ハイゼルの背中
「なんだ今の怒声はっ!?アユっ大丈夫かっ!?」
「ハイゼル……?」
慌てて店内に入っていたハイゼルを見て、アユリカは瞠目した。
どうして彼がここに?
ハイゼルが仕事のある日に惣菜屋を訪れるのは夕食の惣菜を買いに来る夕刻である。
そんな彼がランチタイムの外れた時間帯に現れたので、アユリカは驚いたのだ。
「ハイゼル、こんな時間にどうしたの?今日はお休みだったっけ?」
思わずそう尋ねたアユリカに、ハイゼルが答える。
「副司教様がオススメの店があると仰り、お供をすればポミエだったんだ。それより今の荒声はなんだ?何かトラブルでも起きたのか……って、先輩?今の声はコルト先輩、あなたの声だったんですか?」
店内に入った時から男の存在に気付いていたものの、それが同じ聖騎士であるラペルだったのをハイゼルが気付く。
ラペルは今日は非番で私服だっために、パッと見ではわからなかったようだ。
ラペルはラペルで突然現れたハイゼルに目を丸くしている。
「ハイゼル・モルトじゃないか、お前こそ一体どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもありませんよ。店の前で怒声がして何事かと思えば先輩、あなたが居た。……今の声はコルト先輩ですか?まさかアユに向けてあんな荒声を?」
低い声でラペルにそう尋ねるハイゼル。
彼はラペルと話しながらアユリカを背に庇うように立った。
ハイゼルとアユリカの関係を妻のセィラから聞いていたラペルが、ばつが悪そうな顔をする。
ハイゼルの登場により急に冷静になったのだろう。
聖騎士として女性に声を荒らげるなど基本あってはならない事だ。
「いや、すまない……つい口論になってしまい……」
「アユと口論……?なぜそんな事態に?アユが誰かと言い争うなど余程の事ですよ」
事情をわからずとも無条件でアユリカを擁護するハイゼルに対し、ラペルが言う。
「しかし彼女は部外者であるというのに、人の妹に対し失礼な発言をしたんだぞ」
「ならば間違いなく、先輩の妹さんに問題があるんでしょう。部外者であるなら尚更、アユが口出しするなんて相当問題アリなんでしょうね」
「なっ……何を根拠に」
ラペルのその言葉にハイゼルは毅然として答える。
「根拠というものを指し示さねばねらないのなら、そうですね……子どもの頃からよく知る彼女の人柄がそれですね。アユは大人しく引っ込み思案に見えて、実は育ての親であるポム小母さん譲りの気概のある性格だ。普段は控えめでも言うべき時はちゃんと言う。それが俺の知るアユリカだからです」
「ハイゼル……」
ハイゼルの背中越しから聞こえるその言葉に、アユリカは胸が熱くなるのを感じた。
アユリカがハイゼルを見てきたように、ハイゼルもまたアユリカを見てくれていたのだ。
成長するにつれ心身ともに距離が空き、背中合わせになりながらも、それでも誰よりも近く互いを見つめてきた。
その事が今、ハイゼルの澱みない言葉に表されている。
アユリカはハイゼルの広く、大きな背中を見た。
彼の背中を頼もしく思い、そして同時に言い様のない安心感を得ている。
かつては彼のこの背に拒絶の心を感じていた。
だから抱いていた恋を諦めたのだ。
だけど一度離れて、互いに少しだけ成長して。
そしてハイゼルはアユリカが諦めた恋を拾い携え、追いかけて来た。
一年前には予想だにしなかった事だ。
一年前の自分が知れば、さぞ驚く事だろう。
そんな事を考えていたアユリカに、ハイゼルが顔を向けて言う。
「というわけでアユ、事情はよくわからんが思いっきり言ってやれ。とても大切な事なんだろう?」
「大切な事……」
アユリカはセィラを見た。
困惑した表情で自分の夫を見る彼女を。
そしてアユリカはハイゼルの背後から一歩足を踏み出し、再びラペルと向き合う。
言いたい事はほとんど言った。
ただ最後に、どうしてもこれだけは告げたい。
「……ラペルさん、妹さんがあんな調子では今後もトラブルは起き続けると思います。その度に被害を受けるのはセィラさんと、やがて生まれてくるお子さんでしょう。酷な事だとわかっていても敢えて言わせていただきます。本当に守りたいのはどちらか、大切なのはどちらか。あなたは選ばなくてはならないと思います。」
「そ、そんな……選ぶだなんて……家族を天秤に掛けて選ばなくてはならないなんて……」
「そんな状況にまで、あなたと妹さんは極端な行動を続けて自ら追いやったんです。どちらと歩む人生を選ぶか、あなたは決断しなくてはならない。だって、セィラさんはもう決断されたんですから」
「セィラが決断を……?だから出て行ったというのか……?それはつまり、俺との生活に見切りをつけたという事なのか……?」
動揺が激しく、力ない声になるラペルがセィラを見る。
セィラは何も言わず、ただ真っ直ぐな眼差しでラペルを見つめ返した。
「っ……」
その眼差しが意味するものをようやく理解したラペルが息をのむ。
「そんなっ……妻か妹か……どちらかを選ぶなんてっ……そんな事、そんな必要はないはずだっ……!」
そう言って頭を抱えて狼狽えるラペル。
アユリカもハイゼルもセィラも、何も言わずに彼のその姿を見守った。
その時、
「人生の選択は、往々にして訪れるものですよ」
と言う声と当時に店のドアが開く音がした。
そしてゆっくりと、力強い足音が店内に響く。
店に入って来たのは古くからの常連客である、筋肉紳士のザウル・カーマインだった。
「いらっしゃいませ……あら?カーマインさん……?」
その姿を見て、アユリカが目を丸くする。
彼の様相が、具体的に言うならば服装がいつもと違っていたからだ。
彼は、カーマインは聖職者の装束を見に纏っていた。
それも、位の高い聖職者の装束を。
唖然とするアユリカを他所に、ハイゼルとラペルが同時に声を発した。
「「副司教様」」
それに対し、今度はアユリカとセィラの声が重なる。
「「え?」」
アユリカが退役した老騎士だと推測していたザウル・カーマイン。
彼こそがハイゼルが直属の護衛騎士として使える、大陸国教会の副司教だったのである。