サーニャ来襲
「え~それじゃあ、あの毒妹がポミエに殴り込んできたの?」
セィラとラペルの離婚危機騒動から幾日か経ったある日の午後。
いつものように、客の少ない時間帯を狙って惣菜を買うついでにお喋りに来たイリナがそう言った。
アユリカはイリナが注文した“イワシの香草パン粉焼き”と店内イートインのコーヒー(イリナの希望でラム酒を入れてホイップクリームを上に載せている)を渡しながら答えた。
「そうなんですよ。『優しかったお兄ちゃんが変わってしまったのはこの店から帰ってからだわ!一体どんなデタラメをお兄ちゃんに吹き込んだのよ!』っと言ってものすごい剣幕で」
「あちゃ~、厚顔無恥とはこの事ね。それで?どうしたの?」
イリナはアユリカから手渡されたコーヒーを両手に包み込みながらそう訊いた。
「どうもこうも、デタラメではなく常識を皆で説いたのだと答えましたよ。それに決め手は副司教様のお言葉ですからね、文句があるなら国教会にどうぞと丸投げしちゃいました」
「ああ、あのザウルさんが副司教だったとは驚きよね~。私は無宗教だから顔も名前も知らなかったわ」
「国教会の大きな支部のあるこの街の人でも、副司教様のお顔を知らない方はいらっしゃるんですね」
「まぁね。とくに副司教様って、目立ちたくないのか大々的な式典以外あまり出しゃ張らないらしいからね~。興味がない上に露出が少ないと、そりゃ顔も名前もわからないものよ」
「なるほど。副司教様自身もあまり上の者が幅を利かさない方が良い、と普段から言っているとハイゼルから聞きました」
「なるほど。……っと、話が逸れてしまったわね。それで?それからどうしたのよ?」
殴り込みに来たサーニャの顛末を、イリナが促した。
「それが……あんなにすごい剣幕だったのに、丁度店に居たハイゼルを見た途端に人が変わったように媚び始めて……」
「うわっ……目の前のイケメン聖騎士に一目惚れしちゃったんだ……どんだけ面の皮が厚いのよ」
呆れたイリナがジト目の半目になり、吐き捨てるようにそう言った。
あの騒動の翌日に、ラペルはセィラを迎えに来た。
一晩かかってサーニャと話し合ったそうだが、何も理解しようとしないサーニャにこれ以上話しても平行線だと思ったラペルが強引に実家に連れ帰ったのだそうだ。
“もっと早くそうしろよ”という誰か(読者)の声が聞こえた気がしたラペルだが、そのまま両親に事の経緯を話し、協力を仰いだのだった。
両親もサーニャはてっきりセィラの事を実の姉のように慕っているものと思い、新婚家庭へ頻繁に出入りしているのを気にしつつも当人同士がいいのならと放置していたらしい。
なのでラペルの話を聞いて心底驚いたそうだ。
ラペルや周りの人間の意見だけであったなら、もしかして両親は娘可愛さに信じなかったかもしれない。
だが大陸国教会の敬虔な信者であるラペルの両親は、他ならぬ副司教ザウル・カーマインとその精霊も認める事実であると聞き、疑う余地もなく信じたという。
そしてもうサーニャを兄の家には行かせないようにすると約束してくれたらしいのだが、当然サーニャ自身は何一つ理解も納得もしていない。
だからその数日後に、サーニャは両親の目を盗んで兄の家に勇んで行ったのだが、なんとラペルは早々に以前住んでいたアパートを引き払って他所に転居していたのだった。
転居先を知らされていないサーニャは怒り狂い、それもこれもこの店の所為だと怒りの矛先をポミエに向けて理不尽に怒鳴り込んできたというわけなのだ。
「ちょっと!優しかったお兄ちゃんが変わってしまったのはこの店から帰ってからだわ!一体どんなデタラメをお兄ちゃんに吹き込んだのよ!」
眦を釣り上げて怒鳴り散らす様は、“病弱だった可愛い妹”の片鱗もない。
アユリカは呆れ果てる気持ちを隠すことなく前面に押し出してサーニャに言う。
「デタラメなんてひと言も言ってませんよ?至って常識的な見解を皆で説いただけです。そして運良く居合わせた国教会の副司教様のありがたい薫陶を受けて、ラペルさんは真実に目を向けられたわけです。その事について文句を言いたいなら国教会の支部へどうぞ」
「ふじけないでよ!そんなこと出来るわけないでしょっ!」
金切り声で喚き散らすサーニャとアユリカのやり取りを見ていたハイゼル。
彼はその日は非番で、例の如く買い出しの時間帯からポミエに来て、アレコレと店の手伝いをしていたのだ。
そのハイゼルが酷く声色を低くしアユリカに問う。
「……アユ、よくわからんがこの無礼な女を店の外に放り出していいか?」
ハイゼルの声と表情で彼が本気だということがわかる。
アユリカとしても営業妨害なので放り出して欲しいのはやまやまだが、そんなことをしても余計に喚き散らして近所迷惑になるだけだろう。
なのでアユリカはふるふると首を横に振る。
「そうして欲しいところだけど、放り出しても無駄だと思うの……彼女がセィラさんの義妹のサーニャさんよ……」
アユリカがそう告げるとハイゼルは合点がいったと口にする。
「ああ、コルト先輩の毒妹か」
毒妹。本人を目の前に容赦ないなと思うが、当のサーニャはそれに構うことなく大きな目を見開いてハイゼルを見つめていた。
あまりに熱心にハイゼルの全身をジロジロと見るサーニャに、アユリカはなんだか嫌な予感がした。
そして案の定、サーニャはハイゼルに向かってこう言ったのだった。
今までの声とはまるで別人のように鈴を鳴らすような可愛らしい声で。
「あのっ……ご、ごめんなさい。お店に他のお客様が居たなんて気づかなかったのっ……だってヒドイんですぅ……このお店の人が私にイヂワルするんですよぉ?だから私、ホントは怖いけど勇気を出して抗議しにきたの……!」
取り繕うように今までの自分の態度を言い訳するサーニャ。
ハイゼルに自分は本当は可愛い女の子なのアピールをしたいのだろう。
髪を振り乱して店に乱入して来たのに、急いで髪を撫で付け調えた後に体を撓らせて上目遣いでハイゼルを見る。
「私の名前はサーニャ・コルトです!あなたのお名前を聞かせてください!」
もはや兄のことはどうでもいいのか。アユリカの存在すら無視して、サーニャはハイゼルだけを視界に入れてそう言った。
対してハイゼルの声色は依然冷たいままだった。
「なぜ名乗らねばならん。名を教える必要性を感じない」
「えっ……で、でもっ……こうして出会えたのも何かのご縁だと思うんですっ……!私……長いこと病気で辛い日々を過ごしてきたんです……今はすっかり良くなったんですけど、素敵な男性とお知り合いになる機会がなかなかなくて……だからこうやってあなたに会えたのは、もしかして運命なのかもしれないと思ったんですぅ……!」
な、何が運命か。
ついさっきまでブラコン丸出しでアユリカに噛み付いていたというのに。
ハイゼルの見た目がよほど好みなのだろう。
そしてなんとしてもお近付きになりたいのだろう。サーニャは病気を克服した健気アピールも盛り込みながら必死にハイゼルに訴えかけた。
それを見てアユリカの心にモヤモヤが広がっていく。
かつてハイゼルの周りにいたキラキラ女の子たちの姿が記憶に蘇る。
サーニャはイケメンなラペルの妹なだけあって、容姿はとても華奢で女の子らしくて可愛いのだ。
(もしかしてサーニャさんて、ハイゼルの好みなんじゃ……)
そう思うとモヤモヤを通り越して胸が苦しくなる。
可愛い女性に言い寄られて悪い気はしないと、ポム小母さんの魔法薬店の客が言っていたのを思い出した。
(嫌だな……ハイゼルの隣にサーニャさんが並ぶのなんて……)
いや、サーニャでなくても、誰だろうとハイゼルの隣に他の女性が居ること自体が嫌で嫌で堪らない。
またここに至って、アユリカの諦めた恋が追いかけてくるのだった。
複雑な心を抱え、俯きそうになるアユリカの耳に、ハイゼルの冷たい声が届く。
「運命?勝手に決めるな。随分おめでたい頭の奴だな……。生憎だが、俺の運命はもう決まっている」
「「……え?」」
ハイゼルの言葉に、思わずアユリカとサーニャの声が重なった。
サーニャに向けていた冷たい眼差しと硬質な声とは打って変わり、ハイゼルはいつもの穏やかな眼差しをアユリカに向けて言う。
「アユ。店に魔女の林檎の木の林檎はあるか?」
「え?えぇ……林檎サラダ用に捥いだものがあるけど……」
「悪い。ひとつ分けてくれ」
「べつに構わないけど……」
なぜ急に林檎?と不思議に思いながらアユリカは店のキッチンから林檎をひとつ持ってきた。
「サンキュ」
ハイゼルは笑みを浮かべてアユリカから林檎を受け取り、そしてサーニャへと渡した。
その行動にアユリカは驚く。
それはサーニャも同じらしく、一瞬驚いた表情を見せるも、でもそれがハイゼルの好意だと受け取った途端に喜色満面となった。
「私のためにわざわざこの赤くて綺麗な林檎を?やっぱり私たちって運命の恋人になるんだわ!」
嬉々としてそう言ったサーニャだが、ハイゼルはそれを見事に打ち砕く発言をした。
「そんな訳ねぇだろこの性悪女。二度とこの店に来んな。というかアユに近付くな。今度性懲りもなくアユに絡んで来たら女とはいえ容赦はしねぇぞ。わかったらさっさと帰れ」
「えっ!?っえ……
ハイゼルの言葉に瞠目したサーニャだが、次の瞬間には声だけを残して姿を消したのだった。
その一部始終を見ていたアユリカの声が、驚きのあまり大きくなる。
「サ……サーニャさんが消えたっ……!?ど、どこに行ったのっ?」
「落ち着けアユ。なにも問題はない。魔女の林檎を使って、強制転移を掛けただけだよ」
「強制転移っ?」
「そう。魔女の林檎には魔力や魔術を増幅させる効果もある。俺の魔力だけでは自分以外の人間を転移させる事はできないが、林檎の力を借りればそれが可能だ」
「そ、それで魔女の林檎をサーニャさんに手渡したのね……」
「そう。店の外に追い出しても無駄なら、遠くに飛ばせばいいだろ?多分自宅に飛んだはずだが、自宅近所の肥溜めとかに落ちるとかはあるかもしれねぇな」
そう言ってハイゼルは笑った。
サーニャのアプローチなど歯牙にもかけないハイゼルに、アユリカの心は安堵すると共に言い表しようのない気持ちになったのだった。
そんな騒ぎがあった事を簡単にイリナに説明をすると、
「運命はもう決まってるねぇ……」
とそう言って、彼女はニヤニヤと笑った。