だけだった。
私たちは父から渡される月十万円の生活費と、母の一日数時間の事務パートで得るお金で生活していた。暮らしは貧しく、鬱積とした家庭だった。
母は荒れていた。突然怒鳴ったり、私に暴力を振るったりした。
それなのに、私を守ることができるのは自分だけだと、愛情と信頼を求めてくる。
「お母さんを愛している?」
そう度々訊いてきた。私が返事できないでいると、
「あなたのために私は苦労しているのよ。なぜ、愛していると言えないの。薄情な娘だわ」
と殴られた。
息が詰まりそうな毎日だった。家を出て行った父が羨ましかった。私も逃げたい、そう思っていた。
中学三年生になって、私は住み込みで働きたいことを担任に伝えた。担任からは、学校では斡旋できないのでハローワークへ行くように教えられた。
母に内緒で就職先を探す。
そして、面接のお知らせが家に届いた。
「これは何なの? おまえまで私を捨てると言うの!」
母は、般若のような顔で私を詰った。手には隣県の大きな観光ホテルからの封書を持っている。封は開けられていた。
母は私の言うことなど何も聞かない。
引きずるようにベランダに連れて行かれた。
我が家は五階建てのマンションの四階。落ちたら死ぬ。
「一生私を裏切らないと言いなさい」
母が私の体を持ち上げて脅す。
「嫌よ!」
頭が柵の上に出る。地面は思ったより遠い。怖くて足が震えた。でも、嘘は付きたくなかった。
「どうして、愛してくれないの。私を捨てていくの。そんな子はいらない。消えてしまえばいいのよ」
母は普段ではありえないほどの力を込めた。柵にしがみついたけれど、手を引き離された。
抵抗は虚しく、私は柵の向こうへ放り出される。
浮遊感があって、落下していく。地面が迫ってきた。
そして、目が覚めた時、私は小さな家の前に倒れていた。
日本人ではありえない濃い顔の老夫婦が、小さな家の住人だった。
私を見てとても驚いていたけれど、私を家の中に入れてくれた。
「この村の娘ではないようだけど、どうやってここまで来たんだ? 村の外には魔物がいるというのに、よく無事だったな」
ここは日本ではなかった。地球でもなかった。
それなのに、なぜか言葉が通じた。
村はずれに住む老夫婦は森で薬草を摘み、薬を作って村に売っていた。子どもがいなかった老夫婦は、私を家に住まわせてくれた。そして、娘と呼んでくれた。
捨てた父より、愛を強要する母より、義父と義母は私を愛してくれた。
「魔王が復活したらしい。早く討伐してもらいたいよね」
村人が噂する。
この世界には魔王がいる。そして、魔王だけが漆黒の髪と瞳を持つという。
私の黒い髪と目を見た村の人々は驚いていた。でも、魔王は男性だという。だから、私は魔王ではありえない。黒い髪の娘が産まれることもあるよねと、村の人たちは私を受け入れてくれた。おおらかないい人たちだ。
やがて、魔王が倒されたという情報が辺境の村まで届いた。裏付けるように魔物が姿を消したらしい。
平和になった村で私は生活している。
黒髪だと言うだけで、虐げられることはなかった。
だけど、やはり黒髪に抵抗はあるようで、私と結婚をしたいという男性も現れなかった。
それから五年。二十歳になった私は、このままこの小さな村で薬師の義父母を手伝いながら穏やかに暮らしていくのだろうと思っていた。
「大変だ! 村の近くに魔物が現れたらしい。村の人々がハルカのせいではと噂している。もし、村人が魔物に襲われるような事態になれば、村人はハルカに何をするかわからない。今のうちのここから逃げた方がいい」
村へ薬を売りに行っていた義父が慌てて帰ってきた。
「そ、そんな。戦う術もないハルカにここを出て行けなんて、無茶よ」
義母は抱きしめながら義父を止めてくれる。
「だが、俺らはもう年だ。いつまでもハルカを庇えない。それならばまだ町へ行く方が生き残る希望がある」
義父がそう言うからには、事態はひっ迫しているのだろう。そして、私がここに留まれば優しい義父母に迷惑をかける。
「わかりました。ここを出て行きます。今まで本当にお世話になりました。この五年間、私は幸せでした」
流れそうになる涙をこらえて頭を下げる。これからのことを思うと不安で胸が押しつぶされそうになるけれど、どうせ五年前に消えるはずだった命だ。死ぬことよりも、義父母の負担になることの方が辛い。
「これを持っていけ」
義父は薬草採集に使うナイフを渡してくれた。魔物や猛獣と戦うには心もとないが、最悪の場合、自分の命を奪うくらいはできる。
「これも持っていきなさい」
義母もパンと薬を用意してくれた。これですぐには餓死することはないだろう。
「ありがとうございます」
改めて義父母に深々と頭を下げた。そして、背負い袋に着替えとパン。それに薬を入れて背負う。ナイフは腰に巻いた布に差した。
昼が過ぎた頃でまだ日が高い。街道に出ようとすると村を横切らなくてはならない。村の人たちがすんなりと通してくれるとは思えないので、裏の森を抜けることにした。薬草採取を手伝っていたので、森には慣れている。今まで猛獣に出会ったことはない。ただ、夜の森には入ったことがないので不安があるが、躊躇っていても仕方がない。
私は森へと踏み出した。